第49話 見送りの勘定
1986年1月4日(土) 10:00
ワシは、あかねナイトグループの社長だ。
予科練上がりの死にぞこないが焼け野原で稼業を始め、色々あったが、いまは風呂屋四軒、そのほか諸々を回している。あかね楽天地で起こることは、良い話も悪い話も、たいてい最後にはワシの机へ戻ってくる。
いや、いまでは半分くらいか。
クソが。
一
昨年の年明け、旗艦が抜けた。片桐の造反だ。プラチナムを含む四店舗を持っていかれたが、抗争はしなかった。盤面を荒らせば、勝ったところで残るのは焼け跡だけだ。空いた穴には、ロイヤルから引き取った三店舗を入れた。
順番というものは、努力だけで決まらない。誰かが抜ければ、そこへ別の誰かが入る。商売なんぞ、そういうものだ。
その上で、もう一枚抜ける。
田中公児。二十五歳。児童養護施設育ち。高校を出る直前、駅裏の三行広告をちぎって電話してきた小僧だ。
面接は一分で終わらせた。親はいない。高校を出れば住む場所もなくなる。逃げ場もない。なら使えると思った。人間は追い詰められてからが本性だ。
怒鳴られ、殴られ、仕事を覚えたくせに、自分が教える側になると同じことをしなかった。間違いなら理由を教えればいい。できなければ、もう一度やらせればいい。殴ったところで仕事が速く正確になるわけではない、とでも考えたらしい。
ワシの黄金律は単純だ。カネ、オンナ、地位。男なんぞ、どれかを鼻先にぶら下げれば動く。
ところが公児は、そこへきれいにはまらなかった。
御殿へ送り込んだのも、最初は穴埋めだった。前店長が腐らせた仕組みを洗い、証拠一式を持ってきた夜、報奨をやると言ったら断りやがった。欲しいのはコンパニオンの歩合と黒服の給与を規定へ戻す許可だけだという。
理解はできた。だが、腑には落ちなかった。
その後も同じだ。御殿を持ちこたえさせ、三店舗を足し、四店舗を基準で回るようにした。挙げ句、警察と保健所から「優良」と呼ばれた。
仕上がり過ぎると、人は勝手に名前を付ける。柱だの、基準だの、先生だのとな。揺れない奴ほど担がれるし、担がれた本人がその気になれば、最後は面倒になる。
公児は、その手前で降りるらしい。
退職届を出す、と連絡があった。
女の件も耳には入っている。みほとかいう、御殿にいた女だ。借金を完済して辞めた。その女を追って、公児は正月早々、大阪まで行ったらしい。
あの仕事馬鹿が、仕事でもないのに大阪まで行った。
極端だ。
だが、半端よりはいい。
二
営業再開前の社長室は静かだった。空調の低い唸りと、書類をめくる音しかない。
十時きっかり、公児が入ってきた。
「長いことお世話になりました」
頭を下げる角度まで、いつも通りだ。
「そうだろうな。辞めるなら、それが適切だ」
引き止めるつもりはない。引き止めれば貸しになる。貸し借りは勘定を濁らせる。ワシはカネに厳しい。払うべきものは払うし、もらった分だけ働く。情で帳尻を合わせるのは嫌いだ。
「御殿は、中原さんが十分回せます。ほかの三店舗も、現場判断で支障はありません」
「分かってる。お前は自分がいなくても回るようにした。そこまでやってから辞めるなら、文句はねえ」
公児はわずかに目を伏せた。
「ありがとうございます」
「褒めてねえよ。事実だ」
机の横の金庫を開け、紙袋を出して置いた。中身の重みで、机が鈍く鳴る。
公児の目が一度だけ袋へ落ちた。
「退職金だ。持ってけ」
三
袋の中には三つ入っている。
一つは、前任店長名義だった通帳。残高はゼロ。
一つは、現金二千万円。
もう一つは、北地区にあるカフェバーの権利書だ。大学街とオフィス街の外れで、あかね楽天地からは遠い。
公児は袋を開け、順番に中身を確認した。現金の束を見たところで、手が止まる。
「これは、受け取れません」
「言うと思った」
「三年前の春にお預けした金ではありませんか」
「違う」
公児が顔を上げた。
「あの二千万は、お前が持ってきた時点で会社の預かりにした。前の野郎の金として、帳簿も税も片をつけた。いまここにあるのは別の金だ」
「ですが、金額が同じです」
「ワシがそう決めた」
公児は黙った。顔には出さないが、まだ納得していない。
「三年前、お前は金にもテープにも手を付けず、全部そのまま持ってきた。褒美も断った。あのときは御殿を元へ戻せと言っただけだ。その後、お前は御殿だけじゃなく、四店舗まで立て直した。これはその分だ。退職金として払う。帳簿にもそう載せる」
「多すぎます」
「八年近く使った。安いくらいだ、このトンチキ野郎」
ようやく、公児は現金から手を離した。
次に権利書を見る。
「カフェバーは北地区だ。同じ市内だが、ここからは遠い。夜の連中と顔を合わせることも、そう多くない」
「なぜ、これを」
「空いてるからだ」
それで十分だ。余計な説明をすれば、情になる。
「酒でもコーヒーでも好きに売れ。昼の顔で商売しろ。お前なら、どうせ妙にきれいに回すだろう」
公児は権利書を見たまま、しばらく黙っていた。
「……ありがとうございます」
「礼はいらん。清算だ」
借りは残さない。糸も残さない。ただ、市内には置く。何かあれば耳には入るだろうが、助ける気はない。市場で生きるなら、市場に食わせてもらえ。
公児が袋を閉じたところで、ワシは煙草へ火をつけた。煙を吐きながら、その顔をもう一度見る。
「逃げるな。そこで根を張れ。あのオンナと」
公児の眉が、ほんの少しだけ動いた。
「……はい」
「戻ってくるなよ」
「はい」
今度は迷わなかった。
四
扉が閉まると、部屋はまた静かになった。
机の上には今日の数字が残っている。旗艦が抜け、公児も抜ける。それでも四店舗は回る。回らないなら、残った人間で回す。それが商売だ。
ワシは部下を、使えるか使えないかで測ってきた。公児は使えた。それも、かなり使えた。だから使い切る前に外へ出した。ただ、それだけの話にしておく。
寂しいかどうかなんぞ、勘定項目にない。名前を付ければ判断が鈍る。
カネで動く奴は分かりやすい。オンナで動く奴も、地位で動く奴も同じだ。片桐はその意味では分かりやすかった。ワシを裏切っても、何を欲しがっているかは読めた。
公児は最後まで、そこへ乗らなかった。
平凡に暮らしたい。家庭を持ちたい。昔、そんなことを言っていた。そんなものを欲だと言われても、ワシには今ひとつ分からん。
だが、あいつはとうとう、そのためにこの稼業を降りた。
なら、あとは勝手にやればいい。
北地区の店なら、御殿ともレジーナとも違う。客に酒を出し、コーヒーを淹れ、帳簿を付け、床を磨く。それだけで食っていけるなら、その方があいつには向いているのかもしれん。
そこから先は、ワシの担当範囲外だ。
「……クソが」
声に出すと、少しだけ部屋が広くなった気がした。
机の端に積んであった営業再開の書類を引き寄せる。電話を取り、レジーナの責任者へ開店準備の進捗を確認し、そのままルミナとローザにも指示を飛ばす。
夜は続く。
王は席を立たない。
手切れは済んだ。見送りも終わりだ。




