第44話 答えのない空欄
1985年11月1日(金) 10:00
一
先週、あかね県警とあかね市保健所が合同で、「あかねナイトグループ」を健全事例として表彰する、と社長から聞かされていた。
会場は県警本部の講堂だった。背広の背中が並び、壇上にはマイクが三本。椅子の脚が床を擦る音と、配られた紙をめくる音だけがやけに響いている。社長はいつも通りだった。もう決まったことに、いちいち感情を乗せない顔をしている。
「仕上がったな、公児よ」
背後から鼻を鳴らす音がした。振り向くと、プラチナムの片桐店長が立っていた。業界団体の代表として列席すると聞いている。俺の古巣の元上司で、いまはグループを離れ、自分の側を持つ人だ。
「ありがとうございます」
「礼を言われる筋じゃない」
それだけ言って、片桐店長は前を向いた。
県警刑事部長の挨拶が始まり、続いて市保健所所長が話した。法令遵守、衛生管理、従業員保護、地域の秩序。聞き覚えのある言葉が並ぶ。どれも、俺たちが特別なこととして始めたものではない。崩れていたものを戻し、必要な線を決め、守ってきただけだ。
やがて名前を呼ばれた。立ち上がり、壇上へ行き、表彰状を受け取る。厚い紙、金の縁、まだ乾ききっていない朱肉の匂い。手に持てば、それなりの重さがある。
持ちこたえ、基準を揃え、外から評価された。並べれば、完成したように見える。
拍手が起きた。
その音の中で、俺は急に落ち着かなくなった。胸が苦しいわけではない。逃げたい理由も説明できない。ただ、ここに長くいたくなかった。
式が終わると、社長へ一礼し、そのまま御殿へ向かった。
照度も、受付の位置も、通路幅も知っている。匂いも、空調の音も、朝のロビーの光り方も分かる。そういうものに触れていたかった。
二
御殿の喫煙所に入ると、みほがいた。
煙の層は薄く、換気扇の音が一定に続いている。俺は煙草を吸わないが、ここでは余計な話を求められないことが多かった。
みほがこちらを見た。
「店長、式どうやったん」
「問題はありませんでした」
「そらそうや。問題あったら表彰せんやん」
口元だけで笑い、灰を落とす。
「表彰状、もろたん?」
「はい」
「見せて」
「レジーナに置いてきました」
「なんや、持ってへんのかいな」
また笑った。その笑い方を見ていると、講堂にいたときより少し楽だった。
みほは煙草を一口吸い、それから何でもない話をするように言った。
「借金、完済したで」
意味を取るまで、一瞬だけ間があった。
「……そうですか。おめでとうございます」
「おおきに」
返すと言い続けていた金だ。何年もこの仕事を続けて、一つずつ返してきた。終わったのなら良いことに決まっている。そう判断したところまでは、いつもと同じだった。
「でな」
「はい」
「今月末で、辞めよう思てる」
換気扇の音だけが残った。
三
最初に頭へ浮かんだのは、人員表だった。
御殿の稼働、指名客、年末の出勤予定、欠員。みほが抜ければ、どこを埋めるか。新人を入れるなら教育期間はどれくらい必要か。そこまで考えてから、違うと思った。
今、考えることではない。
「……今月末、ですか」
「うん」
「決めたんですか」
みほは少しだけ煙を吐き、俺を見た。
「……うん。もう決めた」
当然だった。借金を返すために働いていたのなら、返し終えたあとも残る理由はない。
店として考えれば、退店は困る。だが、それなら採用すればいい。御殿はもう、誰か一人が抜けたくらいで崩れる店ではない。
そこまで整理しても、何も楽にならなかった。
みほがいなくなる。
先月、みほは「豆を買うところから教えたる」と言った。あのとき俺は、次があるものとして礼を言った。いつ教わるかは決めていない。急ぐ理由もないと思っていた。
今月末で辞める。
そう考えた途端、その約束まで急に期限のあるものになった。仕事とは関係がないのに、そのことが妙に引っ掛かった。
その事実だけが、ほかの項目と同じ場所へ収まらない。
「店長?」
「……すみません」
「何が?」
何が、なのか自分でも分からなかった。
「少し、仕事がありますので」
口にした瞬間、違うとも思った。仕事なら後でもできる。それでも、ほかに言えることがなかった。
みほは俺を見たまま、ほんの少しだけ目を細めた。
「……あ、そう」
「はい」
「おおきに。さいなら」
俺は返事ができなかった。
みほは煙草を灰皿へ押しつけ、立ち上がった。扉へ向かう背中を見ているうち、呼び止めるべきだと思った。
何と言う。
退店の理由は筋が通っている。借金を返し終えたのなら、次へ進むのは本人の自由だ。引き留める権利は俺にない。
それでも、扉へ手を掛ける姿を見ていると、行ってほしくないと思った。
なぜそう思うのかを考えようとした途端、頭の中にまた店のことが入り込んできた。年末、指名、欠員、採用。数字へ戻れば整理できる。
みほの棚は、いつも物が少なかった。必要なものだけが入り、いつでも片づけられる。
「店長、ほな」
扉が閉まった。
四
喫煙所に一人残った。
社会は俺たちを健全だと言った。県警と保健所が壇上でそう言い、表彰状までくれた。社長も満足している。外から見れば、御殿を立て直し、三店舗を整え、四店舗を安定させた結果なのだろう。
なのに、さっきのことだけは、どこにも置けなかった。
みほの借金完済は、喜ぶべきことだ。辞めるのも、本人が決めることだ。俺は「おめでとうございます」と言った。そこまでは間違っていない。
その先がなかった。
引き留めれば、本人の選択を邪魔する。引き留めなければ、終わる。どちらが正しいか分からない。
そもそも、なぜ引き留めたいのか。
御殿に必要だからか。
違うような気がした。
では何なのかと考えると、急に息苦しくなる。答えのないものを長く見ていると、足場がなくなる。
俺は喫煙所を出た。
御殿のロビーを一周する。照度、受付、通路、匂い。異常はない。帳簿にも問題はなく、中原へ確認することもない。
そのままレジーナへ戻り、机の上の書類を開いた。未処理の伝票を順番に並べ、数字を合わせ、三店舗の日報を確認する。やることはある。手を動かせば、一つずつ終わる。
夕方になり、ロビーへ出た。床の光沢、壁の汚れ、空調の音。どれも正常だった。
閉店時刻が近づき、照明を夜間の基準へ落とす。明るさが一段下がり、受付の影が伸びる。
今日、俺たちは表彰された。
健全で、優良で、模範になる店だと言われた。
その同じ日に、みほが辞めると言った。
俺は、おめでとうございます、と答えた。
それから、仕事があります、と言って逃げた。
何を言えばよかったのか、まだ分からない。
ただ一つだけ、数字では埋まらない空欄が残った。
優良の夜に、コンパニオンの退職を、受け付けた。




