第10話 実家からの手紙
八日目の朝も、夜明けの詰所で胸を叩いた。線は、動かなかった。
とん。乾いた音。とん。乾いた音。とん。湿った土の音。
昨日描き足した、胸の絵の二本目の線と、同じ場所だった。
「同じです」
「同じなら、いい」
カイル様は、ボタンを留めながら言った。言いながら、私の手元の帳面を、ちらりと見た。
「……書いたか」
「何をですか」
「速い、と」
「書きました」
「……そうか」
カイル様は、窓の外を向いた。今朝は、どこか満足そうだった。
三日目には「書かなくていい」と言っていた人が、八日目には「書いたか」と聞く。帳簿は、続けてつけると、つけた人の知らないことまで教えてくれる。
*
昼前、かもめ亭に戻ると、マーサさんが、分厚い封筒を振っていた。
「あんたに手紙だよ。返事が来たのかい」
一瞬、胸が跳ねた。国じゅうに出した二十三通の、どれかの返事かと思った。
けれど、封筒の字には、見覚えがあった。
『ルミエ港 かもめ亭 フローラお嬢様』
元侍女の、ジューンの字だった。
夏の盛りに一度、手紙をくれた。旦那様は帳簿の前で三日寝込まれました、と。あのとき私は、返事を書かなかった。
封筒は、夏の手紙の三倍は厚かった。
私は、それを持って、桟橋の端へ行った。
*
『フローラお嬢様
お体の具合は、いかがですか。
港町は、もう風が冷たいころでしょう。お嬢様は、昔から、寒くても上着を羽織るのをお忘れになるので、心配です。
屋敷のことを、お知らせします。
旦那様は、帳簿をロザリー様にお任せになりました。お任せになった、と申し上げるより、ロザリー様が、旦那様の机から帳簿を持っていってしまわれた、と申し上げるほうが正しいかもしれません。
ロザリー様は、毎晩、書斎で遅くまで帳簿を開いておいでです。夏ごろのように泣きながら、ではありません。この頃は、黙って、ペンの先で数字を一つずつ追っておいでです。
お嬢様が十五の頃から座っていらした椅子に、今は、ロザリー様が座っておいでです。
先日、ロザリー様は、ハーウッド家に督促状をお出しになりました。三日後、ハーウッド家の執事様が、真っ青なお顔でお屋敷にいらっしゃいました。
「婚約が解消になった以上、両家の貸し借りも、水に流すのが筋ではございませんか」
そうおっしゃるのを、ロザリー様は最後までお聞きになってから、帳簿の写しを一枚、机にお置きになりました。
「水に流すのは、お返しいただいてからにいたします。期日は、来月の末日です」
執事様は、写しを持つ手を震わせて、何もおっしゃらずにお帰りになりました。
お嬢様が昔、旦那様のご友人の借金を取り立てられたときと、そっくり同じお言葉でした。
旦那様のお机の引き出しには、封を切っていない手紙が溜まっております。差出人は、町の商人の方々のようです。旦那様は、引き出しを開けるたびに、そっとお閉めになります。
最後に、ロザリー様から、お嬢様にお渡しするようにと、もう一通お預かりしております。中は、見ておりません。
ジューン』
水に流すのは、お返しいただいてから。
十七の歳に、父の古い友人の前で、私が言った言葉だった。あのとき、廊下の扉が細く開いていたのを、覚えている。
あの子は、あそこで聞いていたのだ。
封筒の底に、もう一通、小さな封筒が入っていた。
宛名は、『お姉様へ』。
丸くて、少し右に傾いた字だった。小さいころ、私が手を取って教えた字だった。
*
開けるまでに、しばらくかかった。
夏の手紙には、こう書いてあった。お姉様はどうやってたの、と泣いている、と。
あのとき、私は返事を書かなかった。リストの六番目。誰の後始末もしない一日。それを叶える前の、一番難しい試験だった。
一人で合わせている、とジューンは書いていた。それでも、あの子が私にあてて書く手紙なら、きっと最後には、助けて、と書いてある。教えて、と書いてある。
私は、息を吸って、封を切った。
『お姉様へ
帳簿、三か月分、合いました。
お姉様が出ていった春からの分は、まだ半分も合いません。でも、この三か月分は、合いました。合ったとき、書斎で一人で、声を出して笑いました。ジューンに見られました。
一頁だけ、どうしても合わないところがあります。毎月、同じ日に、銀貨四十枚が「雑費」で出ています。何の雑費なのか、どこにも書いてありません。お父様に聞いたら、気にしなくていいと言われました。
それから、ハーウッド家への貸付の頁を見つけました。三年前から、一度も返ってきていませんでした。だから、督促状を出しました。私の名前で。ジェラルド様が、どんな顔をなさるか、見てみたかったです。
お姉様が出ていった日、お部屋の屑籠に、施療院の診断書が捨ててありました。それで、全部わかりました。
お姉様。
教えてくれなくていいです。
お姉様の残りの時間は、お姉様のものだから。帳簿なんかに使わないでください。
首飾りは、まだ一度もつけていません。お姉様が帰ってきたら、返します。
だから、帰ってきてください。
来年の春も、お姉様がいますように。毎晩、お祈りしています。
ロザリー』
*
最後の三行のところで、字が、ところどころ滲んでいた。
便箋の上に、ぽたりと落ちたものが、また一つ、滲みを増やした。
ロザリーは、知らない。
私が、もう死なないことを。
あの子は今も、姉の残りの時間を、毎晩、数えている。祈っている。自分の泣き言で、その時間を一刻も削らないように、一人で帳簿を合わせている。
欲しがりで、甘えん坊で、私のドレスも髪飾りも、気づけば全部あの子の部屋にあった。そういう妹だった。
その妹が、今、自分の手で、姉に時間を返そうとしている。
本当のことを書けば、あの子は泣いて喜ぶ。そして、父が知る。父が知れば、生きているなら戻れ、と言う。帳簿を、また私の机に積む。
書けなかった。
生きているのに。
もう一つの残りの時間を、本当に数えなければならない人が、この港にいるのに。
私は、手紙を膝に置いたまま、声を殺して泣いた。
*
「休む先生が、泣くのか」
うしろから、声がした。
振り返ると、カイル様が、焼き林檎を二つ持って立っていた。蜂蜜の匂いがした。
「……見回りは」
「ピップに、君が桟橋で手紙を読んでいると聞いた。手紙を読む顔ではなかった、とも」
カイル様は、私の隣に腰を下ろして、焼き林檎を一つ、私の手に乗せた。
何も、聞かなかった。
海鳥が一羽、桟橋の先に降りてきた。カイル様は、自分の林檎を、ひと口もかじらずに膝の上に置いていた。
私は、ロザリーの手紙を、カイル様に差し出した。
カイル様は、黙って受け取って、最後まで読んだ。
読み終えて、しばらく、海を見ていた。
「……いい妹だ」
「欲しがりで、甘えん坊なんです」
「今は、違うらしい」
カイル様は、手紙を丁寧にたたんで、私に返した。
「来年の春も、君がいますように、か」
その言葉を、カイル様は、声に出して読んだ。自分のことのようには、読まなかった。
この人の来年の春を、毎晩祈っている人は、いない。
騎士団には言うなと、この人が決めたから。
私は、林檎を両手で握りしめた。熱かった。
「返事を、書きます」
「教えるのか」
「教えません」
私は、首を振った。
「あの子は、教えてくれなくていいと書きました。だから、教えません。でも、一行だけ、書きます」
林檎を板の上に置いて、懐から、紙とペンを出した。膝の上の帳面を台にして、私は書いた。
『合わない数字は、全部の頁を見れば、必ず見つかります。』
それから、少し迷って、もう一行。
『首飾りは、似合うと思います。つけてください。』
生きている、とは、まだ書けなかった。
でも、帰らないとも、書かなかった。
最後に、紙のいちばん上に『ロザリーへ』と書き足したとき、ペン先が震えた。考えてみれば、生まれてはじめて、あの子に書く手紙だった。
「……それで、いいのか」
「いいんです。あの子は、もう一人で合わせられます。三か月分、合わせたんですから」
カイル様は、少しだけ口の端を上げた。
「督促状は、俺も見てみたかった」
「ジェラルド様の顔ですか」
「その手紙を出した妹の顔だ」
私は、泣きながら、少しだけ笑った。
カイル様は、膝の上の焼き林檎を、ようやくひと口かじった。
「妹の言うとおりだ」
「……何がですか」
「残りの時間は、その人のものだ。誰かの帳簿に使うものじゃない」
カイル様は、海のほうを見たまま言った。
「だから、俺の残りの使い道は、俺が決める」
「……何に、使うんですか」
「今日は、君が泣き止むのを待つのに使った」
真顔だった。
私は、板の上の焼き林檎を両手で持って、顔を伏せた。熱くて、甘くて、また泣きそうになった。
「……もったいない使い方です」
「そうか」
カイル様は、ひと口かじっただけの林檎を、海鳥には投げなかった。私の林檎の上に、そっと乗せた。
「なら、これで帳尻を合わせておけ」
私は、ふたつ重なった林檎を見下ろした。帳簿で言えば、どう見ても、こちらの借りすぎだった。
*
夕方、かもめ亭に戻ると、マーサさんは私の顔を見て、何も言わずに、夕食の皿に魚を一匹多く乗せた。
その夜、二階の部屋で、ロザリーの手紙をもう一度読んだ。
毎月、同じ日に、銀貨四十枚。雑費。
私の帳簿に、「雑費」という行は、一つもなかった。十五の歳から、銅貨一枚にまで名前をつけてきた。名前のつかないお金は、帳簿の中でいちばん危ないお金だと、自分に言い聞かせてきたから。
その行を、私が家を出たあとに、誰かが書いた。
お父様に聞いたら、気にしなくていいと言われました。
私は、その一行を、指でなぞった。
気にしなくていい、と父が言うとき、それは、いつも、いちばん気にしなければいけないことだった。
窓の外で、港の見張り台に、灯りがともった。
梯子を、黒い人影がのぼっていく。夜の見張りの交代だ。
途中で、人影が止まった。
一度。
少しのぼって、もう一度。
三段のぼって、三度目。
私は、窓に額を寄せたまま、人影がてっぺんにたどり着くまで、目を離せなかった。
てっぺんの灯りの下で、人影は、しばらく手すりにもたれたまま動かなかった。
胸の絵の線は、今朝、動かなかった。
けれど、梯子の上で止まる回数は、増えていた。
期限まで、百六十七日。
ロザリー(18)。フローラの妹。帳簿を三か月分、自分で合わせた。首飾りは、まだつけていない。
次回、返事の来ない手紙。
期限まで あと167日
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