↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
根のない男 ―― 夜の街で、居場所をつくる  作者: 早瀬 構


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

46/49

第45話 辞めるという道

1985年12月30日(月)


 私は、中原和夫と申します。昭和二十年生まれの四十歳です。


 中学を出て町工場へ入り、そこが潰れて夜の世界へ流れ込みました。気がつけば二十三年、「あかね御殿」で黒服をしております。


一


 今年も御殿は、いつもと変わらぬ顔で最終営業日を迎えました。客足は安定し、黒服の動きにも滞りはなく、コンパニオンたちもそれぞれの持ち場で役目を果たしています。


 店長――田中公児は、昼から四店を巡っておりました。


 レジーナ、ルミナ、ローザ、そして最後に御殿。四軒を束ね、数字を見て、人を動かす。二十五の若さで背負うには、いささか重い役目です。


 夕刻、事務所の扉が静かに開きました。


「本日も、特段の問題はありませんでした」


「お疲れさまでした」


「ありがとうございます」


 その顔を見たとき、私はわずかに息を詰めました。乱れがないのです。


 忙しい人間というものは、どこかに綻びが出ます。言葉が早くなったり、視線が泳いだり、机の上の書類を少し乱暴に置いたりする。ところが、この方にはそれがない。以前よりも、さらにきれいに整っている。


 みほさんが御殿を辞めて、ひと月になります。


 借金を完済したと告げられた日、店長は祝いの言葉を口にしましたが、引き止めませんでした。本人が決めたことなら、その選択を邪魔しない。店長としては、正しい対応だったのでしょう。


 けれど、その日からこの方は、何かを余計に奥へ押し込んだように見えました。


 店は回っています。数字も落ちていません。黒服もコンパニオンも、以前より安心して働いている。それなのに、人がひとり抜けたあとの隙間まで、まるで最初からなかったように埋めてしまった。


 私は、そのことが気になっていました。


二


 営業を終え、事務所で酒を開けました。ジョニ黒です。若いころ、安月給の私には手の届かなかった酒でした。


 氷を落とし、琥珀色を注ぐ。グラスの中だけが、静かに揺れています。


「本年も、お世話になりました」


「こちらこそです」


 軽くグラスを合わせました。


 しばらくは来年の話でした。送客の導線、人員の再配置、春先の広告、三店舗の責任者にどこまで判断を渡すか。話は滞りません。


 私は頃合いを見て、口を開きました。


「……みほさんのこと、考えますか」


 店長は間を置かず答えました。


「俺は、合理的な判断だったと思っています」


「合理的、ですか」


「借金も完済されていますし、退店の理由も明確です。引き止める理由はありません」


 いかにも、この方らしい答えでした。


「寂しくはありませんでしたか」


「感情を優先すると、判断を誤ります」


「それは業務の話でしょう」


「俺は業務を優先しています。個人的感情は、担当範囲外です」


 胸の奥で、何かが切れました。


「……ふざけるな」


 店長が、ゆっくりこちらを見ました。


 自分の口から出た言葉だと分かるまで、一瞬かかりました。


「あなたは正しい。正しいですよ。ですが、その正しさで自分の気持ちまで切り落とす必要はないでしょう」


「俺は、何も切り落としていません」


「では、なぜ、そんなに平気な顔をしているのですか!」


 声が事務所の壁に返りました。


 私は固まりました。


 店長を、怒鳴ったのです。


「……いや、その」


 グラスを持ったまま、どうしてよいのか分からなくなりました。こんなふうに人へ声を荒らげたのがいつ以来なのか、思い出せません。初めてだったのかもしれません。


「すみません。今のは……」


 謝ろうとして、言葉が止まりました。


 店長の頬を、一筋、涙が伝っていたからです。


 泣き顔ではありません。表情はほとんど変わっていませんでした。


「……問題はありません」


 その言葉を聞いて、今度は怒る気にもなれませんでした。


三


 長い沈黙が流れました。ジョニ黒の氷は半分ほど溶けています。


「俺は、間違っていますか」


 店長が先に訊きました。


「分かりません」


 私は正直に答えました。


「ただ、そのまま続けるのは、やめた方がいいと思います」


「……どういう意味でしょうか」


 私はグラスを置きました。


「店長。もう、この仕事を辞めなさい」


 店長は、ぽかんと私を見ました。


「……何をですか」


「この仕事です」


「御殿を、ですか」


「御殿だけではありません。風呂屋も、夜の世界もです」


 怒るでも傷つくでもなく、本当に意味が分からない顔をしています。


「……なぜですか」


 問い返す声に反発はありませんでした。ただ、理由を求めているだけでした。


 私は、少し昔のことを思い出しました。店長が御殿へ来て間もないころ、二人でこの酒を飲んだ夜です。


「前にも言いましたね。私は、ここを辞めたら行くところがないと思って生きてきた、と」


「はい」


「町工場が潰れてここへ来て、二十年以上です。私は長いこと、ここしかないと思っていました」


 店長は黙って聞いています。


「でも、あなたは違う。五年が十年になろうが、二十年になろうが、必要なら別の道へ行ける人だと、私はあのころから思っています」


「……俺が、ですか」


「ええ」


 店長は視線を落としました。


「ですが、俺が辞めれば、四店舗の運用は――」


「それが、仕事の話でしょう」


 言葉を重ねると、店長が口を閉じました。


「あなたはずっと、誰か一人がいなくても回る店を作ろうとしてきた。御殿も、レジーナもそうでしょう。だったら、あなたがいなくなったら全部崩れるようでは、そちらの方が失敗じゃありませんか」


「……」


「明日、辞表を出せと言っているわけではありません。ただ、辞めるという道まで最初から消して考えるのは、やめた方がいい」


 店長の目が動きました。


「社長に拾っていただきました」


「知っています」


「ここで仕事を教わりました。俺には――」


 そこで言葉が止まりました。


 私は続きを待ちましたが、店長は何も言いません。


「恩があることと、一生ここにいることは、同じではないでしょう」


 そこまで言って、私は口を閉じました。


 これ以上は、私が決めることではありません。


四


 店長は、溶けた氷をしばらく見ていました。


「……辞める」


 独り言のように呟きました。


「はい」


「考えたことがありませんでした」


「でしょうね」


「辞めたいと思ったことも、ありません」


「それも分かります」


 店長はしばらく黙り、それから顔を上げました。


「……辞めたら、俺は何をすればいいのでしょうか」


「それを私に訊かれても困ります」


 思わず苦笑しました。


「店長の人生でしょう」


 店長も、ほんの少しだけ口元を緩めました。


「……そうですね」


 また沈黙が落ちました。


 外は冷え込んでいます。御殿のロビーは静かで、照明も落ち、廊下に足音はありません。


「中原さん」


「はい」


「……考えます」


「ええ」


 検討します、ではありませんでした。


 私は残った酒を口にしました。今夜、この方が何かを決めたわけではありません。みほさんにも、仕事にも、答えは出ていないでしょう。


 ただ、「辞める」という言葉だけは、ようやくこの方の中へ入ったようでした。


 私は、それ以上何も言いませんでした。


 店長も、もう「問題はありません」とは言いませんでした。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。