第40話 結果だけ来る
1985年1月7日(月) 11:00
一
午前十一時。年頭の通達で、あかねロイヤル興業から引き継ぐ三店舗の新しい屋号が発表された。
駅前の大箱が、あかねレジーナ。六万円固定の小箱が、あかねルミナ。住宅地に近い店が、あかねローザ。
名前は記号だ。店の機能を決めるのは、看板ではない。
レジーナは三万円から六万円まで客を広く受け入れ、三月からグループの旗艦になる。ルミナは客数を追わず、六万円固定で単価と品質を守る。ローザは二万円から四万円で中級帯の固定客を積み上げる。御殿は六万円固定のまま、四店舗の基準点として残す。
三店舗とも、三月の同時開業へ向けて改装と収支の詰めに入っていた。俺は午前に業者と打ち合わせ、午後は損益を見直し、御殿へ戻れば中原から営業状況を受け取る。レジーナの長い廊下と死角、ルミナの狭い動線、ローザの浴室。直す場所は違っても、開業日だけは同じだった。
二週間後の一月二十一日、午後三時過ぎ。
中原が事務所へ入ってきた。いつもの歩き方だったが、机の前で止まったとき、声が少し低かった。
「店長、少しよろしいでしょうか」
「どうしました」
「片桐店長が、社長の稼業上の叔父貴の側についたそうです」
俺はペンを止めた。
「……どういうことです」
「プラチナムと、ほか三軒を連れて抜ける、と」
現在、グループの風呂屋は五軒ある。御殿、プラチナム、それに三軒。そのうちプラチナムを含む四軒が抜け、三月には改装中の三軒が加わる。
頭の中で数を置いた。
「……五引く四、足す三で、四軒ですか」
「そうなります」
数だけなら一軒減るだけだが、抜ける四軒の中にはプラチナムがある。現在の旗艦店で、系列一の売上と利益を持つ店だ。それに対して、三月から旗艦になるレジーナは、まだ一人の客も入れていない。
――お前には、結果だけ来る。
十二月、社長室前の廊下で片桐店長に言われた言葉を思い出した。あのときは意味を整理できなかったが、今なら少しだけ分かる。
俺が何かをしたわけではない。片桐店長と社長の間で何があったのかも知らない。ただ、四軒が抜けるという結果だけがこちらへ届いた。
「抗争は……」
中原が言いかけたので、顔を上げた。
「起きると思いますか」
「いえ。社長は怒鳴りますし、義理も立てますが、怒ったまま損を選ぶ人ではありません」
中原が小さく頷いた。
「もう、話はついているでしょうか」
「たぶん。静かなときほど、決定は済んでいます」
二
夕刻、社長から直電が入った。
「公児よ。聞いたか」
「はい」
「片桐は抜ける。プラチナムと三軒持ってな」
「承知しています」
「だが、盤面は崩さねえ。レジーナを三月から旗艦にする予定は変えねえ」
「はい」
「ただし、扱いを一段上げる。社長室もレジーナへ移す」
受話器を持ち直した。これまで社長室はプラチナムの最上階にあり、店長会議も取引先との話も、稼業筋との話もそこで行われてきた。単なる事務室ではない。
「……グループの中枢も、レジーナへ移すということですか」
「そういうことだ。御殿は動かすな。あそこは今まで通りでいい」
「承知しました」
御殿は基準点であり、レジーナは旗艦になる。役割は違う。
「御殿、レジーナ、ルミナ、ローザ。この四軒を確実に回せ」
「はい」
「抜けた穴を、そのままにするな」
「分かりました」
「抗争はねえ。向こうは向こうで稼ぐ。こっちはこっちで稼ぐ。店の扱いも含めて、話はついた」
やはり、計算は終わっていた。
「承知しました」
「以上だ」
電話が切れたあと、しばらく受話器を見た。
三店舗の開業予定そのものは変わらない。だが、その意味は変わった。新しい店を三軒増やすだけではなく、三月からは御殿を含む四軒で、風呂屋の配置そのものを組み直すことになる。
その中心に置かれるレジーナは、旗艦機能だけでなく、これまでプラチナムにあったグループ中枢まで引き受けることになった。
三
閉店後、御殿の帳簿を確認した。六万円固定、衛生関連費、稼働率、延長率、人員配置。どれも計画線を外れていない。
中原が湯飲みを机へ置いた。
「上は、静かですね」
「ええ。もっと揉めるものかと思っていました」
口にしてから、少し考えた。
「いえ。正確には、揉めるかどうかを考えていませんでした。俺の担当ではありませんでしたから」
中原が苦笑した。
これまで俺は、自分の範囲だけを見てきた。御殿なら、客、コンパニオン、黒服、帳簿、設備、取引先を見て、基準から歪んだところを戻せばよかった。
だが、片桐店長が抜けるという話は、そのどこにもなかった。帳簿にも稼働率にも出ないし、衛生点検をしても見つからない。
「店長は、片桐店長のことをどう思われます」
少し考えた。
「理解は、できます」
「そうですか」
「以前、順番があると言われました。プラチナムをここまで持ってきたのは誰か、系列で一番稼いでいるのはどこか。外から三軒増やすなら、最初に誰へ話を通すのか、と」
「ええ」
「片桐店長から見れば、自分が飛ばされたのでしょう」
「今なら、分かりますか」
「前よりは。ただ、なぜそれが仕事の結果とは別に人を動かすほど重要なのかは、まだよく分かりません」
中原は何も言わなかった。
「それでも、俺は片桐店長の代わりではありません。プラチナムが抜けたから、俺がプラチナムになるわけではない」
「そうですね」
「空いたところへ、必要な機能を入れるだけです」
それなら分かる。人の順番はまだ難しいが、構造の空白なら見える。
中原が湯飲みに口をつけた。
「その考え方なら、店長は迷わないでしょうね」
「迷っている暇もありません。三月まで二か月を切っています」
廊下の向こうから、みほの声がした。続いて、あやの笑い声が重なる。御殿は今日も、いつも通り回っている。
四
事務所を出て、ロビーを一周した。照度、受付位置、通路幅、匂いに異常はない。
御殿は基準点として動かさない。レジーナは旗艦とグループ中枢を担い、ルミナは純高級、ローザは中級帯を受け持つ。
三月以降の四店舗を頭の中で並べると、御殿だけはすでに形がある。レジーナも、ルミナも、ローザも、まだ営業は始まっていない。屋号と箱と役割が決まり、これから人と運用を入れていく段階だった。
誰かの席を奪って入るわけではない。誰かに勝って上へ行くわけでもない。何も始まっていない場所へ、必要なものを置いていく。
俺の配置は、そういう空白で決まっていた。
片桐店長が言っていた順番は、売上や実績の順位ではなかったらしい。誰に先に話をするか、誰を立てるか。そこまでは分かるが、なぜそれが人をここまで動かすのか、その先はまだ整理できない。
中原が帳簿を閉じた。
「店長」
「はい」
「静かな夜ですね。嵐の前、でしょうか」
少し考えた。
「……いえ。台風一過、でしょう」
中原が口ひげをさすった。
「なるほど」
抗争はない。怒号もなく、誰かが怪我をしたわけでもない。それでも、順番は変わった。
片桐店長が言っていた順番と、俺が置かれる順番。同じ言葉を使っていても、同じものではないらしい。
俺はロビーの照明を閉店時の基準照度へ切り替えた。灯りが一つずつ落ちていく。
表では何も起きていない。それでも、グループの形はもう変わっていた。




