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根のない男 ―― 夜の街で、居場所をつくる  作者: 早瀬 構


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第7話 前店長の置き土産

1983年3月31日(木) 01:10


一


「油臭いのは、昔ボイラー室だった名残でしょうね。どうぞ」


 中原は、錆びた扉を押さえたまま、俺を招き入れた。


 室内は真っ暗だった。俺は壁際を手探りし、ようやく指先にスイッチを見つける。


 ジジジ……。


 グロースターターが羽虫のような音を立て、蛍光灯が何度か明滅したあと、ぼんやりと点灯した。


 饐えた油の匂いが、微かに鼻腔を刺激する。


 ボイラーはすでに撤去されていた。配管を外した跡と、黒ずんだコンクリートの床だけが残っている。


 その蛍光灯の真下に、机と椅子が一組。


 まるで刑事ドラマの取調室だ。


 机上にはポータブルラジカセと紙ファイル。周囲には、段ボール箱が五つ置かれている。


「私も立ち会っていて……よろしいですか」


 中原が問いかける。


 断る理由はない。


「お願いします」


 俺は机上の紙ファイルへ視線を移した。


 向かい側に立つ中原にも見えるよう、ファイルを開く。


 表紙には、「定期研修記録」。


 最初の一枚に目を通す。


――日付、時間、嬢の源氏名。

――使用した部屋。

――行った「研修」の内容。

――嬢の身体や反応に対する、詳細で下卑た評価。

――今後の「取扱い」に関するメモ。


 数枚めくっても、書かれていることは大差なかった。


 中原が嘆息し、舌打ちする。


「チッ……女の品評表じゃないか」


 俺はさらに二、三枚だけ確認した。


 もう十分だった。


 少なくとも、俺が知っている「研修」の記録ではない。自分の欲求を満たした行為を、業務記録の体裁に整えただけに見える。


 二百枚近くの紙を綴じたファイルを閉じ、俺は一度だけ天井を仰いだ。


 前店長は、社長から御殿を任されたことで、大きく勘違いしたのだろう。


 誰も自分を咎めない。だから、自分が好きにしていい。


 おそらく、それだけだ。


 机の傍らには、「定期研修資料」と殴り書きされた段ボール箱がある。


 蓋を開けると、クリップ留めされた「研修参加確認書」と、コンパニオンのポラロイド写真が出てきた。


 箱へ放り込んでいくうちに、自然と時系列に積み上がったらしい。整理したというより、ただ溜め込んだだけに見える。


 確認書には、コンパニオンたちの手書きが並んでいた。


――日付、時間、嬢の源氏名。

――受けた「研修」の内容と感想。

――今後のフリー客や指名割り振りへの要望。

――「研修」に関する一切の守秘誓約。


 その下には、震えたような筆跡の署名。


「……人間のやることじゃない」


 中原は手で口元を押さえながら、微かにうめいた。


 いや、これは人間がやったことだ。


 重要なのは、そこではない。


 誰が何をして、何を残したのか。


 俺がいま確認すべきなのは、それだけだった。


二


 俺は床に直置きされた段ボール箱を、順番に開けていった。


 三箱には、十六分カセットテープが大量に収められている。


 インデックスには、日付と源氏名。


 一本を手に取り、裏返す。


 ほかに記載はない。


 内容は分からない。ただ、この部屋に置かれ、日付と源氏名だけが付されている以上、ろくな用途ではなかったのだろうとは思う。


 数を目で追う。


 七百本近くありそうだ。


 最後に、やや小ぶりの段ボール箱を開ける。


 こちらには、百二十分テープが百本ほど。


 インデックスには、日付、源氏名。それに客の実名。


 十六分テープとは、明らかに管理の仕方が違う。


「こ、これは……」


 中原の声が震えた。


「店長。我々の手には負えません」


「そうですね」


 俺もそう思う。


 聞けば何か分かるのだろうが、ここで再生する理由はない。


 俺は机の袖引き出しを開けた。


 中に通帳が一冊ある。


 あかね信用金庫。前店長の名義。


 その傍らには印鑑。


 通帳を開く。


 入金の並びを追っていくと、これまで帳簿から拾った不自然な数字の動きと、時期がかなり重なっていた。


 残高は、二千万円を少し超えている。


 だが、それだけでは何も断定できない。


 この金がどこから来たのか。御殿とどこまで関係しているのか。それを決める材料は、いまの俺にはない。


 俺は通帳を閉じた。


「店で抱える話ではありませんね」


「……す、捨てましょう」


 中原が俺を見る。


「焼き捨てるんです。店にも焼却炉がある!」


「それは出来ません」


「でも……!」


「これは、社長に上げる話です」


 俺は通帳と印鑑を机へ戻した。


「社長に任せるべきです」


 何がどこまで前店長の不正を示すものなのか、俺には、まだ分からない。


 テープの中身も聞いていない。通帳に入った金が、すべて御殿から抜いたものとも限らない。


 ただし、俺の判断で捨てていい物ではない。


「中原さん。リネンカートを持ってきて下さい」


「……運ぶんですか」


「全部です」


 中原はしばらく俺を見ていたが、やがて黙って部屋を出ていった。


 数分後、空のリネンカートを押して戻ってくる。


 俺たちはファイル、確認書、写真、カセットテープを順番に積んだ。


 通帳と印鑑は紙袋へ入れ、カートの奥へ差し込む。


 箱は思った以上に重かった。


 最後の一箱を載せたところで、カートの車輪が小さく軋んだ。


 中原が低い声を出した。


「店長」


「はい」


「……俺は知らない。見なかった。それでも……いいですか」


「ええ」


 俺はカートの荷崩れを確認する。


「そうすべきです。関わる人間は、少ない方がいい」


 中原は、しばらく黙っていた。


 それから、アメニティ倉庫の灯を消す。


 俺はカートの取っ手を握った。


「いまの時間なら、アポなしでも社長に会えるはずです。行ってきます」


「くれぐれも、気を付けて……下さいよ」


「はい」


 通用口から外へ出る。


 春の夜風が、少し肌を刺した。


 カートの小さな車輪が、舗装の継ぎ目を越えるたび、ガラガラと乾いた音を立てる。


 深夜のあかね楽天地には、その音だけが妙に響いた。


 この件に関して、俺の仕事はここまでだ。


 あとは、社長がお考えになること。


三


 午前二時過ぎ。


 俺はプラチナムの通用口に立った。


 十五分ほどカートを押したせいで、手のひらが少し痺れている。


 建物を見上げる。


 最上階に灯りがある。


「まだ、おられる。……助かった」


 俺はインターホンを鳴らした。


 しばらくして、不機嫌極まりない声が返ってくる。


『こんな時間に誰だっ。死にてえのかコラ』


「田中です」


『公児かっ。何の用だコラ』


「お届け物がありまして」


 一拍、間があった。


『何だ』


「量が多いので、直接ご説明します」


 ブツッ。


 インターホンが切れた。


 三分もしないうちに、若手の黒服が通用口を開ける。


 目をこすっていた。


 俺の顔を見るなり、げんなりした表情になる。


「なんすか、公児さん? ……勘弁して下さいよ、ったく」


「仮眠中、すまなかった。社長、入っていいって?」


「知りませんよ。相当、怒ってますよ……」


「そうか」


 黒服が道を空ける。


 俺はリネンカートを押しながら、プラチナムへ入った。


 あとは勝手知ったる経路だ。


 案内はいらない。


 エレベーターで最上階へ向かう。


 エレベーターが上昇する間、積み重ねた段ボール箱同士が僅かに擦れた。


 扉が開く。


 廊下へ一歩踏み出す。


 その瞬間、胸ぐらをつかまれた。


「社長。夜分遅くすみません」


「あらかじめ聞いておく」


 社長が俺を睨み上げる。


「くろがね山か、あかね湾か。どっちだ」


「まずは話をお聞き頂いてから、お答え申し上げます」

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