第2話 御殿に残る歪み
1983年3月25日(金) 09:40
一
(……なるほど)
扉を押し開けた俺は、その場で足を止めた。
香水とタバコ、それに酒の残り香。ロビーの空気が淀んでいる。昨夜の空気を、そのまま持ち越していい時間ではない。
確認ポイントに沿って、俺は視線を動かした。
――照明。シャンデリアの電球が一つ、消えている。ガラス球の内側にも黒ずみが見える。
――壁面。観葉植物の葉先が黄ばんだまま。枯れ葉も鉢に残っている。
――足元。絨毯の毛足が完全に寝ている。ところどころに汚れも残っている。
――応接。ガラステーブルに薄く灰が散っている。灰皿には吸い殻まで残されていた。
いずれも、小さな劣化だ。だが、高級店なら、その小さな劣化すら客に見せてはいけない。
閉店作業が甘い。絨毯や観葉植物の状態を見る限り、その甘さが習慣になっている。プラチナムなら、黒服全員がチーフの前に整列させられているところだ。昔なら、そのあと何発か飛んでいただろう。
(この状態で朝礼を迎えるつもりか)
腹の底に苛立ちはあるが、怒鳴ったところでロビーは綺麗にならない。朝礼までに手直しする方が先だ。
バックヤードから笑い声が漏れてきた。
黒服か。
入口の扉が開いたことにも気付いていない。
俺はロビーを横切り、バックヤードへ向かった。
事務所には黒服が三人いた。紙コップを手に、タバコを吸いながら雑談している。
そのうち一人が俺に気付いた。
三十代後半。細身で、きちんと整えた口ひげの似合う優男だった。
俺を見ても立ち上がらない。胡乱な目を向けただけだ。
「……どちらさんです? ウチ、開店はお昼からですけど」
「四月一日付で店長を拝命した田中です。本日から先乗りで入ります」
「……店長、ですか」
男がようやく立ち上がった。
サボっているところを見とがめられた警戒――ではない。もっと薄い反応だった。
「チーフの中原です……どうも」
淡々と頭を下げる。敵意もない。歓迎もない。
残る二人も、中原にならって軽く頭を下げただけだった。
少なくとも、新しい店長が突然現れたことに驚いているようには見えなかった。
二
「朝礼まで一時間十五分です。ロビーの状態は確認しましたか」
「……ええ、まあ」
確認したのか、していないのか。
どちらでもいい。
いま必要なのは問責でも原因究明でもない。朝礼までに、客を迎えられる状態へ戻すことだ。
「ロビーの換気をしてください」
三人が俺を見る。
「シャンデリアの電球を全部確認して、切れているものは交換してください。観葉植物の枯れ葉を間引いて、絨毯もブラッシングをお願いします」
中原が口ひげを指でなぞった。
「それから、灰皿を洗ってください。ガラステーブルも拭き上げを。朝礼までに終わらせてください」
「全部、ですか」
「全部です」
「……分かりました」
何を、いつまでに、どうするのか。それを伝えればいい。声を荒げる必要はない。
反発される可能性は考えていた。若造が突然やってきて店長を名乗り、あれをやれ、これをやれと指示するのだから、不満が出ても不思議ではない。
だが、中原たちは何も言わなかった。
動きは緩慢だったが、灰皿を集め、窓を開け、掃除道具を取りに行く。
(指示には従う)
完全に統制がなくなっているわけではない。
俺は事務所へ入った。
前店長のものと思われるデスクに座り、周囲を見回す。
全体に埃っぽい。
紙屑の入った屑籠。乱雑に積まれた新聞。吸い殻の溜まった灰皿。
一方で、棚の台帳だけはグループの規定通りに並べられていた。背表紙も揃っている。
(数字まで放り出していたわけじゃないらしい)
俺は一冊目の台帳を抜き取った。
三
まず、売上台帳から見た。半年連続で前年同月比マイナス。
客単価に大きな変化はない。割引やキャンペーンを乱発した形跡もなかった。つまり、客一人から得る売上は維持している。落ちているのは客数だ。
(固定客まで全部離れたわけじゃない)
次に経費台帳。一年前から微増。売上が落ちている分、対売上比率はさらに悪くなっている。
アメニティ、リネン、広告費。仕入数量そのものは客数に合わせて減っていたが、減り方が足りない。
それ以上に気になるのは、仕切条件だった。以前より、わずかに悪化している。
(先入観は持つな)
そう自分に言い聞かせながら、次の台帳を開く。
歩合台帳。賃金台帳。報奨金等支出簿。
そこで手が止まった。
(……何だ、これ)
コンパニオンの歩合。
平均四十パーセント台。高い者でもグループ基準の五十五パーセントに届いていない。
本指名料も同じだった。帳簿上は、店と折半されている。本来なら、コンパニオンの総取りだ。
黒服の給与も確認する。プラチナムの同等職と比べて、八割そこそこ。
月次報奨金、大入り。項目だけは残っているが、半年前から金額はすべてゼロだった。
(この条件で、人が残っているのか)
さっきの中原たちを思い出す。
指示には従うが、自分から何かをしようという動きは見えなかった。
それと、この数字に関係があるのか。
まだ分からない。
俺は台帳を最初からもう一度追った。
単純な経営不振だけでは説明がつかない。
誰が、どこで、どういう判断をしたのか。それも、いまの段階では分からない。
分からないものを決めつけるべきではない。
ただ、ひとつだけ確かなことはあった。
(手を入れる場所はある)
俺は帳簿を閉じた。
御殿は、かなり傷んでいる。
だが、数字は残っている。客も残っている。働いている人間も残っている。
なら、見るべきものを全部見てから考えればいい。
四
午前十一時すぎ。
本来なら、もう朝礼が始まっている時間。それでもコンパニオンが次々と出勤してきた。
予定表に名前のある十名は、全員揃った。欠勤者はいない。そこまではいい。
だが、ロビーに集まった十人を見て、俺は内心でため息をついた。
――ソファーに座る者。
――鏡を取り出して化粧を直す者。
――タバコをくゆらせる者。
――隣同士で話し込んでいる者。
ただし、顔立ちは皆整っている。体型も維持されていた。客前に出せない人間はいない。
問題は別だ。
この時間なら、もう開店準備に意識を切り替えているはずだが、そういう緊張が見えない。
俺は十人の前へ出た。
「はじめまして。四月一日付で店長を拝命した田中です。本日から先乗りです。よろしくお願いします」
返ってきた反応は薄かった。
無視ではない。何人かは会釈した。何人かは俺を見る。それだけだ。
その中の一人が、タバコを指に挟んだまま言った。
「随分と、お若い店長さんですね」
鼻で笑っているようにも聞こえる。だが、挑発というほどではない。単なる感想か、値踏みだろう。
「年齢は変えられません。ですが、店の数字は変えられます」
コンパニオンたちの目が、少しだけこちらを向いた。
反発はない。興味を持った、と言えるほどでもない。やはり様子見だ。
俺も、それ以上は言わなかった。
今日は初日だ。事情も知らないまま訓示を垂れるつもりはない。
「以上です。開店準備をお願いします」
コンパニオンたちは待機室へ戻っていった。
ばらばらだったヒールの音が、廊下の奥へ遠ざかる。
俺はロビーを見回した。
換気が進み、昨夜から残っていた匂いはかなり薄くなっている。
シャンデリアはすべて点灯していた。
絨毯はブラッシングされ、毛足を取り戻している。
観葉植物の枯れ葉もなくなった。
ガラステーブルには曇りひとつない。灰皿も空だ。
見た目だけなら、一時間ほどで許容範囲に収まった。
俺は入口脇に立った。
正午。
最初の客の足音が、静かに近づいてきた。




