第43話 柱という歪み
1985年10月7日(月) 15:00
一
午後三時。レジーナの社長室で、第二四半期の報告を終えた。
客単価、延長率、三店舗間送客率、衛生コスト、黒服人件費。七月から九月まで、どの数字も設定した範囲を大きく外れていない。俺は最後の資料を閉じ、社長へ向き直った。
「以上です。特筆すべき異常値はございません」
社長は灰皿へ葉巻を押しつけ、低く笑った。
「シャンシャンだな」
「はい。基準通りです」
春先には、一軒の遅れが別の二軒へ波及し、受付も清掃も崩れかけた。それを一つずつ分け、送客と応援の手順を決め、各店の責任者へ判断基準を渡した。いまでは俺がいなくても、ほとんどのことは現場で処理される。
それが目的だった。構造は整い、数字は静かに積み上がり、歪みが出れば検知され、修正される。
社長はそれ以上、何も言わなかった。怒号も皮肉もなく、称賛らしい称賛もない。ただ「回っている」という事実だけが、机の上に残った。
社長室を出ると、廊下にいたレジーナの黒服が軽く頭を下げた。
「店長、問題ありませんでしたか」
「問題はありません」
「さすがですね」
「俺ではなく、各店の運用が安定した結果です」
そう答えたが、相手は笑っていた。
以前の彼らの目には、焦りと猜疑が混じっていた。いまは違う。任せれば何とかなる。聞けば答えが返ってくる。そんな確信がある。
その確信が、自分たちの手順ではなく、俺へ向いていることが最近は少し気になっていた。
階段を降りながら、プラチナムの動向を思い出した。片桐店長たちは、こちらへ値引きも宣伝合戦も仕掛けてこない。上で話がついている以上、互いに客を取り、互いに稼いでいるだけだ。
俺たちが四店舗を崩さず回したことも、向こうには大した意味を持たないのだろう。
それでいいはずだった。
二
三店舗は、ようやく一つの回路として動き始めている。
レジーナで広く客を受け、ルミナでは単価と品質を守り、ローザでは中級帯の固定客を積み上げる。希望時間や予算が合わなければ別店舗へ回し、黒服の配置も定まった。
ところが、仕組みが整うほど別の言葉が増えた。
「店長基準でいきましょう」
「店長なら、どう判断されますか」
「店長の考えに合わせます」
そのたびに訂正する。
「基準は俺ではありません。手順書と各店の運用です」
「でも、その基準を作ったのは店長でしょう」
「作ったのではなく、必要なものを揃えただけです」
「それがすごいんですよ」
話が戻る。
ある夜、レジーナの事務所で若い黒服から「店長は俺たちの柱です」と言われたとき、七月にみほから言われた言葉を思い出した。
――その基準ごとアンタやと思われるんや。
あのときは意味を整理できなかったが、いまなら分かる。俺が決めた手順を守っているのではなく、俺ならどうするかを考え始めている。
正常値が、いつの間にか「店長の値」へ置き換わっていた。
それは、まずい。
前店長の王様の仕組みを壊したのは、個人の思惑や身勝手で店を動かさないためだった。誰が店長でも、規定と手順に沿えば同じ水準で回る状態に戻したかった。
なのに、俺自身が新しい基準になれば、形が違うだけで同じところへ戻る。
最近、ため息を飲み込む回数が増えた。飲み込めないときは、返事が半拍遅れる。
「店長、こちらの件ですが」
「……あ、その件でしたか」
自分の声が、少し遠く聞こえることがある。
三
中原は、御殿を問題なく回していた。
帳簿は正常、照度も衛生コストも基準内で、六万円固定の純高級店として崩れていない。俺が御殿へ行く回数を減らしても、現場で判断し、必要なことだけを報告してくれる。
「店長、こちらは心配いりませんよ」
「助かります」
それは本心だった。
俺の担当は、御殿と三店舗に広がった。各店の数字を確認し、異常値があれば原因を分ける。仕事の範囲は明確なはずなのに、最近は矯正の順番を決めるまでに少し時間がかかる。
「ルミナからの送客が、昨日だけ少し滞りました」
「原因を分けて下さい。受付、空室、到着時刻、それから――」
そこで一拍遅れた。
「……人員です」
中原が俺を見る。
「疲れてますな」
「問題ありません」
「ため息も増えました」
「気のせいです」
「そうですか」
それ以上、中原は言わなかった。
俺は三店舗を巡回する回数を増やしていた。数字を見ている方が楽だったし、一軒に長く留まらずに済む。
「店長の判断を」
「店長の一言で」
そのたびに、俺の一言で決めるなと思う。
基準で決めろ。
そう言えば済むのに、最近は口に出す前に考えるようになった。
もし俺が強く否定すれば、それもまた「店長の判断」になるのではないか。
個人へ寄せるなと言う個人の言葉へ、さらに従わせることになるのではないか。
考え始めると、どこまでが正しいのか分からなくなった。
四
夜、レジーナのロビーを一周した。
待ち時間は表示され、受付は滞らず、黒服もそれぞれの持ち場で動いている。照度も匂いも異常はない。
それでも胸の奥に、細かい砂でも残っているような感覚が消えなかった。
御殿へ向かった。最近は、あそこの喫煙所に入ると少し楽になる。
みほがいた。魔法瓶からコーヒーを紙コップへ注ぎ、俺へ差し出す。
「ありがとうございます」
「今日はちょい濃いめやで」
一口飲む。苦味のあとに、以前より少し深い香りが残った。
「前にいただいたのとは違いますね」
「分かるん?」
「違うことくらいは」
「へえ。店長、舌だけは育ってきたな」
「だけ、ですか」
みほが笑った。
俺はもう一口飲んでから、紙コップを見た。
「みほさん」
「ん?」
「いつか、コーヒーの淹れ方を教えてもらえませんか」
みほの手が、一瞬だけ止まった。
「コーヒー?」
「はい。豆の挽き方とか、量とか。自分でも淹れてみたいです」
「……店長が?」
「おかしいですか」
「いや。アンタ、そういうこと言うんやなあと思て」
「前にいただいたのが美味しかったので」
みほはしばらく俺を見たあと、紙コップへ目を落として笑った。
「ええよ。そない難しいもんちゃうし」
「ありがとうございます」
「ただし、何グラム何度で何分とか、いきなり表にせんといてや」
「必要なら記録はします」
「ほら、そういうとこや」
吹き出したあと、みほはすぐには次の言葉を続けなかった。俺の顔を見るでもなく、灰皿の縁へ指を添え、しばらく黙っている。
「店長」
「はい」
「無理してへん?」
「無理はしていません」
「ほんまかいな」
「仕事は回っています。数字も基準内です」
「……せやな」
みほはしばらく俺を見ていた。
「……何ですか」
「何でもない。今度、豆買うとこから教えたるわ」
「お願いします」
それ以上、みほは何も言わなかった。俺も訊かなかった。
無理をしているかどうかは、数値で測れない。
閉店後、レジーナへ戻ってロビーの灯りを落とした。照明は閉店時の基準へ移行し、受付も客室も静かになる。それでも、決めた手順は明日も同じように動く。
俺は、揺れない柱になりたいわけではない。ただ、歪んだところを見つけ、元へ戻したいだけだ。
だがもし、そのやり方そのものが人を俺へ寄せ、新しい歪みを作っているのだとしたら。
正常に戻してきたつもりだった。
それなのに、俺は――まちがっていたのか。




