第1話 農村の記憶
夢を見ていた。
土の匂いがした。
村の朝は、いつも父の足音で始まった。まだ暗いうちから畑へ向かう、あの重い足音。母は台所で火を起こしていた。妹のリナは隣で丸くなって眠っていた。弟のユウは夜中に泣いて、朝になるとけろっとしていた。
あの頃は、それが当たり前だった。
飢饉が来たのは、僕が五つの年だった。
雨が降らなかった。土が割れた。父がどれだけ畑を耕しても、何も育たなかった。母は毎晩ユウに薄い粥を食べさせながら、自分は食べなかった。リナは空腹でも笑おうとしていた。あの子はいつもそうだった。笑うことで、誰かを安心させようとしていた。
教会の馬車が村に来たのは、そんな日の午後だった。
白い馬車だった。聖職者たちが食糧と薬を配った。泣いて礼を言う村人たちの前で、代表の男が穏やかな声で言った。
「神は皆さんを見捨てていません。ただ、助けにはいつも代償が必要です。才能ある子どもを、教会でお預かりします。神のために育て、神のために働かせます。その子の家族は、教会が必ず守ります」
誰も最初は手を挙げなかった。
聖職者の一人が、村人たちの顔を一人ずつ見ていった。そして僕の前で止まった。
「この子は魔力を持っている」
男は静かに言った。
「それも、相当な量を」
村の誰も、僕に魔力があるとは知らなかった。僕自身も知らなかった。
父が僕を見た。母も見た。リナは袖を握った。ユウは母の腕の中で眠っていた。
「僕が行きます」
自分の口から出た言葉だった。
家族を生かすためだった。選ばれたなら、行くしかなかった。
父が初めて泣くところを見た。
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目が覚めた。
石造りの天井。
十年経っても、朝に目を覚ますたびに一瞬だけ、あの土の匂いを思い出す。次の瞬間には消える。今ではそれが僕の朝の始まりだった。
起き上がり、剣を手に取った。刃の具合を確かめる。鞘から抜いて、光に当てる。曇りはない。いつも通りだ。
訓練場へ向かった。
廊下を歩くと、若い聖職者たちが頭を下げた。
「勇者様」
そう呼ばれるたびに、背筋が伸びる。
訓練場では、いつも通り剣を振った。一時間、体が覚えている動きを繰り返す。汗が出る。息が上がる。終わった頃には、余計なことを考えなくて済む。
それが訓練の一番の意味だと、僕はずっと思っていた。
「アレン」
アウレリウス司教が入り口に立っていた。
白い法衣。穏やかな目。この人の顔を見ると、少しだけ緊張が解ける。十年間、ずっとそうだった。
「顔色が悪いな。昨夜は眠れなかったのか」
「問題ありません」
「そうか」
アウレリウスは小さく頷いた。
「無理をしていないならいい。少し話せるか」
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執務室は静かだった。
アウレリウスは椅子に腰掛け、両手を組んで僕を見た。急かす様子はない。この人はいつもそうだ。どんな話をするときも、急がない。
温かい茶が二つ、テーブルの上にあった。
「まず飲みなさい。体を冷やしたままでは、判断を誤る」
「はい」
僕は茶を口にした。
温かかった。
アウレリウスはそれを見届けてから、静かに言った。
「君に、最初の使命を与える」
僕は背筋を伸ばした。
「標的は、エルドリック・セレーン」
聞いたことのある名前だった。
六英雄共和国の英雄。二十年前、聖王国から武力で独立した反逆国家。教会に反旗を翻した六人の英雄が建国した国だ。エルドリックはその一人で、人間と魔族の間に休戦協定を結んだ男だった。
教会ではこう教えられていた。神の秩序を否定し、魔族と手を結んだ危険な思想家。民を惑わせ、聖王国の権威を脅かす存在。
「……なぜ今なのですか」
「話そう」
アウレリウスは立ち上がり、窓の外を見た。
「エルドリックは間もなく、聖王国内で和平の演説を行う予定だ。民衆に直接語りかけ、教会の教えに疑問を持たせようとしている。それが実現すれば、聖王国の内部から秩序が崩れる。今が最後の機会だ」
振り返った。
「これは暗殺ではない。世界を守るための処刑だ」
僕は黙って聞いた。
アウレリウスは一歩近づいて、静かに続けた。
「君の村への支援も、君が勇者であるから続いている。それは忘れないでくれ」
忘れるはずがなかった。
「はい」
声は揺れなかった。
揺らす理由がないと思っていたから。
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出立の朝、礼拝堂の前でリディアと会った。
教皇の娘。僕の許嫁とされている人。白い衣装が似合う、静かな人だ。
「アレン」
彼女は胸の前で手を組んだ。
「あなたは神のために働いているのですよね。あなたが迷わずにいられるよう、私も祈っています」
「迷うことはありません」
即答だった。
リディアは微笑んだ。安心した顔だった。
「行ってらっしゃい。必ず帰ってきてくださいね」
馬に乗って、教会の門を出た。
リディアの祈る後ろ姿が小さくなっていく。
迷うことはない。
アウレリウスが正しいと言えば正しい。
リディアが信じてくれている。
家族を守るために来た場所で、家族を守るために動く。
それだけのことだった。




