第3話 期待なき御殿
1983年3月25日(金) 12:00
一
最初の客は、きっちり正午に現れた。
四十絡み。背筋は伸び、仕立ての良いスーツを洒脱に着こなしている。革靴も綺麗に磨かれていた。老舗の旦那、あるいは社長といった雰囲気。
中原が穏やかに声を掛ける。
「いらっしゃいませ」
「いつもの」
俺の中で、ひとつの構えがもろくも崩れた。
入店、支払い、着席まで、流れるような動き。案内する中原を直視するわけでもない。これは分かる。客の多くは、黒服の目など見ない。
しかし、客の視線がロビーを滑らない。
シャンデリアも、花も、迎えに出たコンパニオンすらも見ない。何度も同じ道を歩いてきたように、所作が完全に定型化している。
(何しに来た、この人)
プラチナムにも似たような紳士客は多いが、所作の中に生臭さや癒しへの渇望が、多少なりともにじむものだ。来店の目的は言わずもがな。それだけに、このニュートラルさが妙に引っかかる。
二時間で六万円。安い遊びではない。
その客は、出迎えたコンパニオンに腕を貸し、淡々と部屋へ向かった。
二時間後、俺の経験値はさらに瓦解した。
客は出てきたときも、ほとんど同じ顔。中原に淡々と手を振り、そのまま店を出て行く。満足も、不満も見せない。
(二時間経って、平行移動)
(その、もっとこう……仏様になってるとか)
(未経験の俺が言えた義理じゃないが)
その後も、客は続いた。
中原によると、今日は常連客中心らしい。
目当てのコンパニオンと腕を組み、決まった部屋へ向かい、時間ぴったりに出てくる。
老いも若きも、程度の差こそあれ似たような平行移動だった。
もちろん、常連なのだから勝手を知っている。それ自体がおかしいわけではない。
だが、誰一人として店の中を見ない。
何かが変わっているかもしれない、と確かめる様子すらなかった。
(こんなもんだろうって店に入って、やはりこんなもんだって店を出て行く……)
(ものすごくマズくないか)
半年連続で客数が落ちている理由が、少しだけ見えた気がした。
御殿には、客が次を期待するものがない。不満なら、まだ直す場所が分かる。期待されていない方が、ずっと厄介だった。
二
翌三月二十六日、土曜日。午後二時。
俺は思い立ち、出入りの酒問屋を飛び込みで訪ねた。
店内には日本酒やウイスキーの瓶が所狭しと並び、奥ではラジオが小さく鳴っている。
デニムの前掛けで手を拭きながら、店主が俺に挨拶した。
「いらっしゃいませ。どちらの……」
「お世話になっております。あかね御殿の田中と申します」
店名を聞いて、店主が俺を値踏みするように見た。
黒服の若造が一体何しに来た、とでも言わんばかり。
しかし、俺の差し出した名刺をちらりと見た店主は、怪訝そうに眉を動かした。
「ああ、御殿さん。で、店長は」
「俺です。前任は急な異動で、ご挨拶も出来ず申し訳ありません」
「……ああ、そうですか」
返事までに、わずかな間があった。
店主は俺との間合いを図るように、天気や最近の景気について話し始めた。俺も相槌を打つ。
いきなり仕切条件を切り出すつもりはない。まず、顔を覚えてもらえばいい。
店内を見ながら話を続け、棚に並んだウイスキーを一本手に取る。
そこで、一発だけジャブを放った。
「ところで、この仕切、高くなってますよね……。半年前から、二パーセントほど」
「ああ、まあ……。時勢、ですな」
「そうですね。諸式物価高騰。どこも大変です」
俺は瓶を棚へ戻した。
「お忙しいところ、お邪魔しました。今後ともよろしくお願いします」
「……こちらこそ」
店を出る前に一度振り返る。店主はこちらを見ていた。
奇襲攻撃は、一発殴るだけで充分。
何発も殴れば、経験値で上回る相手に反撃される。
今日は値切りに来たわけではない。
御殿の新しい店長は、帳簿を見ている。その一点が伝われば、それでいい。
手応えは十分だった。
店主は俺と前店長を天秤に掛け、俺がどんな人間なのかを見定めようとしている。
なら、次に来るときはこちらも材料を揃えておけばいい。
三
午後五時。
外回りから戻った俺は、通用口でリネン業者とすれ違った。
バスタオルの束をカートに載せ、リネン室へ運び込んでいる。
俺が道を譲ると、業者は軽く会釈した。
手早く納品を終えると、やれやれとばかりに両手をはたき、そのまま通用口から出て行った。
俺はふと気になり、リネン室へ入った。
納品されたばかりのバスタオルが、棚の前に積まれている。
一番上の一枚を取った。縁がほつれている。
二枚目は問題ない。三枚目を広げると、こちらも端から糸が出ていた。
(……)
さらに何枚か見る。
新品同様とは言わない。クリーニング品だから、ある程度の使用感は当然ある。しかし、客に出すには貧相な物が混じっていた。
俺は、購買や検収を担当する黒服の小野寺を呼んだ。
「小野寺さん。バスタオルの納品ですが、検品はどうされてますか?」
「いままで、問題なかったんで……」
俺が聞きたいのは検品の有無、または実施の方法であって、検品していないことの言い訳ではない。
「分かりました。確認します」
俺は束をひとつずつ解き始めた。
「えっ、全部ですか?」
「全部です」
二十枚が一束。三十束で六百枚。
広げて、縁を見る。汚れを見る。薄くなりすぎていないか確認する。
小野寺にも手伝わせた。
三十分ほどで、床の一角に別の山が出来た。
「六十五枚」
「……はい」
「六百枚中、六十五枚。客に出せないタオルです」
「……そう、ですね」
一割を超えている。偶然混じった、で済ませられる数ではない。
「すぐに、リネン業者に差し替え依頼して下さい」
「えっと……土曜日の夕方ですし……」
とっととやれ!――俺が受けた黒服教育では、この言葉に鉄拳が添えられていただろう。
俺は頭の中でざっと計算した。
――残ったタオルの本数。
――明日の予約数。
――一人の客とコンパニオンが使う平均枚数。
――回収と再納品までの時間。
月曜日午前中までは十分に持つ。
なら、いま業者を呼びつける必要はない。
俺はほつれたタオルを取り分け、使用禁止の札を貼った。
「差し替え依頼は、月曜日の朝一番にお願いします」
「はい」
「それと、次回から納品時に抜き取りで状態を確認してください。異常があれば全数確認を」
「分かりました」
俺は六十五枚の山を見る。
「貧相なタオルを差し出すコンパニオンと、受け取る客の気持ちを考えて下さい」
小野寺は黙って頷いた。俺はリネン室を出た。
酒の仕切も、タオルの検品も、ひとつひとつなら小さな話だ。
だが、その小さなことを誰も気にしなくなった結果が、いまの御殿なのだろう。




