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根のない男 ―― 夜の街で、居場所をつくる  作者: 早瀬 構


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第5話 見えない動機

1983年3月29日(火) 11:00


一


 午前十一時の朝礼も、やっと板に付き始めた。


 磨き上げられたロビーに、コンパニオンたちが揃って並ぶ。やはり、こうでなければ高級店らしくない。


「おはようございます」


「お寿司、美味しく頂きました」


 穏やかに挨拶を返してくる。


 しかし、何かがおかしい。


 朝礼が終わると、俺の近くにいたコンパニオンがさりげなく離れる。廊下ですれ違えば会釈はするが、目が合わない。


 俺が事務所へ入ると、ロビーに残った何人かの声が少しだけ大きくなる。


(……避けられてるな)


 理由が分からない。


 俺はコンパニオンを怒鳴っていない。もちろん、殴ってもいないし、触れてもいない。


 業務上必要なこと以外、こちらから話しかけることすらほとんどない。


(やっぱり、寿司か……)


 社長直々の差し入れなど、余計なことをしてくれたものだ。


 新しい店長が来た途端、社長から一人一万円の寿司が届いた。事情を知らなければ、社長の息が掛かった人間とでも思うのだろう。


 俺は小さく息を吐いた。


 仕事をすれば、そのうち分かってもらえる。そう考えるしかなかった。


二


 午後四時。


 広告代理店との打合せを終えて店へ戻ると、通用口脇の喫煙所に一人の女性がいた。


 壁にもたれ、タバコをくゆらせている。


 確か、みほというコンパニオンだ。


 目くじらを立てるほどのことではない。


 客が付いておらず、いつでも接客に入れる状態なら、少しくらい息を抜く時間があってもいい。


 待機室や部屋で吸われて、髪や衣服にタバコの臭いを残される方が困る。


 俺はそのまま通り過ぎようとして、足を止めた。


(……聞いてみるか)


 今朝から気になっていたことがある。本人たちに聞かなければ、いつまでも分からない。


 俺はみほへ軽く会釈した。


「みほさん。コーヒーでも、いかがですか」


 みほがタバコを口元から離した。


「……ブラックでお願いします」


 語尾の「す」に、柔らかなイントネーションが乗る。


 源氏名を呼んでも、驚いた様子はない。事務所には、在籍コンパニオンの写真と源氏名が掲示されている。


 喫煙所脇の自販機はドリップ式。味はさほど悪くない。二つ買い、片方の紙コップを差し出した。


「どうぞ」


「おおきに」


 みほは受け取ったコーヒーへ息を吹きかけ、一口すする。


 俺も隣へ立った。


「少し……教えてほしいんですけど」


「取り調べ、ですか?」


「そ、そんな……取り調べなんて」


 みほが僅かに口元を緩めた。


「……かましまへんよ。聞いて下さい」


 タバコをくゆらせ、紫煙を吐き出す。


 さて。何から聞けばいい。


 こういうとき、世間話の一つでも挟んでから本題へ入るのが普通なのだろう。


 しかし、今さら天気の話をするのも妙だ。


 自分でも話の組み立て方が下手だと思う。


「コンパニオンのみなさん、俺を避けてるようでして」


 みほの眉が僅かに上がった。俺を見やり、すぐに視線を落とした。


「……」


 ため息と一緒に、細い煙が流れる。


「なにかその……俺や営業の方法に、不都合がありましたか」


 みほは答えなかった。


 表情を消したまま、タバコの灰を落とす。


 それから、微かに舌打ちした。


三


「店長は、しはらへんのですか?」


「何をですか」


「定期研修」


 俺の手が止まった。


「定期……研修……」


 昨日から調べていた、その言葉だった。


 みほが顔を上げ、俺をしげしげと眺める。


 何をいまさら聞いているのか、とでも言いたげだった。


「週二回。前の店長は、してはった」


「……誰にですか」


 みほは鼻を鳴らした。


「ふっとい借金持ってる子選んで」


 一拍置く。


「……ウチも、借金……残ってるさかい」


 それきり、みほは黙った。


 俺には、それで十分だった。「実技指導」のことか。


 新しく採用したコンパニオンに、店長が行う接客指導。プラチナムの片桐店長は「趣味じゃない」と言い、先輩コンパニオンを選んで任せていた。露骨な役得になるということで、あかねナイトグループでは四年前に店長やチーフによる指導は廃止されたはずだ。


 御殿では「定期研修」と言い換えて続いていた、ということだろう。「定期研修収入」の見当もつく。俺の背中に、冷たいものが走った。


「俺は……しません」


「あ、そう」


 俺の言葉を覆うように、みほが最後の紫煙を吐き出した。


 紙コップに残っていたコーヒーを飲み干し、壁から背を離す。


「ごちそうさんでした」


「いえ」


 みほはそれだけ言って、店内へ戻っていった。


 俺はその背中を見送った。


 信じてもらえたとは思わない。安心したようにも見えない。ただ、聞かれた。


 だから、俺も答えた。


 五日間追ってきた数字に、ようやく意味が通った。


 歩合の切り下げ。消えた報奨金。高くなった仕入れ。コンパニオンから徴収する雑費。


 そして、定期研修収入。


 俺は事務所へ戻った。


 椅子に深く腰掛け、目を閉じた。


四


 翌三月三十日、午後四時。


 俺は釈然としないものを抱えたまま、アメニティ倉庫で在庫を確認していた。


 御殿の現状は、ほぼ把握できた。


 建物も設備も、人間も、完全に壊れているわけではない。


 必要なところへ手を入れれば、業績は戻せる。


 コンパニオンたちも同じだ。


 俺が前店長と同じことをしないと分かれば、いずれ警戒も解けるだろう。


 中原。小野寺。西本。黒服三人も、前店長のおこぼれにあずかっていたようには見えない。


 給与は削られ、大入りも報奨金も消えている。つまり、コンパニオンと同じように搾られていた側だ。


(なぜ辞めなかった)


 俺なら――。


 そこで考えが止まった。


 俺なら、どうしただろう。答えが出ないまま、棚の大型ボトルへ視線を戻す。


 ボディーソープ。シャンプー。リンス。うがい用の消毒液。


 いずれも業務用の大容量で仕入れている。


 俺は通用口へ移動し、その脇に置かれたゴミ箱を覗いた。


 空容器に混じって、ローションのボトルが一本捨てられている。


 拾い上げる。三分の一ほど残っていた。


「……もったいない」


 蓋を閉める。


 定期的に回収して詰め替えれば、経費は削れる。


 一本なら大した金額ではない。


 だが、毎日これが何本も出る。一か月、一年と積み上げれば、無視できる額ではない。


 頭の中で数字を追い始めたところで、背後から声がした。


「アンタ……そこまでやりますか」


 振り返る。


 中原が通用口に立っていた。


 腕を組み、俺の手にある半端なローションのボトルを見ている。


 裏通りの路地に面した通用口。


 夜番前のこの時間は、人通りもほとんどない。


「捨てるには残りすぎています」


「そういう話じゃないですよ」


「?」


 中原が深くため息を吐いた。


「店長。……アンタ、変わってますね」


「変わってますか」


「ええ」


 中原は俺を見たまま、しばらく黙っていた。


 いつもの苦笑いもない。


「アンタを動かしてるのは……」


「……」


「一体、何なんです?」


 社長に命じられたから。御殿の店長だから。


 六月末までに、上納利益を前年度平均に対して二十パーセント増やす必要があるから。


 そういう問いなら、いくらでも答えられる。


 だが、中原が聞いているのは、そういうことではない。


 誰だ、と問われれば答えられる。何をする、と聞かれても答えられる。


 しかし。


 何が俺を動かしているのか。


「……」


 俺はしゃがんだ姿勢のまま、中原を見上げた。

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