第38話 帳簿にない勘定
1984年12月3日(月) 14:00
一
午後二時。プラチナム最上階、社長室前のロビーには、十一月度の営業報告を待つ系列各店の店長が並んでいた。
例年なら、この時期の空気は重い。夏場からの戻りが鈍い、経費が膨らんだ、客単価が落ちた。数字に穴があれば、社長の怒声が廊下まで響き、ときにはパターで転がしたはずのゴルフボールが腰壁へぶつかる音まで聞こえる。
今日は、それがなかった。
扉の向こうから聞こえるのは、低い話し声と紙をめくる音だけだった。順番を終えた店長たちは、妙な顔で出てくる。
「今日は……機嫌、いいみたいでした」
ひとりが小声で言った。安心しているようにも、かえって気味悪がっているようにも見える。
俺はベンチに腰掛けたまま、腕時計を見た。怒鳴られないから良いとは限らない。叱責するのは、まだ直させるつもりがあるからだ。直させる気がなくなれば、別の人間に替えればいい。
プラチナムの片桐店長が社長室から出てきた。俺が黒服だったころの上司で、いまも旗艦店を預かる。
普段なら、俺を見つければ何かしら声を掛ける。今日は一度こちらを見ただけで、そのまま窓際へ歩いていった。
怒号がない。ゴルフボールの音もない。片桐店長も何も言わない。
いつもより静かなだけなのに、どこか落ち着かなかった。
「次、公児」
社長室から声がする。
「はい」
俺は立ち上がり、ドアノブに手を掛けた。
二
社長室は、いつもと変わらなかった。机の上には書類と灰皿、窓際にはパター。腰壁にはゴルフボールの跡が残っている。
俺は十一月の数字を報告した。客数、客単価、延長率、稼働率、衛生関連費、営繕休業による影響。休業日を除けば、おおむね計画線上だった。
「以上です」
社長は資料を見たまま、一度だけ頷いた。
「ふん。……忘年会は、盛り上がったな」
「ええ。ご臨席、ありがとうございました」
「公児よ」
「はい」
「ありゃあ極上のオンナだ。お前は存外、目が高い」
何の話だ。
「どなたのことでしょうか」
社長が顔を上げた。
「クソ朴念仁が。あの晩、お前が火ィつけたオンナだよ。このトンチキ野郎」
忘年会で、誰かについて特別なことを言った覚えはない。
「心当たりがありません」
「ふん。鈍い男は、女を待たせるぞ」
意味が分からないまま黙っていると、社長は葉巻を灰皿へ置き、資料を一枚めくった。
「まあいい。本題だ。あかねロイヤル興業を拾うことにした」
十一月に警察の一斉捜索を受けたグループだ。社長の稼業筋とも近い。
「年末で畳む。官辺の手続きが済んだら、風呂屋三軒、ワシが面倒を見る」
「……ご商売繁盛で」
「お前が運営しろ」
俺は社長を見る。
「俺が、ですか」
「そうだ。御殿を見ながら、三軒とも兼任で立て直せ。人を置ける状態になったら、お前は上から見る」
「御殿があります」
「知っとる」
「御殿だけでも、日々の確認事項はあります。三軒増えれば、立地も人員も仕入先も別です。現状確認だけでも相応の日数が――」
「無理もへったくれもない。できる奴にやらせる。それだけだ」
決定事項らしい。
必要なことを頭の中で並べる。三店舗の売上、人員構成、営業時間、仕入先、設備、衛生管理、帳簿、届出関係。客層も立地も違うだろうが、最初にすることは変わらない。現状を見て、あるべき状態との差を確かめ、歪んでいる箇所を戻す。
「承知しました」
「ふん」
社長は葉巻を取り上げた。
「それとな、公児」
「はい」
「仕事だけ見てりゃ、人間まで片づくと思うなよ」
また意味の分からない話だった。俺は返事をせず、一礼して社長室を出た。
三
廊下の窓際に、片桐店長がいた。指には、火のついていないタバコが挟まれている。
俺を見ると、片桐店長は目を細めた。
「おめでとう、と言うべきか」
「……何のことでしょう」
「ロイヤルの三軒だよ」
社長が言いふらすとは思えない。片桐店長なら、机に積まれた資料だけでも察したのかもしれない。
「断ったのか」
「一度は」
「一度は、か」
「最終的には受けました」
「そうだろうな」
片桐店長は鼻を鳴らした。何かを確かめたような顔だった。
「別に、三軒を俺によこせって話じゃない」
「はい」
「外から三軒抱える。人も金も動く。なら、その前に話を通す相手がいる。そういう順番の話だ」
「片桐店長に、ですか」
「俺に筋を通せって話じゃない」
短く言って、片桐店長は火のついていないタバコをしばらく眺めた。
「プラチナムをここまで持ってきたのは誰だ。系列で一番稼いでるのはどこだ。そこまで見てきた人間に何の相談もなく、次は三軒拾うから公児にやらせる。あの人は、そういう決め方をする」
俺は黙った。
「お前が悪いわけじゃない。むしろ、お前なら三軒とも何とかするだろうさ」
「でしたら――」
「そこまでだ、公児」
片桐店長は俺の言葉を止め、タバコを灰皿へ置いた。
「あの人なら、できる奴にやらせる、それだけだと言うだろうな」
「……はい」
「便利な言葉だよな」
片桐店長は笑わなかった。
「まあ、やれよ。お前ならやるだろうさ」
そう言って廊下を歩いていった。
順番。相談。実績。
俺には、どう扱えばよいのか分からない。社長が決め、俺が受けた。それ以外に何を問題としているのか、整理できなかった。
片桐店長が俺に腹を立てているわけではない。それだけは分かった。
四
御殿へ戻ると、ロビーの匂いも照明も受付の位置も、いつも通りだった。俺は一周してから事務所へ入り、椅子へ腰を下ろすと、息が漏れた。
「どうされました、店長」
中原が湯飲みを持ったままこちらを見る。
「……社長にも、困ったものです」
「怒鳴られましたか」
「いえ。あかねロイヤル興業の三店舗を、追加で任せると言われました」
中原の手が止まった。
「三店舗、ですか」
「はい。まず兼任で立て直して、いずれ人を置ける状態にしろと」
「それは……大きいですね」
「大きいというより、面倒です。一日は二十四時間しかありません」
中原はしばらく俺を見ていたが、否定も賛成もしなかった。
「それに、今日は社長から妙なことを言われました」
「妙なこと?」
「俺は鈍いそうです」
「……ほう」
「忘年会のことらしいんですが、誰のことを言っているのか分かりません」
中原は湯飲みを机へ置いた。
「店長は、具体的に言われないと分からないでしょうね」
「はい。ですから具体的に知りたいんです」
「そこまで含めて、難しいんですよ」
説明になっていない。
片桐店長にも、似たような顔をされた。社長は女の話をし、片桐店長は順番の話をする。中原は具体的に言えないと言う。
今日は三人とも、こちらには見えていないものを見ているらしい。
「……中原さん」
「はい」
「俺は、何か見落としていますか」
中原は少し考えたあと、静かに頷いた。
「ええ。ただ、帳簿みたいに答えが一つではありません」
それが一番困る。
帳簿なら数字を追える。設備なら点検できる。人員なら配置を見直せる。三店舗増えても、対象さえ分かれば順番に処理できる。
俺はロビーの方を見る。照明は正常で、受付にも異常はない。帳簿も、いまのところ問題はない。
見落としがあると言われても、何を確認すればいいのか、それすら分からない。
担当範囲外のことなら、勘弁してほしい。




