第47話 消したはずの火
1985年12月31日(火) 19:20
ウチは川本由美。来年二十八の行き遅れ。先月、「あかね御殿」を上がって、吹田の実家の散髪屋に舞い戻った。
一
ほんま、何してくれてんねん。
電話やて。よりによって、実家に。直接、この家に。
兄貴が「田中さんやて」と受話器を差し出した瞬間、ウチは湯のみを落としかけた。
なんでやねん。なんで、わざわざ。ウチは辞めた。借金も返した。あのヒトは自分で「おめでとうございます」と言うて、ちゃんと祝福してくれたやないか。
それで終わりやと思ってた。終わらせるんが、あのヒトのやり方やと思ってた。
受話器を受け取ると、聞き慣れた低い声がした。
『……川本由美さんは、ご在宅でしょうか』
みほ、とは言わん。ちゃんと川本由美。そこがまた腹立つ。
「ウチやけど」
『ご無沙汰しております』
「一か月やろ」
『はい』
間が空いた。店のことなら中原さんに言えばええ。もうウチは御殿の人間ちゃう。そう思って待っていたら、このヒトは少しだけ息を詰めた。
『……お時間を頂けませんか』
妙に真っ直ぐな言い方やった。
断ったらええ。そう思ったのに、口から出たのは別の言葉やった。
「万博公園で」
なんで万博公園やねん、と自分でも思う。広いところが良かったんかもしれん。逃げ道があるところ。どっちが逃げるかは知らんけど。
電話を切ると、お母ちゃんが顔を出した。
「誰やの」
「……会社の人」
それだけ言うた。ほんまは元店長や。風呂屋「あかね御殿」の店長で、いまは四店舗を束ねている。警察から表彰されても、客に殴られても、顔色ひとつ変えへんような男や。
けど、そんな説明を家でするわけにはいかん。ウチはもう、散髪屋の娘に戻ったんや。
二
万博公園の風は冷たかった。太陽の塔が、暗い空の下で相変わらずでん、と立っている。
その足元に、このヒトがいた。
背ぇが高い。短髪で、背筋だけは妙にきっちりしている。何回見ても夜の男には見えへんのに、ウチにはあの店の匂いまで思い出せた。
「……みほさん」
やっぱり、そう呼ぶ。
「ウチは、みほちゃう。川本由美や」
言うてから、少し意地が悪かったかなと思った。けど、名前を戻したんはウチのけじめや。御殿は借金を返すための場所。そこにいた人も、情も、何も持って帰らんと決めた。
このヒトの目が、ほんの一瞬だけ揺れた。
次の瞬間、膝をついた。
ほんまに。太陽の塔の前で。
「由美さん、すみませんでした」
周りの視線が痛い。何を今さら謝っとんねん。しかも肝心の中身を言わへん。辞めるのを止めへんかったことか。それとも、自分でも分かってへんのか。
「あほか。立ち」
腕を引くと、このヒトは素直に立った。こういうときだけは、ほんまに扱いやすい。
並んで歩く。半歩分の、妙な距離がある。
「なんで来たん」
「……分かりません」
「は?」
「来た方がいいと思いました」
それで大阪まで来るか、普通。
けど、このヒトなら来る。理由が整理できてなくても、必要やと判断したら動く。御殿を立て直したときも、そうやった。
ただ今度は、店や数字やない。そこだけが、いつもと違って見えた。
三
その晩、このヒトは梅田のビジネスホテルに泊まった。
「明日、ご実家に伺います」
「なんで」
「ご挨拶をした方がいいと思います」
「何の挨拶やの」
聞いたら、このヒトは黙った。ほんま、面倒くさい男や。
元旦の昼前、このヒトは背広で家に来た。手土産まで持って。元旦から何しに来とんねんと思ったけど、誰も追い返さなかった。
「あかね市で、ビジネスホテルの支配人をしております」
へえ、と心の中でだけ言うた。表向きは、そういうことになってる。
お父ちゃんはしばらく、このヒトの顔を見ていた。それから頭のあたりへ目をやって、何でもないことみたいに言った。
「……髪、切りましょうか」
「お願いします」
このヒトは素直に椅子へ座った。
白いクロスが首に巻かれ、ハサミの音がしゃき、しゃき、と響く。お父ちゃんは仕事中、よう喋る人やない。けど、人を見る。髪の生え方、首の傾き、座り方、手の置き方。何十年も人の頭に触ってきた目で、このヒトを見ていた。
ウチは少し離れて、その二人を見ていた。
お父ちゃんは何も聞かなかった。どこで知り合ったとも、ウチがあかね市で何をしていたとも、このヒトがほんまはどういう仕事をしているとも。
ただ、襟足を整え、耳まわりを揃え、最後に細かい毛を払った。
「できました」
「ありがとうございます」
このヒトが立ち上がる。お父ちゃんはクロスを畳みながら、一度だけウチを見て、それからこのヒトへ向き直った。
「……娘を、よろしくお願いします」
腹の奥が、ぎゅっと縮んだ。
このヒトは深く頭を下げた。
「はい」
迷いのない返事やった。
たぶん意味を全部分かってへんくせに。
お父ちゃんは、それ以上何も言わなかった。
ウチも聞けなかった。何をどこまで分かったん、と。
四
神社へ初詣に行った帰り道、ウチは隣を歩くこのヒトに聞いた。
「これから、どうするん?」
このヒトは少しだけ考えた。仕事なら即答するくせに、今日は朝からこればっかりや。
「どうしましょう」
「ウチに聞くなや」
「すみません」
また少し黙って、それから前を向いたまま言った。
「でも……戻ってきてください」
戻ってきてください。
聞いた瞬間、ウチは御殿のことやと思った。源氏名のみほに戻れ、あの店の仕組みの中へ戻れ、そういう話やと。
「あほか。何でもどらないかんねん」
即答してもうた。
その途端、このヒトの顔が、ほんまにしょぼんとした。
目が泳いで、口が少し開いて、何か言おうとしてやめる。社長に怒鳴られても、警察に囲まれても、客に殴られても、こんな顔せえへんかった男が、ウチの一言で露骨に困っている。
そこで、ようやく気づいた。
あれ。店やない。
このヒトの隣に、戻ってきてくれって意味やったんか。
腹の奥で、ずっと寝かせていたものが、ぞくりと動いた。
そんなん聞いてへん。そんなつもりで大阪まで来たんか、このヒト。いや、たぶん本人も、そこまできれいに分かってへん。ただ、ウチがおらんようになってから何かがおかしゅうなって、それをどうしたらええかも分からんまま、ここまで来た。
ほんまに、面倒くさい。
それなのに、さっきのしょぼんとした顔が、妙に頭から離れへん。
ウチは怖くなって、わざと前を向いた。
「寒い」
「はい」
このヒトは追いかけてこん。追いかけ方を知らんのや。
駅へ向かう角で足を止めた。
「……ほな」
「はい。今日は、ありがとうございました」
軽く頭を下げて、このヒトは歩いていく。昼にお父ちゃんが整えた襟足が、街灯の下できれいに見えた。
店長でもない。四店舗を束ねる偉い人でもない。ウチの一言でしょぼんとして、何を言えばええか分からんまま帰っていく、ただの男や。
その背中を見送りながら、腹の奥で、消したはずの火がもう一度じわじわと起き上がってくるのが分かった。
あかん。
こんなん、可愛がりたなるやん。




