第50話 情念の行き先
1986年2月14日(金) 10:00
ウチは川本由美、二十八になったばっかりで、もうええ大人や、そう言われてもおかしない年齢のはずや。やのに、腹の奥ではまだ、ぐらぐら煮えてるもんがある。どう扱えばええのか分からんままここまで来てもうた、それは自分でもちゃんと分かってる。
「あかね御殿」を上がって、実家に戻って、遠回りみたいな時間を過ごして、それでも結局この街へ戻ってきたんは、自分で選び直したかったからやと思うてる。選び直した先におるのが公児クンやということも、もう疑いようがない。
せやけど、新しい店は前へ進んでるのに、ウチらの関係だけ妙なところで一時停止や。それが、どうにもこうにも落ち着かへん。
わかってる? 公児クン。
一
店の名前は「たまゆら」に決めた。
一瞬の光、一瞬のぬくもり、一瞬の気配。その「刹那」が積み重なることで人生はできていくんやと、公児クンは真顔で言うた。相変わらず理屈っぽいけど、その言葉の奥にある真剣さは分かるから、ウチは何も茶化さんかった。
「たまゆら」という響きは柔らかくて、なんや二人のこれからにぴったりな気もした。一瞬一瞬をちゃんと積み重ねていけたら、それでええんやとも思えた。
せやのに。
何でやねん、この朴念仁っ。
ウチら、あれから一回も、積み重なっとらへんやんか。
昨日かてそうや。
「由美さん、コーヒーの淹れ方、教えてください」
教えたったがな。一日かけて、豆の量から挽き方、湯の温度、蒸らし方まで。公児クンは帳簿を見るときみたいな顔でメモを取り、最後には自分で淹れた一杯を飲んで、えらい満足そうに頷いとった。
はぁ。
いつになったら、川本由美の扱いを教えられるんやろ。
二
カウンターは磨き上げられて、触れると指先がすべるくらい滑らかや。棚にはグラスがきっちり並び、厨房機器の搬入日も決まった。保健所の許可も下りて、オープンは三月三日に決めた。
段取りという段取りは、ほぼ完成してる。
公児クンは工程表を見ながら、ネジ一本の締め具合まで確認する。無駄を見逃さへんし、手順を重んじるし、未来を数字で語れる。
ほんまに頼りになる男や。ノロケやけどな。
「由美さん、ここは補強しておいた方が安全です」
「由美さん、営業許可証は額に入れて入口脇へ掲示します」
「由美さん、三月三日なら仕入れと人員の準備に余裕があります」
安全、許可、準備。全部、正しい。
でもな、公児クン。
店の未来はそこまで見えとるのに、ウチらの夜だけ、なんでそんな曖昧なままやねん。
同じ部屋で、同じ布団を並べて、同じ先の話までしてる。寒くないですか、と毛布まで掛けてくれる。
寒いわ。別の意味で。
女の情念はな、工程表には書かれへんのや。
惚れた男と一緒におるのに、その先へ進まへん時間が積み重なると、腹の奥には理屈やなくて「情」が溜まる。そんなもん、説明書なんかないし、公児クンの好きな数値化もでけへん。それでも、確実に溜まっていく。
いつになったら研修すんねんな。
その言葉が毎晩喉元まで上がってきて、意地で飲み込んでは、また腹の奥へ戻してきた。
せやけど、もう限界や。
三
昼前、中原さんとあやが婚姻届を持ってきた。
祝いに来たはずやのに、二人とも妙な顔してる。なんというか、長い闘病生活を終えた患者の家族を見るような、しみじみした顔や。
「あのな。なんやねん、その顔」
あやがウチの両手を取った。
「お姉さん……ほんま、よう頑張ったなあ」
「何がや」
「店長やで?」
「知っとるわ」
「田中店長やで?」
「二回言わんでええ」
横で中原さんまで深く頷いてる。
「川本さん。私はあの人と三年近く仕事をしてきました。仕事なら、大抵のことは一度言えば分かります」
「はい」
「人の気持ちは、十回言っても分かりません」
「……はい」
「それをここまで連れてこられた。本当に、お疲れさまでした」
「なんで結婚前に労をねぎらわれなあかんねん!」
あやが真顔で首を振る。
「いや、お姉さん。これはほんま、労災出てもええと思う」
「労災出るか!」
怒鳴ったところで、奥からコーヒーの匂いがしてきた。
「お待たせしました」
公児クンが、盆に三つのカップを載せて戻ってくる。
「今日はブルマンブレンドです。由美さんに教わった通り、蒸らしを三十秒取って、湯温も少し下げました」
なんや、その得意げな顔。
仕事で表彰されたときでも、そないな顔せえへんかったやろ。
中原さんが一口飲んで、「おいしいですね」と言う。公児クンの口元が、ほんの少し上がった。
あやも飲んで、目を丸くする。
「うわ、ほんまや。店長、ちゃんとコーヒー淹れられるようになってるやん」
「はい。昨日一日かけて教わりました」
「一日かけて?」
「はい」
あやが、ゆっくりウチを見た。
中原さんも、ゆっくりウチを見た。
やめて。その、すべてを察したような目でウチを見んといて。
あやがしみじみ言うた。
「お姉さん……ほんま、大変やな」
「せやから労災出るか!」
公児クンだけが、なんでみんな笑ってるんやろ、みたいな顔で立ってた。
ほんま、この男は。
婚姻届の証人欄は、もう二人の名前で埋まっていた。外堀は完全封鎖、あとは本人同士が腹を括るだけや。
ウチは妻の欄に自分の名前を書いた。指先は震えへんかったけど、心臓はうるさいくらい鳴っていた。
「次、公児クン」
彼も、迷いなく書いた。
「……アンタ、それでええのん?」
「何か問題でも?」
揺れへん。
こういうところだけは、ほんま腹立つくらい揺れへん。
市役所で受理された帰り道。冬の空気に包まれながら、ウチは隣を歩く公児クンに言うた。
「これで……研修、大丈夫やんな?」
「ええ、大丈夫です」
公児クン。
言うたな?
言うたで?
四
夜、お布団を敷いた部屋は妙に静かやった。外の音も遠くて、二人の呼吸だけがやけに大きく聞こえる。
ウチは胡座をかいて座り、公児クンはなぜかきっちり正座してる。その構図がもう、腹立つやら可笑しいやら分からへん。
「なあ、公児クン」
「何ですか、由美さん」
「アンタ、女の情念、分かっとる?」
公児クンは逃げへん。真面目な顔で、ただ聞いてる。
「ええか? 店の準備も、名前決めるのも、未来の話も、全部ええ」
「……はい」
「でもな、それだけやないんや。好きな男と一緒におって、その先へ進まへん時間が長なるほど、女には溜まるもんがある」
「……はい」
「理屈ちゃう。情や。情念や」
ウチは胡座のまま身を乗り出した。
「アンタ、一体ウチをなんやと思うとるんや」
「女です」
即答。
ウチの口元が、ゆっくり上がった。
「正解。……ほな、みっちり研修や」
公児クンが一瞬だけ視線を逸らして、小さく咳払いする。
「……初めてなので……お手柔らかに」
その真面目すぎる一言に、腹の底から笑いが湧き上がった。
「誰が手加減するかいな」




