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根のない男 ―― 夜の街で、居場所をつくる  作者: 早瀬 構


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第48話 根になっても

1986年1月2日(木) 18:30


一


 正月三が日って、ヒマやと思うやろ。ちゃうねん。ヒマやから、余計なこと考える。店のこと、あのヒトのこと。考えへんようにしても、ふっと湧いてくる。


 その「あのヒト」が、また大阪におる。


 梅田のビジネスホテルに泊まってるって、一昨日ふいに言うてきた。昨日はしっかり実家まで来て、親父とお母ちゃんに挨拶しよるし、ほんま、どこまで段取り人間やねん。


 今日は昼から、宗右衛門町でたこ焼き食べて、シャッターの降りた御堂筋をぶらぶらして、梅田まで戻った。歩道橋の上から車の列を見ながら、どうでもええ話をした。


 夕方、ウチはいったん家に帰った。お母ちゃんは台所で雑煮の片づけをしてて、兄貴はテレビ見ながら笑ってる。散髪屋の家の正月。平和で、退屈で、落ち着く。……はずやのに、気持ちだけが家に戻ってこん。


「ちょっと、出てくるわ」


「寒いで」


「うん」


 誰に会うて、どこへ行くかなんか言えるわけない。


 コートの襟を立てて駅まで歩いた。途中で降りよかと何回も考えたのに、気がついたら梅田に着いてた。


 ビジネスホテルのロビーはあったかかった。空調と清掃の匂いが、ちょっとだけ御殿に似てる。


 フロントの兄ちゃんに名前を言うたら、すぐ通された。


 ほんま、こういうとこや。段取りええな。


 ……腹立つ。


二


 部屋の前でノックすると、返事も、ドアが開くのも早かった。


「由美さん。寒かったでしょう」


「アンタ、ほんま……」


「事前に想定していました」


 その言い方、ずるい。会いたかった、と同じ意味のくせに。


 部屋は広ない。ベッドと机と椅子。荷物も少なく、コートも鞄もきちんと置かれてる。それが、妙に寂しかった。


 コートを脱いで椅子に座ると、このヒトは一回、深く息を吸った。肩がほんのちょい上下したのを、ウチは見逃さんかった。


「……由美さん。今日は、ありがとうございました」


「なにがやねん。ウチ、案内しただけや」


「それが、助かりました」


 そんな軽く「助かる」なんて言う男ちゃうやろ。まともに受け取ったら怖なるから、笑ってごまかした。


「……店長。ウチと研修、する?」


 言うてしもた。怖いときほど冗談で包む。昔からの悪いクセや。


 このヒトは一瞬だけ黙った。


「研修は、もう決めごとで廃止しています。由美さんも退職されています」


「……うん」


「それに俺、まだ童貞です」


 一拍遅れて、腹の底から笑いが込み上げた。


「アホか! アンタ、ほんまアホや! なんでそうなるねん!」


 腹を押さえて笑って、涙まで出た。こっちは勇気出して球を放ったのに、制度上あかん、退職済み、そのうえ自分は未経験。そこまで整理して断る男、おるか。


 おかしすぎて、情けなさすぎて、でも救われたみたいでもあった。


 笑いながら涙を拭いて、ウチはぽつりと言った。


「……ウチは汚れとる。いまも流れ者やし、一生独り身でもしゃあない」


「稼業で八年近く飯を食ってきた俺も、腹の底まで汚れています」


「……なんやそれ」


 今度は笑われへんかった。


 汚れてるって、ずっと自分に言い聞かせてきた。その方が楽やから。あきらめてしもたら、痛くないから。


 それをこのヒトは否定も慰めもせえへん。自分も同じや、と勝手にこっち側へ来よる。しかも、自分の汚れを過去形にもせん。


 涙が勝手に出た。


 ――卑怯や。


三


 このヒトが立ち上がって、ウチの前まで来た。差し出しかけた手が少し震えて、それから、ぎこちなく抱きしめられた。


 変な抱きしめ方やった。腕の中に閉じ込めるでもなく、身体を探るでもなく、ただそこにおることを確かめるみたいに触れてくる。


 欲がないわけやない。こんだけくっついてたら、分かる。


 ……引くぐらい、分かってしもた。ちょっとだけ、ひるんだ。


 せやのに、このヒトは動かへん。ウチの身体は勝手に熱うなって、受け入れる準備まで始めてるのに、抱きしめたまま、それ以上は何もしてこん。


 半分あきれて、半分ほっとして、それでもやっぱり腹が立って、顔を上げた。


「どしたん? せえへんの?」


「婚姻届を出すまで、できません」


「……ぶっ」


 また噴き出した。腹を押さえて、涙を拭いて、それでも笑ってしもた。


「アンタなあ……」


 このヒトは目線を落としたあと、さっきまでとは違う顔になった。


「……由美さん。俺は、今まで誰にも話していないことがあります」


「なんなん?」


 施設の話やった。生まれてすぐ置いていかれたこと。親の顔も名前も知らんこと。「田中」いう名字も、「公児」いう名前も、親が付けたもんやなく、市が戸籍を作るときに決めたもんやってこと。


 公立の「公」と、児童養護施設の「児」。


 いつも通り淡々としてるのに、言葉の端っこだけが、ちょっと痛かった。


「俺には、そもそも根が生えていないんです」


 その瞬間、腹の奥で何かが動いた。決めた、いうより、勝手に定まった。


「……公児クン、て呼んでええ?」


「はい」


 ウチは一回、唾を飲み込んだ。さっき「研修する?」言うたときより、よっぽど怖かった。


「……ウチが、公児クンの根になっても、ええ?」


 公児クンはしばらくウチを見た。逃げへんかった。


「……はい」


 それだけやった。それだけやのに、腹の奥がどうしようもなく熱うなった。


 なんや。そんな簡単に返事するんかい。


 こっちは、これ言うだけで死ぬほど怖かったのに。


四


 夜更けにホテルを出た。部屋の前で「おやすみ」言うたら、公児クンはきちんと頭を下げた。


 最後までそれかい。


 家に戻ったら、兄貴がまだ起きてた。ウチの顔を見た途端、ニヤッとする。


「田中さんか」


「うっさい」


 それしか出えへんかった。


 布団に潜り込んでも目が冴えた。研修する、なんて言うた。抱きしめられ、婚姻届を出すまでせえへんと言われ、そのうえ自分から「根になっても、ええ?」まで言うてしもた。


 よう言うたな。


 ウチ、そんな立派な人間ちゃうのに。


 翌朝、ウチは駅まで行かんかった。行ったら、何かがほんまに決まってまう気がした。


 昼を過ぎたころ、電話が鳴った。お母ちゃんが出て、受話器をこっちへ差し出した。


「由美。あんたにや」


『由美さん。俺、大阪を発ちます』


「……急やな」


『はい。戻ったら、退職届を出します』


 心臓が、どくんと鳴った。


 十八からずっとおった場所を、自分から出る。昨夜の言葉で、とうとう決めたんか。


「……アンタ、ほんま極端やな」


『極端ではありません。必要な調整です』


「それを極端言うねん」


 受話器の向こうで、一拍だけ間があった。


『由美さん。昨日の言葉、俺は忘れません』


 それだけ言って、電話が切れた。


 ウチはしばらく受話器を持ったまま立ってた。それからコートを引っつかんで家を出た。


 大阪駅までは行った。せやけど近くへは行かんかった。たぶん手を振って、名前も呼んでまう。


 ずっと離れたホームの端に立って、人の波の向こうを探した。


 公児クンが見えた。短髪。コートの襟。持ち物は少ない。


 電車が入ってきた。ドアが開いて、人が降りて、人が乗る。公児クンも、その中へ消えた。


 ドアが閉まり、電車がゆっくり動き出す。公児クンは、一回も振り返らへんかった。


 ウチはホームの端で、小さく息を吐いた。


「……根、あるんやで?」


 誰にも聞こえへん声やった。


 腹の奥のぬくもりが、体中に広がるような気がした。

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