↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
根のない男 ―― 夜の街で、居場所をつくる  作者: 早瀬 構


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

44/52

第43話 柱という歪み

1985年10月7日(月) 15:00


一


 午後三時。レジーナの社長室で、第二四半期の報告を終えた。


 客単価、延長率、三店舗間送客率、衛生コスト、黒服人件費。七月から九月まで、どの数字も設定した範囲を大きく外れていない。俺は最後の資料を閉じ、社長へ向き直った。


「以上です。特筆すべき異常値はございません」


 社長は灰皿へ葉巻を押しつけ、低く笑った。


「シャンシャンだな」


「はい。基準通りです」


 春先には、一軒の遅れが別の二軒へ波及し、受付も清掃も崩れかけた。それを一つずつ分け、送客と応援の手順を決め、各店の責任者へ判断基準を渡した。いまでは俺がいなくても、ほとんどのことは現場で処理される。


 それが目的だった。構造は整い、数字は静かに積み上がり、歪みが出れば検知され、修正される。


 社長はそれ以上、何も言わなかった。怒号も皮肉もなく、称賛らしい称賛もない。ただ「回っている」という事実だけが、机の上に残った。


 社長室を出ると、廊下にいたレジーナの黒服が軽く頭を下げた。


「店長、問題ありませんでしたか」


「問題はありません」


「さすがですね」


「俺ではなく、各店の運用が安定した結果です」


 そう答えたが、相手は笑っていた。


 以前の彼らの目には、焦りと猜疑が混じっていた。いまは違う。任せれば何とかなる。聞けば答えが返ってくる。そんな確信がある。


 その確信が、自分たちの手順ではなく、俺へ向いていることが最近は少し気になっていた。


 階段を降りながら、プラチナムの動向を思い出した。片桐店長たちは、こちらへ値引きも宣伝合戦も仕掛けてこない。上で話がついている以上、互いに客を取り、互いに稼いでいるだけだ。


 俺たちが四店舗を崩さず回したことも、向こうには大した意味を持たないのだろう。


 それでいいはずだった。


二


 三店舗は、ようやく一つの回路として動き始めている。


 レジーナで広く客を受け、ルミナでは単価と品質を守り、ローザでは中級帯の固定客を積み上げる。希望時間や予算が合わなければ別店舗へ回し、黒服の配置も定まった。


 ところが、仕組みが整うほど別の言葉が増えた。


「店長基準でいきましょう」


「店長なら、どう判断されますか」


「店長の考えに合わせます」


 そのたびに訂正する。


「基準は俺ではありません。手順書と各店の運用です」


「でも、その基準を作ったのは店長でしょう」


「作ったのではなく、必要なものを揃えただけです」


「それがすごいんですよ」


 話が戻る。


 ある夜、レジーナの事務所で若い黒服から「店長は俺たちの柱です」と言われたとき、七月にみほから言われた言葉を思い出した。


 ――その基準ごとアンタやと思われるんや。


 あのときは意味を整理できなかったが、いまなら分かる。俺が決めた手順を守っているのではなく、俺ならどうするかを考え始めている。


 正常値が、いつの間にか「店長の値」へ置き換わっていた。


 それは、まずい。


 前店長の王様の仕組みを壊したのは、個人の思惑や身勝手で店を動かさないためだった。誰が店長でも、規定と手順に沿えば同じ水準で回る状態に戻したかった。


 なのに、俺自身が新しい基準になれば、形が違うだけで同じところへ戻る。


 最近、ため息を飲み込む回数が増えた。飲み込めないときは、返事が半拍遅れる。


「店長、こちらの件ですが」


「……あ、その件でしたか」


 自分の声が、少し遠く聞こえることがある。


三


 中原は、御殿を問題なく回していた。


 帳簿は正常、照度も衛生コストも基準内で、六万円固定の純高級店として崩れていない。俺が御殿へ行く回数を減らしても、現場で判断し、必要なことだけを報告してくれる。


「店長、こちらは心配いりませんよ」


「助かります」


 それは本心だった。


 俺の担当は、御殿と三店舗に広がった。各店の数字を確認し、異常値があれば原因を分ける。仕事の範囲は明確なはずなのに、最近は矯正の順番を決めるまでに少し時間がかかる。


「ルミナからの送客が、昨日だけ少し滞りました」


「原因を分けて下さい。受付、空室、到着時刻、それから――」


 そこで一拍遅れた。


「……人員です」


 中原が俺を見る。


「疲れてますな」


「問題ありません」


「ため息も増えました」


「気のせいです」


「そうですか」


 それ以上、中原は言わなかった。


 俺は三店舗を巡回する回数を増やしていた。数字を見ている方が楽だったし、一軒に長く留まらずに済む。


「店長の判断を」


「店長の一言で」


 そのたびに、俺の一言で決めるなと思う。


 基準で決めろ。


 そう言えば済むのに、最近は口に出す前に考えるようになった。


 もし俺が強く否定すれば、それもまた「店長の判断」になるのではないか。


 個人へ寄せるなと言う個人の言葉へ、さらに従わせることになるのではないか。


 考え始めると、どこまでが正しいのか分からなくなった。


四


 夜、レジーナのロビーを一周した。


 待ち時間は表示され、受付は滞らず、黒服もそれぞれの持ち場で動いている。照度も匂いも異常はない。


 それでも胸の奥に、細かい砂でも残っているような感覚が消えなかった。


 御殿へ向かった。最近は、あそこの喫煙所に入ると少し楽になる。


 みほがいた。魔法瓶からコーヒーを紙コップへ注ぎ、俺へ差し出す。


「ありがとうございます」


「今日はちょい濃いめやで」


 一口飲む。苦味のあとに、以前より少し深い香りが残った。


「前にいただいたのとは違いますね」


「分かるん?」


「違うことくらいは」


「へえ。店長、舌だけは育ってきたな」


「だけ、ですか」


 みほが笑った。


 俺はもう一口飲んでから、紙コップを見た。


「みほさん」


「ん?」


「いつか、コーヒーの淹れ方を教えてもらえませんか」


 みほの手が、一瞬だけ止まった。


「コーヒー?」


「はい。豆の挽き方とか、量とか。自分でも淹れてみたいです」


「……店長が?」


「おかしいですか」


「いや。アンタ、そういうこと言うんやなあと思て」


「前にいただいたのが美味しかったので」


 みほはしばらく俺を見たあと、紙コップへ目を落として笑った。


「ええよ。そない難しいもんちゃうし」


「ありがとうございます」


「ただし、何グラム何度で何分とか、いきなり表にせんといてや」


「必要なら記録はします」


「ほら、そういうとこや」


 吹き出したあと、みほはすぐには次の言葉を続けなかった。俺の顔を見るでもなく、灰皿の縁へ指を添え、しばらく黙っている。


「店長」


「はい」


「無理してへん?」


「無理はしていません」


「ほんまかいな」


「仕事は回っています。数字も基準内です」


「……せやな」


 みほはしばらく俺を見ていた。


「……何ですか」


「何でもない。今度、豆買うとこから教えたるわ」


「お願いします」


 それ以上、みほは何も言わなかった。俺も訊かなかった。


 無理をしているかどうかは、数値で測れない。


 閉店後、レジーナへ戻ってロビーの灯りを落とした。照明は閉店時の基準へ移行し、受付も客室も静かになる。それでも、決めた手順は明日も同じように動く。


 俺は、揺れない柱になりたいわけではない。ただ、歪んだところを見つけ、元へ戻したいだけだ。


 だがもし、そのやり方そのものが人を俺へ寄せ、新しい歪みを作っているのだとしたら。


 正常に戻してきたつもりだった。


 それなのに、俺は――まちがっていたのか。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。