第45話 辞めるという道
1985年12月30日(月)
私は、中原和夫と申します。昭和二十年生まれの四十歳です。
中学を出て町工場へ入り、そこが潰れて夜の世界へ流れ込みました。気がつけば二十三年、「あかね御殿」で黒服をしております。
一
今年も御殿は、いつもと変わらぬ顔で最終営業日を迎えました。客足は安定し、黒服の動きにも滞りはなく、コンパニオンたちもそれぞれの持ち場で役目を果たしています。
店長――田中公児は、昼から四店を巡っておりました。
レジーナ、ルミナ、ローザ、そして最後に御殿。四軒を束ね、数字を見て、人を動かす。二十五の若さで背負うには、いささか重い役目です。
夕刻、事務所の扉が静かに開きました。
「本日も、特段の問題はありませんでした」
「お疲れさまでした」
「ありがとうございます」
その顔を見たとき、私はわずかに息を詰めました。乱れがないのです。
忙しい人間というものは、どこかに綻びが出ます。言葉が早くなったり、視線が泳いだり、机の上の書類を少し乱暴に置いたりする。ところが、この方にはそれがない。以前よりも、さらにきれいに整っている。
みほさんが御殿を辞めて、ひと月になります。
借金を完済したと告げられた日、店長は祝いの言葉を口にしましたが、引き止めませんでした。本人が決めたことなら、その選択を邪魔しない。店長としては、正しい対応だったのでしょう。
けれど、その日からこの方は、何かを余計に奥へ押し込んだように見えました。
店は回っています。数字も落ちていません。黒服もコンパニオンも、以前より安心して働いている。それなのに、人がひとり抜けたあとの隙間まで、まるで最初からなかったように埋めてしまった。
私は、そのことが気になっていました。
二
営業を終え、事務所で酒を開けました。ジョニ黒です。若いころ、安月給の私には手の届かなかった酒でした。
氷を落とし、琥珀色を注ぐ。グラスの中だけが、静かに揺れています。
「本年も、お世話になりました」
「こちらこそです」
軽くグラスを合わせました。
しばらくは来年の話でした。送客の導線、人員の再配置、春先の広告、三店舗の責任者にどこまで判断を渡すか。話は滞りません。
私は頃合いを見て、口を開きました。
「……みほさんのこと、考えますか」
店長は間を置かず答えました。
「俺は、合理的な判断だったと思っています」
「合理的、ですか」
「借金も完済されていますし、退店の理由も明確です。引き止める理由はありません」
いかにも、この方らしい答えでした。
「寂しくはありませんでしたか」
「感情を優先すると、判断を誤ります」
「それは業務の話でしょう」
「俺は業務を優先しています。個人的感情は、担当範囲外です」
胸の奥で、何かが切れました。
「……ふざけるな」
店長が、ゆっくりこちらを見ました。
自分の口から出た言葉だと分かるまで、一瞬かかりました。
「あなたは正しい。正しいですよ。ですが、その正しさで自分の気持ちまで切り落とす必要はないでしょう」
「俺は、何も切り落としていません」
「では、なぜ、そんなに平気な顔をしているのですか!」
声が事務所の壁に返りました。
私は固まりました。
店長を、怒鳴ったのです。
「……いや、その」
グラスを持ったまま、どうしてよいのか分からなくなりました。こんなふうに人へ声を荒らげたのがいつ以来なのか、思い出せません。初めてだったのかもしれません。
「すみません。今のは……」
謝ろうとして、言葉が止まりました。
店長の頬を、一筋、涙が伝っていたからです。
泣き顔ではありません。表情はほとんど変わっていませんでした。
「……問題はありません」
その言葉を聞いて、今度は怒る気にもなれませんでした。
三
長い沈黙が流れました。ジョニ黒の氷は半分ほど溶けています。
「俺は、間違っていますか」
店長が先に訊きました。
「分かりません」
私は正直に答えました。
「ただ、そのまま続けるのは、やめた方がいいと思います」
「……どういう意味でしょうか」
私はグラスを置きました。
「店長。もう、この仕事を辞めなさい」
店長は、ぽかんと私を見ました。
「……何をですか」
「この仕事です」
「御殿を、ですか」
「御殿だけではありません。風呂屋も、夜の世界もです」
怒るでも傷つくでもなく、本当に意味が分からない顔をしています。
「……なぜですか」
問い返す声に反発はありませんでした。ただ、理由を求めているだけでした。
私は、少し昔のことを思い出しました。店長が御殿へ来て間もないころ、二人でこの酒を飲んだ夜です。
「前にも言いましたね。私は、ここを辞めたら行くところがないと思って生きてきた、と」
「はい」
「町工場が潰れてここへ来て、二十年以上です。私は長いこと、ここしかないと思っていました」
店長は黙って聞いています。
「でも、あなたは違う。五年が十年になろうが、二十年になろうが、必要なら別の道へ行ける人だと、私はあのころから思っています」
「……俺が、ですか」
「ええ」
店長は視線を落としました。
「ですが、俺が辞めれば、四店舗の運用は――」
「それが、仕事の話でしょう」
言葉を重ねると、店長が口を閉じました。
「あなたはずっと、誰か一人がいなくても回る店を作ろうとしてきた。御殿も、レジーナもそうでしょう。だったら、あなたがいなくなったら全部崩れるようでは、そちらの方が失敗じゃありませんか」
「……」
「明日、辞表を出せと言っているわけではありません。ただ、辞めるという道まで最初から消して考えるのは、やめた方がいい」
店長の目が動きました。
「社長に拾っていただきました」
「知っています」
「ここで仕事を教わりました。俺には――」
そこで言葉が止まりました。
私は続きを待ちましたが、店長は何も言いません。
「恩があることと、一生ここにいることは、同じではないでしょう」
そこまで言って、私は口を閉じました。
これ以上は、私が決めることではありません。
四
店長は、溶けた氷をしばらく見ていました。
「……辞める」
独り言のように呟きました。
「はい」
「考えたことがありませんでした」
「でしょうね」
「辞めたいと思ったことも、ありません」
「それも分かります」
店長はしばらく黙り、それから顔を上げました。
「……辞めたら、俺は何をすればいいのでしょうか」
「それを私に訊かれても困ります」
思わず苦笑しました。
「店長の人生でしょう」
店長も、ほんの少しだけ口元を緩めました。
「……そうですね」
また沈黙が落ちました。
外は冷え込んでいます。御殿のロビーは静かで、照明も落ち、廊下に足音はありません。
「中原さん」
「はい」
「……考えます」
「ええ」
検討します、ではありませんでした。
私は残った酒を口にしました。今夜、この方が何かを決めたわけではありません。みほさんにも、仕事にも、答えは出ていないでしょう。
ただ、「辞める」という言葉だけは、ようやくこの方の中へ入ったようでした。
私は、それ以上何も言いませんでした。
店長も、もう「問題はありません」とは言いませんでした。




