第39話 広がる持ち場
1984年12月10日(月) 14:00
一
午後二時の社長室へ上がるまでの一週間、俺は御殿を空ける時間が増えていた。
あかねロイヤル興業が年末で廃業し、社長が引き取る三店舗を順番に見て回っていたからだ。
一軒目は駅に近く、三軒の中で最も客室数が多い。ただし、廊下が長く、受付から奥の客室まで目が届きにくいうえ、設備も古かった。
二軒目は箱が小さい。その代わり、客室も浴室も状態がよく、大きく手を入れる箇所は少ない。
三軒目は繁華街から少し離れている。派手さはないが住宅地から近く、客数の波も比較的小さかった。
黒服、コンパニオン、出入り業者にも話を聞き、帳簿と現場が食い違う箇所には印を付けた。売上、客単価、稼働率、人員構成、仕入先、固定費、届出、客室数、それに客の流れまで三冊のファイルへまとめた。
机の右端には、比較用に御殿の数字を置いた。
――六万円固定。
――百二十分基本。
――値段を動かさない純高級店。
ここは変えない。
最初は、三店舗も御殿に近づければよいと考えていた。だが数字を入れると、駅前の大箱は六万円だけでは埋まらず、三軒目へ高額客を集めても立地と客の動きが合わなかった。
一軒ずつ正しい形にしても、四軒を並べると無駄が出る。
(……別々に考えるからか)
御殿、一軒目、二軒目、三軒目。紙を並べ替え、客をどこで受け、どこへ流し、どこに定着させるかを見直した。
一軒の店ではなく、四軒をまとめて動かす。
そう考えると、ようやく数字が噛み合い始めた。
二
前夜、閉店後。俺は事務所に残り、起案書を最初から作り直した。
三店舗で共通させるものは、歩合五十五パーセント、本指名料は本人総取り、帳簿は日次締め、衛生管理は御殿と同水準、黒服教育は段階制。価格帯が違っても、運用の土台は揃える。その上で、店ごとの役割を変える。
一軒目。駅近の大箱は、客室数を使って広く客を取る。俺は当初、四万円から六万円で組んだ。
二軒目。状態のいい小箱は六万円固定。客数を追わず、単価と品質を守る。
三軒目。住宅地に近い店は二万円から四万円。値引きで客を呼ぶのではなく、最初から商品を分け、固定客を積み上げる。
改装費、人件費、広告費、開店後の稼働率、採算が合うまでの期間を入れ直す。最初の表も二枚目も駄目で、三枚目でようやく四店舗全体の収支が収まった。
三店舗を増やすのではない。四店舗をまとめて動かす。
一軒ならその店だけを見ればよいが、四軒なら一軒だけ良くても駄目だ。客が偏れば別の店が空き、人員の配置も崩れる。御殿の立て直しとは少し違う仕事になる。
起案書をまとめ終えたころには、窓の外が明るくなり始めていた。
三
午後二時。社長室には、片桐店長も呼ばれていた。
俺は二人へ一礼し、起案書を机へ置いた。社長が読み始める間、片桐店長はソファに腰掛け、腕を組んでいる。
「御殿は六万固定か」
「はい」
「動かさねえ理由は」
「基準になる店だからです。御殿まで価格を動かすと、四店舗の上下が曖昧になります」
社長が鼻を鳴らし、一軒目の頁を指で叩いた。
「四万から六万。高えな」
「客室数が多いですから、これ以上下げますと――」
「逆だ。デカい箱は、まず客を集めるんだよ。選んでから入れるんじゃねえ。入れてから選ぶ」
三万円なら入口が広がり、その中から単価の合う客を二軒目や御殿へ回せる。
「三万円から、でしょうか」
「そこだな」
「修正します」
社長は次の頁へ進んだ。
「二軒目は六万固定。三軒目は二万から四万。これはいい」
しばらく紙をめくる音だけが続いた。
「……四軒を一個として見るか」
「その方が無駄が少ないと考えました」
「ふん。これでやれ」
「承知しました」
「名前はワシが決める」
「はい」
社長は葉巻へ火を点け、煙を吐いてから一軒目の資料をもう一度見た。
「それと、ここ。三月から新しい旗艦にする」
俺は顔を上げた。
「一軒目を、ですか」
「そうだ」
「単価だけなら、御殿か二軒目の方が上になります」
「だから、お前はまだ店長なんだ。一番高え店が旗艦じゃねえ」
社長の指が資料を叩く。
「あそこに一番客を吸わせる。カネも人も、あそこから動かす。真ん中に置くのはそういう店だ」
「……なるほど」
「旗艦は、プラチナムです」
片桐店長が低い声で言った。
社長は目だけを向ける。
「今はな。三月から替える」
「理由を、伺ってもよろしいですか」
「今言ったろ」
「プラチナムは、系列で一番売上を作っています。利益もです」
「知っとる」
「でしたら――」
「片桐」
社長が遮った。
「お前んところは、今まで通り稼げ。看板が替わるだけだ」
片桐店長の頬が、わずかに動いた。
銀縁眼鏡の奥から一軒目の資料を見て、それから俺へ視線を移す。先週、廊下で向けられたのと同じ目だった。ただ、今日はもっと冷たかった。
「……承知しました」
眼鏡の位置を直し、鼻を鳴らした。
「公児。随分、大きな仕事になったな」
「三軒増えますので」
「そういう意味じゃない」
また、意味が分からなかった。
片桐店長は口元だけで笑う。
「まあいい。やれよ」
社長が灰を落とした。
「公児、三月までに形にしろ」
「承知しました」
俺は起案書を受け取った。社長室を出る直前に振り返ると、片桐店長はまだソファに座ったまま、社長とは目を合わせていなかった。
四
「どうでした」
御殿へ戻ると、中原が訊いた。
「ご承認いただきました。ただし、一軒目は三万円から六万円へ修正します。俺は四万円からで組みましたが、社長から入口を広げろと」
「ほう。さすが、というところですか」
「ええ。俺にはなかった考えでした」
鞄を机へ置く。
「それから、一軒目が三月から新しい旗艦店になります」
中原の手が止まった。
「……旗艦店?」
「はい」
「プラチナムではなく?」
「三月からは」
中原はしばらく黙り、口ひげをさすった。
「片桐店長は、何と?」
「承知しました、と。それだけです」
「そうですか」
翌日の朝礼で、黒服とコンパニオンへ三店舗の開業準備について伝えた。
「三月までは、俺が御殿を空ける時間が増えます。その間の判断は、中原さんへお願いします」
「承知しました」
「あーあ。店長、出世してもうた」
あやが言った。
「出世ではありません。担当店舗が増えただけです」
何人かが笑う。
「御殿、忘れんといてくださいよ」
「忘れる理由がありません」
また笑われた。みほは何も言わず、こちらを見てから視線を落とした。
朝礼が終わると、俺はいつものようにロビーを一周した。照度、受付、備品、通路。帳簿にも人員配置にも問題はない。
(御殿は、整った)
ここなら中原に任せられる。一年前なら、俺が一日席を外せば何が起きるか分からなかったが、今は誰かが見て、誰かが直す。俺がいなくても店は回る。それは、良いことのはずだった。
事務所へ戻り、新店舗の損益予測を開く。
一軒なら一軒を整えればいい。四軒なら、四軒をまとめて動かす。箱が大きくなれば、見る範囲も広げなければならない。それが俺の仕事だ。
廊下の奥から、コンパニオンたちの笑い声が聞こえる。俺は数字へ目を戻した。
御殿を出る時間が増える。仕事なのだから、それだけのことだ。
なのに、なぜかその一点だけが妙に引っかかった。




