第6話 行き場の恐怖
1983年3月31日(木) 00:40
一
夜番は、ほとんど上の空だった。
交替で仮眠に入っても一睡もできず、目を閉じるたび、中原の問いが頭の中へ戻ってくる。
――アンタを動かしてるのは、一体、何なんです?
だが、中原は「何か」と尋ねた。「誰か」でもなく、「何のためか」でもない。
義務。利益。公平。役割。習慣。嫌悪。
いくつか言葉を並べてみても、どれもしっくりこない。
(……分からない)
コンパニオンを送り出し、黒服たちとの閉店作業を終える。
売上を確認し、現金を金庫へ収めたところで、腕時計は午前零時四十分を指していた。
「店長」
中原が声を掛けてきた。
「一杯、やりませんか」
俺の返事を待たず、中原は事務所の棚からジョニ黒を取り出した。
紙コップを二つ並べ、その片方へ少し注いで俺に差し出す。
「ご心配なく。自前ですよ」
「はぁ……」
断るほどのことでもない。
俺は紙コップを受け取り、恐る恐る唇を湿らせた。
喉と唇が熱い。
正直、俺はほぼ下戸だ。
一方の中原は、自分の紙コップへ注いだジョニ黒を、慣れた様子で一口飲んだ。
「私は、アンタが……社長の回し者だと思ってましたよ」
「回し者……」
「確かに、社長から辞令を受けて来ましたから」
「ははっ」
中原が声を漏らした。
「店長。アンタ、面白い方ですね」
「そうですか」
「ええ」
中原は肩をすくめ、ため息をついた。
何か昔のことでも思い出すように、しばらく宙を見つめる。
それから、静かに口を開いた。
二
「私を動かしているのが何かと問われれば、それは、行き場を失う恐怖です」
中原は自嘲するように鼻を鳴らし、紙コップを傾けた。
「中学を出て、町工場へ入りました。二年ほどで、そこが潰れましてね」
「……」
「それから流れ流れて、この世界です。気がつけば二十年ですよ」
俺は黙って聞いた。
「私だけじゃありません。黒服にも、コンパニオンにも……ここを辞めたところで、行く場所がない人間は多い」
中原は紙コップの酒を揺らした。
「だから、前店長に何をされても、そう簡単には辞めない」
まさに、俺が考えていたことだった。
給与を削られ、報奨金を取り上げられ、それでも中原たちが残っていた理由。
「逆に、私が誰に動かされているか、と聞かれたら、悩んだでしょうね」
「……」
「店長。アンタはその逆です」
中原が俺を見る。
「きれいすぎる」
「きれい」
「ええ」
中原は頬の筋肉を緩めた。
「そのきれいさが、アンタを動かしてる。私には、そう見えました」
「俺はグループで五年、飯を食っています」
「だから?」
「社長に拾ってもらわなければ、どうなっていたか分かりません」
中原は少しだけ目を細めた。
「それでもですよ」
「……」
「アンタは、五年が二十年になったって、必要なら別の道を選ぶ人に見える」
「俺も、行き場のある人間ではない」
思わず口から出た。
中原はしばらく俺を見たあと、ゆっくり首を振った。
「非難したわけじゃありませんよ」
「……」
「行動原理が違う、と言っただけです」
俺は紙コップの中身を見た。
まだほとんど減っていない。
意を決して、一息にあおってみる。
「げほっ……!」
喉が焼けた。
顔まで一気に熱くなる。
慣れないことをするものではない。
咳き込む俺を見て、中原が苦笑いした。
「店長。だから、日曜日の夜は意外だったんですよ」
「……?」
「他人事みたいに、社長が差し入れた寿司を食べてましたね」
「……あれですか」
「ええ」
「コーチ屋の真似事が、まぐれ当たりした礼でしょう」
「そういうところですよ」
「……?」
「店長が本当に社長の回し者なら、あんな食べ方はしない」
「食べ方ですか」
「もっと馴れ馴れしいか、逆に社長を意識して焦るか。どちらかでしょう」
俺にはよく分からない。
ただ、中原は人のそういうところを見ているらしい。
「それに……」
中原は紙コップを机へ置いた。
「アンタの働き方も、私たちへの指示も、コンパニオンへの接し方も、全部同じだった」
三
「店長。アンタは単に、この店の店長をしてた」
「……そうですね」
「小細工なしで、御殿をそのまま立て直そうとしてた」
「……そう、なりますかね」
「私たちやコンパニオンが、あんな状態になっているのを見ていられなかった」
俺は返事をしなかった。
「それで、何か……大きな問題も見つけた」
思わず、中原を直視する。
この人こそ、社長に何か言い含められているのか。
どちらでも、やることは変わらない。
調べるべきことを調べ、直すべきところを直すだけだ。
中原は俺の視線を受け止めたまま、言った。
「前の店長、アンタが来る一週間くらい前から、無断欠勤してたんですよ」
「……へっ?」
「そのまま戻ってきませんでした」
俺は眉を寄せた。
社長は、前店長を「昨日クビにした」と言っていた。
無断欠勤していた男を、正式にクビにしたということか。
「アンタが来る二日前、社長の……部下が三人来ましてね」
中原は言葉を選ぶように間を置いた。
「事務所と前店長のロッカーを、全部ひっくり返していきました」
(……アッチの筋か)
役得やバックマージンが発覚した。
それで前店長が逃げ、社長が証拠を探させた。
あるいは、単に無断欠勤へ腹を立て、不正でもしていないか調べさせた。
どちらなのかは、まだ分からない。
「私たちは、何も聞かれませんでした」
「何も?」
「ええ。問い詰められもしなかった」
中原が鼻を鳴らした。
「社長にとっちゃ、私ら黒服なんて石ころみたいなもんですからね」
少なくとも、中原たちまで疑われていた様子はない。
前店長の不正を社長がどこまで把握していたのかも、まだ分からなかった。
「私たちも……」
中原の声が低くなった。
「前の店長がやってたこと、うすうすは分かってました」
「……そうでしたか」
「全部じゃありませんよ。でも、まともじゃないことをしてる。それくらいは」
中原は深く息を吐いた。
「言ってみれば、同罪です」
「……」
「特に私は罪が重い。チーフ、ですから」
俺は中原の手元を見た。
紙コップを持つ指が、小刻みに震えている。
酒のせいではないだろう。
「止めなかった」
中原が呟いた。
「コンパニオンが何されてるか、知らないふりをした。給料を削られても、大入りがなくなっても……黙ってた」
「……」
「自分が追い出されるのが、怖かったからです」
俺には、返す言葉がなかった。
四
「その石ころが……」
中原が紙コップを机へ置いた。
「アンタに、何か見つけてやれるかもしれません」
「……?」
「前店長が使ってた場所があります」
「場所」
中原は立ち上がった。
そのまま事務所の出入口へ向かい、俺を手招きする。
「来て下さい」
俺も席を立った。
中原に続いて、照明を落としたロビーを横切る。
営業中はきらびやかなシャンデリアも、閉店後は暗い。
俺たちはアメニティ倉庫へ入った。
棚にはボディーソープやシャンプー、衛生用品の箱が整然と積まれている。
中原はその間を抜け、一番奥まで進んだ。
壁際に、段ボールがいくつも積み上げられていた。
「これです」
二人で段ボールを脇へ動かす。
奥から現れたのは、壁ではなかった。
錆びた鉄製のドア。
取っ手には、古びた南京錠が掛かっている。
「こんな所……あったんですか」
「昔からあります。物置みたいなもんです」
中原は一番奥の棚へ手を伸ばした。
天板の上を探り、薄汚れた小さな鍵を取り出す。
「前の店長が使い始めてから、誰も入らなくなりました」
「中原さんも?」
「ええ」
鍵を南京錠へ差し込む。
だが、中原はすぐには回さなかった。
俯いたまま、呟く。
「何があるか、私にも分かりません」
「……」
「今さらですけどね」
ようやく鍵が回った。
南京錠が、カチリと鳴る。
中原はそれを外し、錆びた取っ手へ手を掛けた。
きしみながら、ドアが開いた。




