第42話 測れない基準
1985年7月1日(月) 15:00
一
午後三時。レジーナの社長室で、四月から六月までの四半期報告を終えた。
客単価、延長率、衛生関連費、黒服人件費、三店舗間の送客率。この三か月、いずれも設定した基準の範囲に収まっている。大きく伸びた数字はないが、崩れた数字もなかった。
「以上です」
資料を閉じると、社長は椅子へ深くもたれ、しばらく天井を見ていた。
「……よく、持ちこたえたな」
「ありがとうございます」
それだけだった。怒号も皮肉もなく、葉巻の煙だけがゆっくり上がっている。
頭を下げながら、この三か月を思い返した。
持ちこたえた、という言い方は正確だった。売上が跳ねたわけでも、新しい商売を当てたわけでもない。御殿を含む四店舗の役割は開業前に決め、価格帯も人員配置も一応の形にはしていた。
ただ、紙の上で噛み合ったものが、そのまま営業中にも噛み合うとは限らなかった。
最初の一か月は、何度か崩れかけた。
二
三月九日。本格稼働を始めて最初の土曜だった。
夜八時を過ぎたころから、レジーナのロビーに客が溜まり始めた。予約枠そのものは、朝の時点では出勤人数の範囲内に収めてある。
崩れたのは、その後だった。
ルミナからの送客が重なり、延長が続き、空くはずだった部屋の清掃開始が後ろへずれた。その遅れが一室ずつ次の予約へ移っていた。
「予約してるんだけど?」
「――お名前を確認致します」
「もう三十分も待ってるぞ」
受付の黒服が予約台帳を何度もめくる。俺は横から確認した。
「こちらのお客様は、ルミナからの送客です。先にご案内して下さい」
「――でも、五番室がまだ」
「清掃状況は俺が確認します。受付を止めないで下さい」
無線を取る。
「五番室、あと何分ですか」
『――十分ほどです』
「清掃を一名追加できますか」
『――空いていません』
人員表を見る。ローザは今の時間帯なら一名抜いても基準を割らない。
「ローザから一名、一時間だけ応援に回します」
『――はい』
受付へ戻り、待っている客へ案内時間を伝えさせると、別の黒服が俺のところへ来た。
「店長。回らないですよ」
「どこが詰まっていますか」
「……全部です」
「全部では確認できません。分けて下さい」
黒服は一度息を吐いた。
「受付も遅れてるし、清掃も足りないし、人も――」
「では、受付、清掃、人員です。いま一番詰まっているのは?」
「……清掃です」
「そこから直します」
三店舗を同時に開ければ、どこか一つの遅れが別の店へ移る。それ自体は想定していたが、実際の営業では延長も送客も客の到着時刻も、同じ形では重ならない。
焦って客を詰めても、部屋は早く空かない。黒服がコンパニオンを急かせば、接客まで崩れる。混雑そのものより、混雑したときに店の手順が消える方が問題だった。
三
開業前に決めた三店舗の役割を、営業中の動きへ落とし込む必要があった。
ルミナで希望時間に入れない客には、レジーナを案内する。
「本日、ルミナですと一時間ほどお待ちいただきます。レジーナでしたら二十分ほどでご案内できます。料金体系は異なりますが、ご希望でしたら手配致します」
「じゃあ、そっちで」
ローザが埋まれば、希望額を確認してからレジーナを案内する。納得しなければ待ってもらい、無理に動かさない。
人員も同じだった。清掃が詰まれば別店舗から一時間だけ応援を出し、受付が混めば黒服を動かす。ただし、応援を出した側が基準を割るなら動かさない。
その日の売上だけを追わず、待ち時間、コンパニオンの稼働、清掃の遅れ、黒服の残業を並べて見る。どこか一軒だけを満室にするより、三軒の偏りを小さくした方が、結果として客を断る回数も減った。
数字を見て、動かして、翌日にまた確認する。それを繰り返した。
六月に入るころには、レジーナのロビーでも、黒服が台帳を見ながらそのまま動くようになっていた。
「――ルミナから二名様です」
「――はい。七番、八番へお願いします」
「――承知しました」
別の客には、待ち時間を先に伝えている。
「――本日は混み合っております。ご案内まで十五分ほどです。前後する場合は、先にお知らせ致します」
「分かった」
以前のように、誰かの顔を見て判断を待つ者はいない。
隣にいた黒服が小声で言った。
「店長、今日も基準内です」
「良かったです」
「前みたいに、みんな焦らなくなりましたね」
「焦る必要がなくなっただけです」
「同じことじゃないですか」
「違います」
焦らないように我慢しているのではない。焦らなくても回る手順を作った。それだけだった。
四
七月一日、午後十一時。レジーナの事務所で日報を確認していると、黒服が二人残っていた。
「店長。本当に、助かりました」
「何がですか」
「三月のころ、どうなるかと思ってましたから。店長が来ると、何とかなるっていうか」
「俺一人のおかげではありません。それに、俺にも間違いはあります」
二人が顔を見合わせる。
「前が異常だっただけです。いまは正常に近づいているだけです」
返事はなかった。
最近、こういうことが増えた。俺が事務所へ入ると、話していた黒服が姿勢を直す。コンパニオンからも、自分で判断できるはずのことを訊かれるようになった。
「店長は、どう思います?」
「基準通りでいいと思います」
そう答えても、もう一度こちらを見る。
何を確認されているのか、よく分からなかった。
その夜、御殿へ寄った。ロビーを一周し、照度、受付、通路、匂いを確認する。異常はない。
喫煙所を覗くと、みほがいた。
「店長。久しぶりやな」
「先週も来ました」
「そういう意味ちゃうって、前にも言うたやろ」
みほが笑う。俺は壁際に立った。
「レジーナ、よう回ってるらしいな」
「今のところは」
「みんな、アンタの顔色伺ってるで」
「俺の顔など、伺う必要はありません」
「ほら、それや」
「何ですか」
煙を吐きながら、みほは少し考えた。
「アンタが言うたら、それが正解やと思う人、増えてるで」
「必要があれば考え直します」
「そういう話やないねん」
また分からない。
「自分で考えんでも、店長に聞いたら答え出る。そう思い始めたら、楽やろ」
「各店の責任者には判断基準を渡しています」
「せやから、その基準ごとアンタやと思われるんや」
意味を考えたが、やはり整理できなかった。
「まあ、気ぃつけや」
「何にですか」
「そこから説明せなあかんの?」
「分かりませんので」
みほが吹き出し、タバコを灰皿へ押しつけた。
「ほんま、アンタはそれやな」
喫煙所を出ていく。
俺も少し遅れてロビーへ戻った。
照度は基準内で、帳簿も正常。人員配置にも問題はない。御殿も、レジーナも、ルミナも、ローザも、いまのところ大きな異常値は出ていなかった。
社長室で言われた言葉を思い出す。
持ちこたえた。
春先には何度か崩れかけたが、いまは四店舗とも回っている。
その間に、店以外に何が出来上がったのか。
俺はまだ、正確に測れていなかった。




