第4話 御殿の裏勘定
1983年3月27日(日) 08:10
一
午前八時十分。黒服への申し送りを終えるやいなや、俺はロビー清掃に取り掛かった。
昨日のリネン検品の件もある。
口であれこれ言うだけでは、俺が求める水準は伝わらない。まず、俺自身がイチからやって見せる必要がある。
灰皿を集め、洗い場へ運ぶ。
俺がスポンジを手にしたところで、中原が戸惑ったように声を掛けてきた。
「店長……。灰皿の掃除など、私らが……」
「今日は見ていてください。次から同じようにお願いできれば、それで結構です」
俺は中原と、黒服の小野寺、西本の前で実演を始めた。
吸い殻を捨て、水洗いする。灰皿の縁や底にこびりついたヤニまで落とし、乾いたクロスで水気を拭った。
ロビーへ戻り、今度は絨毯のブラシを手に取る。
「毛足はこうやって起こします。力を入れすぎると逆に寝ますから、軽くで構いません」
黒服たちは、妙に神妙な顔で俺の手元を見ていた。
掃除機を掛け、ガラステーブルを拭き上げる。観葉植物にも目を通し、最後に脚立を持ち出した。
シャンデリアの電球を一本ずつ外し、クロスで磨く。ガラス球の内側に煤がついていれば、それも落とす。
高級店のロビーは、ただ明るければいいわけではない。
客が意識しないところまで整っていて、初めて「高級」に見える。
俺の掃除を最初から黙って観察していた中原が、脚立を押さえながら静かに問いかけた。
「……そこまで、やりますか」
「やるんです」
磨いた電球を取り付け、俺は次の一本に手を伸ばした。
「やらないと……高級にならない」
中原は返事をしなかった。
出勤してきたコンパニオンの何人かも、ロビーの隅からこちらを見ている。
新しい店長が自ら脚立に乗り、シャンデリアを磨いている。
俺が一体何者なのか、分類しかねるような表情だった。
二
午後四時半。
事務所の電話が鳴った。
西本が電話を取り、二言三言話したところで、慌てて受話器を押さえた。
「店長。社長っす」
俺は訝しんだ。
営業時間中、あの人がわざわざ電話を掛けてくることなど、ほとんどない。だいたいが、非常識な深夜か早朝だ。
「田中です」
『公児っ! 的中だっ! ワシは実に機嫌が良いっ!』
受話器を少し耳から離した。
夜番を控えたこの時間に、そんなことを知らせるためだけに電話してこないでほしいものだ。
歓喜あふれる社長の胴間声を聞きながら、俺は今日の中山の重賞を思い出した。
(あっ、なるほど)
『公児お前、系列のコーチ屋に指導してくれねえか』
「まぐれ当たりです。馬は人間の思惑で動きません」
『……そうか? だよな。いま御殿に何人いる?』
「コンパニオンが十名、裏方は俺を含めて四名。計十四名です」
『よしっ、晩飯の仕出し、止めとけ』
「……はい?」
すでに電話は切れていた。
脈絡がない。
社長の指示だけは分かったので、小野寺に今夜の仕出しを止めるよう頼んだ。
一時間半後。
「ちわっ! 社長さんから差し入れですっ!」
寿司屋の出前だった。
小野寺が、処置に困ったような顔で折詰を受け取る。その数、十四。
さらに、吸い物の入った保温ボトルまで付いていた。
中原が折詰の掛け紙を見て、眉をひそめる。
「あかね寿司の特上、一人一万円です。……店長、何があったんですか」
「コーチ屋もどきが、まぐれ当たりしただけです。……頂きましょう」
「はあ……」
中原は小野寺と西本に指示し、待機室へ折詰と吸い物を運ばせた。
レースガイドを見る。
今日の重賞は、四千四十円ついたようだ。中穴か。
社長が俺の予想をどう買ったのかは知らない。
……十万円、給与天引きされなかっただけマシだ。
客の切れ目を見ながら、黒服もコンパニオンも交代で寿司をつまんだ。
一万円の特上だけあって、ネタは立派だった。俺には赤身と中トロの違いくらいしか分からないが、それでも普段の仕出しとは別物だということくらいは分かる。
中原が、ぼそぼそと寿司をついばみながら、ぽつりと言った。
「私は二十年、あの人を見てます」
「はい」
「でも、こんなことはついぞなかった」
「でしょうね。俺も今日初めてです」
中原は箸を止めた。
「店長……。アンタ、社長に何か含められて、ここに来られましたか」
「含められる?」
聞き返すと、中原は表情を消した目で俺を見つめた。
ほんの数秒。それから視線を逸らす。
「……いえ、滅多なことを。忘れて下さい」
中原は再び寿司に箸を伸ばした。
俺も、それ以上は聞かなかった。
ただ、言われてみれば意味は分かる。
本当に社長は、余計なことをしてくれた。
レースを当てた。だから寿司で報奨する。
あの人の中では、それだけなのだろう。
ここは違う。
コンパニオンも黒服も、まだ俺という人間との間合いを測っているところだ。
そこへ社長直々の差し入れ。理由を知らなければ、どう見えるか。
俺は残っていた鉄火巻きを一つ口へ放り込んだ。美味い。
しかし、ありがたくはなかった。
三
翌三月二十八日、三月最終週の月曜日。
開店直後から、若い新規客がちらほら現れた。プラチナムでも、この時期にはあったことだ。
大学の春休みシーズン。
高級店で背伸びを試みる学生客も少なくない。あるいは、大学生の振りをする不埒な高校生もいる。
年齢確認を怠らないよう中原に念を押し、俺は事務所へ戻った。
電卓とメモ帳を片手に、各台帳を改めて精査する。
売上、経費、歩合、給与、そして報奨金。
日付と金額を一つずつ拾い、月ごとに並べ直した。
前店長がコンパニオンの歩合を落としに掛かった時期と、経費の上振れが始まった時期が、ほぼ重なっている。
それだけではなかった。
歩合と報奨金から消えた金額が増える月ほど、仕入れや雑費の上振れ額も増えている。
完全な一致ではない。
だが、偶然と片付けるには出来すぎていた。
報奨金と大入りを従来どおり支給した場合の想定計算まで終え、俺の疑惑はほぼ確信に変わった。
(前店長……抜いていたな)
電卓を置く。
業者から金を戻させれば、その分だけ帳簿上の仕入れ価格は高くなる。
経費が増えれば当然、社長へ上げられる利益は減る。
(だから……コンパニオンや黒服の実入りに手を出したんだ)
そこで穴を埋めれば、社長へ上げる数字だけは整う。
俺はメモ帳に線を引いた。
仮説は、数値に拠らなければ単なる言いがかりにしかならない。
前店長が実際に金を受け取っていた証拠は、まだない。
だが、金の流れには癖が残る。
俺は、自分の仮説を裏付ける数字をさらに拾っていった。
(比例は見えてきたが、まだピースが足りない)
経費台帳の次に、雑収入の帳面を開く。
(引かれもの……雑費収入と……)
コンパニオンから徴収する、衛生用具やアメニティの料金。
プラチナムよりも高い。しかも、少し、という水準ではない。
だが、それを足しても、頭の中のジグソーパズルがぴたりとは収まらなかった。
(まだ何かある)
ページをめくる。
雑費、貸衣装、備品弁償……。
その中に、聞き覚えのない項目があった。
(……なんだ? この「定期研修収入」って)
指で行を追う。
週二回。
一回あたりの金額はまちまちだが、月額にすれば四万円内外。
学校や塾でもない御殿が、「研修」で収入を得ている。しかも定期的に。
俺は帳面から顔を上げた。
「小野寺さん」
「はい」
「領収書の控え、借ります」
「あ、どうぞ」
小野寺から束を受け取り、日付を照合しながらめくっていく。
あった。
定期研修収入。
一枚。二枚。三枚。
領収書そのものは、きちんと切られている。金額も帳面と一致する。
しかし、宛先はどの領収書も「上様」。実質的な名無しだ。
俺は領収書を机へ並べた。
(数字だけなら、はまる)
歩合、報奨金、高くなった仕入れ、コンパニオンから取る雑費。そして、この定期収入。
金額の上では、一つの流れとして説明できるのだが。
俺は、一番上の領収書を摘まみ上げた。
(定期研修って……そもそもなんだ)




