第46話 行き先だけが
1985年12月31日(火) 14:00
一
年末年始の休業に入り、レジーナの事務所には俺ひとりしかいなかった。あかね楽天地の門内も、営業日の騒がしさが嘘のように静まり返り、天井から空調の低い唸りだけが降りてくる。
机の上には、先月受け取った優良表彰の盾が置かれていた。
県警本部の講堂。並んだ背広の背中、壇上のマイク、賞状を読み上げる声、拍手の音。県警と保健所は、あかねナイトグループを健全な営業の事例として表彰した。社長は満足げで、業界団体の代表として来ていた片桐店長は、「仕上がったな」と言った。
俺は壇上で賞状と盾を受け取った。厚い紙の感触も、金の縁も、まだ乾ききっていない朱肉の匂いも覚えている。盾を持てば、それなりの重さがあった。
だが、その意味だけは、いまもよく分からない。
御殿を立て直し、三店舗を整え、四店舗を安定させた。法令を守り、衛生管理を徹底し、働く人間が不当に扱われないよう線を引いた。その結果を外から評価されたのだから、喜ぶべきことなのだろう。
机の上の盾へ手を伸ばして持ち上げると、表面に自分の顔が映った。光の加減で少し歪み、角度を変えると輪郭がはっきりする。
昨夜、中原に言われた言葉が浮かんだ。
――もう、この仕事を辞めなさい。
あのとき、確かに涙は出た。だが、涙が出ただけで、何かが変わったのだろうか。
盾を少し傾けると、窓から入る冬の日差しが反射した。磨けばもっときれいになる。曇りも指の跡も取れるだろう。
今日は磨かなかった。
表面を整えても、胸の奥に残っているものまで消えるわけではない。
二
ふと、いくつかの場面が浮かんだ。
「逃げ場もねえな。使える。明日から来い」
十八の俺を拾った社長の声だった。
行くところがなく、住む場所もなく、何をすればよいのかも分からなかった俺に、社長は仕事と寝床を与えた。黒服になってからは、怒鳴られ、殴られながら手順を覚えた。それでも、自分が後輩を教える側になったとき、同じことをする必要はないと思った。理由を説明し、間違えたなら直させればいい。人を殴っても、仕事が正確になるわけではない。
御殿へ送り込まれ、旧ボイラー室を開けた夜も思い出す。
記録、写真、テープ、通帳。一人の人間が自分の欲や都合を基準にした結果、店そのものが歪んでいた。だから俺は、人ではなく仕組みで動く店にしようとした。誰が店長でも、決めた線を守れば同じように回る。誰か一人の感情で、働く人間の扱いが変わらないようにする。
その延長線上に、いまの四店舗がある。
そして、みほが辞めると言った日の喫煙所。
「そうですか。おめでとうございます」
祝うことはできたが、引き止めることはできなかった。正確には、何と言えばいいのか分からなかった。
借金を完済した。辞める理由も筋が通っている。本人が決めたことなら、その選択を邪魔するべきではない。そこまでは整理できた。
だが、行ってほしくないと思った。
その感情だけが、どこにも置けなかった。
昨夜、中原から「辞めるという道」を示されても、それで何かが整理されたわけではない。むしろ、これまで考える必要がないと思っていたものまで、急に目の前へ置かれたような気がする。
俺は盾を机へ戻した。これ以上座って考えていても、同じところを回るだけのように思えたので、立ち上がってコートを手に取った。
机の書類を揃え、灰皿が空なのを確認し、窓を閉める。電気を消す前に、もう一度室内を見回した。休業中でも閉室の手順は変えない。
守るべきところは守ってから、外へ出た。
三
御殿へ向かう道には営業日の賑わいがなく、自分の靴音が妙にはっきり聞こえた。
裏口の鍵を開けると、わずかに洗剤の匂いが残っている。ロビーは最低限の照明だけが点き、受付も通路も静かだった。
ここは、俺が最初に任された店だ。
歩合を戻し、帳簿を直し、仕入先を整理し、衛生の線を決めた。そのあと何度も迷い、そのたびにここへ戻ってきた。四店舗を見るようになった今でも、御殿へ入れば、どこを見ればいいのか身体が先に分かる。
奥の廊下で、中原がモップを動かしていた。
「お疲れさまです」
「店長。どうされました」
「少し寄りました」
中原はそれ以上訊かず、モップを端へ寄せた。
「昨夜は、ありがとうございました」
「いえ。少し言い過ぎました」
「俺は……まだ、うまく整理できていません」
「整理は、急がなくてもいいでしょう」
「俺は、整理してからでないと動けません」
口にしてから、それがいつもの自分のやり方だと気づいた。
中原が俺を見た。
「今日は?」
短い問いだった。俺は少し考えてから答えた。
「……少し、外します」
言ってから、自分でも妙な感じがした。担当を外す。予定を外す。決めた範囲から外へ出る。普段なら、理由と目的を先に決め、それから必要な手順を組む。
今日は、そのどれも決まっていない。
中原は小さく頷いた。
「ええ。こちらは、私が見ておきます」
「……お願いします」
「お気をつけて」
「おつかれさまでした」
いつもと同じ言葉を交わして通用口へ向かった。外へ出ると冬の風が頬を刺したが、振り返らず、そのまま歩いた。
四
あかね市駅へ向かった。
これまで電車に乗ることはあっても、たいていは仕事だった。取引先へ行く、別店舗を見る、必要なものを買う。行き先には必ず理由があり、着いたあとにすることも決まっていた。
今日は違う。
駅前は年末の人波で混み合っていた。大きな紙袋を提げた家族、土産物を抱えた男、帰省らしい若者たちが改札へ吸い込まれていく。誰も俺を知らず、俺も誰も知らない。
そのまま出札口の列へ並んだ。
「どちらまでですか」
順番が来て、駅員に訊かれた。
俺は、一つの地名を口にした。
答えてから、自分でも少し驚いた。駅員は何も気にせず運賃を告げ、俺は財布から金を出して、釣り銭と切符を受け取った。
列を離れたところで、手の中の切符を見た。
長距離の乗車券だった。
行先欄に印字された地名を、しばらく見つめる。その地名には覚えがあり、自分とまったく無関係な場所ではないことも分かっている。
それでも、なぜ自分がそこまでの切符を買ったのかは分からなかった。
仕事なら、目的地を決めてから切符を買う。必要な時刻を調べ、移動時間を見積もり、着いてから何をするのかを決める。それから出る。
今日は、その順番が逆だった。
理由も決まっていないのに、行き先だけが先に決まっている。
改札を通り、階段を降りた。昨夜から何度考えても、胸の奥に残るものの原因を一つに絞ることも、どう処理するべきか決めることもできていない。
ホームの売店で、紙カップのコーヒーを一つ買った。
ほどなく電車が滑り込み、ブレーキの音を響かせた。窓の向こうには、俺とは関係のない人間たちが座っている。ドアが開き、人が降り、その隙間を縫うように乗客が入っていった。
俺は流れの前で少しだけ立ち止まった。
戻ることもできるし、乗ることもできる。どちらが正しいのかは、まだ分からない。
それでも、一歩前へ出た。
車内へ入り、自分の席に腰を下ろす。しばらくしてドアが閉まり、電車がゆっくり動き始めた。
あかね市駅のホームが窓の外を流れていく。
売店で買ったコーヒーは、まだ温かかった。俺は紙カップを口元へ運んだ。
一口飲んだ。
まずかった。




