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根のない男 ―― 夜の街で、居場所をつくる  作者: 早瀬 構


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第1話 七日前の辞令

1983年3月25日(金) 09:00


一


「黒服ではなく、店長ですか」


「おう。なんか問題でもあるか」


「いえ、ありません」


 俺は辞令を受け取った。内容は「あかね御殿」への異動、並びに店長への昇格。


 あかね御殿――御殿は風呂屋であり、あかねナイトグループの創業店でもある。プラチナムと同じ二時間六万円の高級店で、創業者である社長以降、代々の古参が店長を務めてきた。


 もっとも、辞令を渡す手に、その重みらしきものはない。俺の顔を見ることもなく、机の既決箱から辞令をつかみ、片手で差し出す。それが社長だ。


 部下を呼びつける時間もまちまちで、早朝だろうが夜中だろうが関係ない。そして部下と話すときには、大抵ほかのことも同時進行している。


「明後日は、ウィナーか……。鞍上もいい……」


 今日の同時進行は競馬だった。新聞を机いっぱいに広げ、赤鉛筆を走らせながら、勝ち馬予想に没頭している。


 辞令の下には、風俗情報誌へ渡すゲラ原稿が置かれていた。俺としては、辞令と一緒にそいつを押しつけられなかっただけ良しとする。


 目星がついたのか、社長は新聞から俺へ視線を移した。


「御殿な、たるんでやがる……。公児。お前行ってパパッと締めてこい」


 水道の蛇口でも締めろという程度の軽さだった。


 社長は昔からそうだ。


 自分が分かっていれば、部下も分かる。細かいところは、その場でどうにかすればいい。勘と勢いで物事を動かす。終戦直後から四十年近く、そのやり方を押し通してきたのだろう。よほど素質があるのか、それとも天祐に恵まれているのか。五年仕えている俺にも、いまだによく分からない。


 いずれにしても、俺とは真逆の人だ。


二


「んだコラ……まだなんかあんのか」


 社長の中では、俺はもう一礼して退室したことになっていたらしい。


 社長が葉巻を灰皿へ置く。先端から灰がぽとりと落ちた。


「三つ、お伺いしてもよろしいでしょうか」


「言ってみろ」


 俺は半歩前へ出た。曖昧なものを、曖昧なまま引き受けるのは好きではない。


「前店長との引継ぎは、可能でしょうか」


「上納利益の増は、いつまでに、どれだけをご期待でしょうか」


「コンパニオンの歩合は、客の支払額に対していくらでしょうか」


 社長の口角がわずかに上がった。


「ラッキーなヤツめ。今朝のワシは親切で、機嫌もいい。……教えてやろう」


 新聞をゆっくり畳み、ようやく俺を真正面から見た社長は、黒革張りの椅子へ深く身体を沈めた。


「まず一つ目。お前の前任は昨日クビにした。行先は知らん」


 昨日まで創業店を任せていた部下を、「知らん」の一言で総括する。いかにも社長らしい。


「二つ目。上納利益だが、三ヶ月先の六月末締め。前年度平均に対して二割増を目指せ」


「承知しました」


 前年度平均。何をどう切った平均かは、御殿の帳簿を見ればいい。ここで聞き返すことではない。


 社長は右手の人差し指で、こつこつと机を叩き始めた。機嫌が悪くなる前触れだ。


「三つ目。歩合は総額の五割五分。指名が続けば上乗せ。本指名料はコンパニオンの総取りだ」


「ご教示、ありがとうございます」


「グループの基準だろうが。公児よ……お前ももう少し学べコラ」


「はい」


 社長は再び新聞を広げ、手の甲を俺へ向けて振った。用は済んだらしい。


 俺は会釈をして、踵を返しかけた。


「社長」


「あぁ?」


「ウィナーは来ないでしょう。あの馬に一八〇〇は、長すぎると思います」


 赤鉛筆が止まった。


「公児よ、じゃあどう見る」


「ミグか……ヒエン。中距離血統で流すのも一興かと」


 俺は相馬眼を持っているわけではない。五年も黒服をやっていれば、政治経済から競馬競輪、土地の値段、地元の風俗情報まで、耳学問だけはそれなりに蓄積される。


「ふん……」


 社長は新聞へ目を戻した。


 今度こそ俺は社長室を出た。重厚な扉が閉まったところで、肺の奥に溜めていた空気をゆっくり吐く。


 御殿。


 いまでこそプラチナムに華を持たせているが、かつては地元政財界の重鎮が集う店だったと聞いている。


 その店を、俺が任される。


三


 廊下を数歩進んだところで、俺は辞令を見直した。


――一九八三年四月一日付、店長任命。


 社長は、前店長を昨日クビにしたと言った。


 今日は三月二十五日。四月一日まで、七日。店長不在のまま一週間。高級店だろうが何だろうが、必ずどこかが曲がる。


(……一週間は、まずい)


 俺はその場で回れ右し、もう一度、社長室のドアをノックした。


「あぁ? まだなんかあんのかコラ」


「御殿、いまから先乗りします」


 一瞬、ぽかんとした表情を見せた社長は、鼻を鳴らした。


「良いだろう。行ってこい」


「片桐店長に申し送りをしてから向かいます」


「いい。片桐にはワシから言っとく。誰も文句は言わねえ。今すぐ行け」


「ありがとうございます」


「……ああ、それとだ」


 まだ何かあるらしい。御殿の方が気になる。


「日曜の中山、お前の意見を十万円分買う。……外れたら天引きな」


「かしこまりました」


 俺は社長室をあとにした。今度は振り返らなかった。


 プラチナムの通用口を出て、腕時計を見る。午前九時二十三分。


 御殿までは徒歩十五分。歩きながら、確認すべき項目を頭の中で並べていく。


 売上と客数。コンパニオンの在籍数と出勤状況。黒服の配置に、備品と清掃。最後に帳簿。


 現状を見て、数字を確認する。「パパッと締める」方法は、それから考えればいい。


 あかね楽天地の通りを進むと、やがて重厚な金文字の看板が見えてきた。


「あかね御殿」。


 俺は扉の前に立った。


 一度だけ呼吸を整え、御殿に足を踏み入れた。

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