第36話 見えない埃
1984年11月1日(木) 10:00
私は、中原和夫と申します。終戦直後に生まれた、三十九歳です。
「あかね御殿」で黒服をしています。中学を出て町工場に勤め、そこが潰れて夜の世界に入りました。気がつけば、二十一年ほどになります。
店長は二十四歳。このお方が来てから、店はずいぶん静かになりました。どならない。あせらない。何かあれば順番を決め、ひとつずつ進める人です。ただ、説明がいささかくどいのが、玉にキズと申しましょうか。
一
十一月二日から三日間、御殿は接客部屋の営繕工事で休業します。その前日は、大掃除と決まっていました。
営業中には見えないホコリも、脚立を立てれば目に入ります。棚を動かせば髪の毛が出て、ベッドをずらせば硬貨やボタンが転がってくる。
午前十時。バケツと雑巾が並び、店長がホワイトボードの前に立ちました。黒いペンで、上から順に五つ書いていきます。
第一段階。現状把握。
第二段階。あるべき状態の想定。
第三段階。差異の確認。
第四段階。手順決定。
第五段階。実行、再確認。
「本日は清掃です。まず第一段階、通常営業時には確認しにくい箇所を優先して――」
また始まった、と思いました。このお方は、何にでも段階をつけます。
小野寺さんと西本君は、店長が照明器具上部や棚裏について説明している間に脚立を担ぎ、廊下へ消えました。
「第二段階として、『あるべき清潔状態』を――」
気がつけば、黒服は私しか残っていません。あやさんは客室へ、みほさんは棚を拭きに、ほかのコンパニオンたちもそれぞれ持ち場へ散っていました。
口より先に手が動く。最近は、それがうちのやり方です。
みほさんが雑巾を絞りながら言いました。
「店長、しゃべってる間に終わるで」
店長は少しだけ黙り、ホワイトボードと誰もいないロビーを見比べます。
「……実行が先になりましたね」
廊下から、あやさんが顔を出しました。
「ほな、掃除したらええんやろ?」
「はい」
「最初から、そう言うたらええやん」
笑いが起きました。店長は怒らず、雑巾を一枚取ります。
「では、俺は通気口を見ます」
私は照明カバーを外しながら、このお方は腹を立てないところが強いのだと思いました。
二
昼前、二階の客室でベッドを動かしたときでした。
「あ……なんか出てきた」
あやさんが、壁との隙間へ手を伸ばしました。指先につままれていたのは、小さな紙です。四つ折りで、角が黒ずんでいました。
開くと、鉛筆で短い文が並んでいます。
――五九.x.xx.
――バンザイは終わった つぎはテンシ
――例の白い箱 あかねスーパー○○店
――三日後 三時 あいつに連絡 二十一
その場が静かになりました。
この部屋を使っているコンパニオンが、紙を見たまま言います。
「……春先、たまに来てた人かも。関西弁のお兄さん」
「どんな人でした?」
「普通。三十くらい。たぶん」
私は紙を受け取りました。
白い箱。スーパー。二十一。
そこまで読んで、やめました。夜のニュースで見た映像が、頭の隅に浮かびます。
もちろん、本物だという証拠はありません。悪戯かもしれない。客同士の内輪話かもしれません。似た言葉を並べて面白がっただけかもしれない。
廊下の向こうから、店長の声がしました。
「通路、空けてください。脚立を動かします」
あやさんが私を見ます。さっきまでの調子はなく、声も低い。
「中原さん。店長に言う?」
私は答えず、もう一度紙を見ました。
店長に渡せば、拾得物として保管するでしょう。誰が、いつ、どこで見つけたかを記録し、必要なら社長へ上げる。もっと外へ話が出るかもしれません。
それが筋なのでしょう。
ですが、ここは御殿です。何も分からない紙切れ一枚で、わざわざ面倒を増やすこともない。
みほさんが紙を見ました。
「忘れ物やろ」
声は軽くありませんでした。
私は灰皿を引き寄せます。
「……そういうことにしましょう」
あやさんは何も言いませんでした。
マッチを擦ると、火が紙の端を舐めます。鉛筆の文字は縮み、黒く丸まり、十数秒で読めなくなりました。最後に灰が小さく崩れます。
乱暴な処理です。店長なら、こんなことはしないでしょう。
それでも私は昔から、正しい方より、波風が立たずに済む方へ手を伸ばしてしまうところがあります。
灰皿を片づけ、ベッドを元の位置へ戻しました。
三
午後。掃除も終わりに近づいたころ、あやさんのロッカーが、また崩れました。
扉を開けた途端、リップ、イヤリング、レシート、ハンカチが足元へ落ちます。
「なんでウチのだけやねん……」
半分泣き顔です。
私はしゃがみました。
「戻す場所、決めたでしょう」
「……決めたけど、守れへん」
「戻すだけで、いいんですよ」
「それができへんねん」
「では、一緒に戻しましょう」
あやさんは鼻をすすりながら笑いました。
「……見てんと手伝ってや」
「ええ」
化粧品は右、アクセサリーは小箱、紙類は上の棚。ひとつずつ戻します。
若い子は散らかしますが、直せばいいのです。あやさんの棚は、ここを自分の場所として遠慮なく使っている人の棚でした。
ふと見ると、店長がみほさんのロッカーを見ています。
中はきれいです。必要なものだけで、余計な物はありません。化粧品も着替えも少なく、バッグはすぐ持てる位置にあります。
いつでも片づけられる棚です。
長く一緒に働いていると、物の置き方にも、その人が出ます。
店長は何か言いかけて、やめました。このお方は、きれいに整ったものを見ると、たいていひと言ほめます。今日は、その言葉がありませんでした。
みほさんが視線に気づきます。
「荷物、少ないほうが楽やろ」
「……合理的です」
結局、いつもの言葉でした。けれど、一拍遅かった。
私には、それだけで十分でした。
店長の胸に、少し風が通ったのだと思います。
あやさんは、ようやくロッカーを閉めました。
「できた」
「押し込んだだけでは?」
「閉まったら勝ちや」
みほさんが笑います。
「またすぐ崩れるで」
「そんときは中原さん呼ぶ」
「私ですか」
「戻すだけでええんですよ、言うて」
私も苦笑しました。
みほさんは自分のロッカーの扉を、静かに押して閉めます。
店長がホワイトボードを消し始めました。
第一段階。
第二段階。
第三段階。
第四段階。
第五段階。
白い布で、上から順に消えていきます。最後に店長は、何もなくなった板を一度だけ見ました。
「……第一段階に戻ります」
誰も聞いていません。
西本君は脚立を畳み、小野寺さんはバケツを片づけています。コンパニオンたちは、それぞれ自分の荷物をまとめていました。
店は整いました。明日から業者が入り、また汚れます。工事が終われば、私たちが拭くのでしょう。
外では、何かが騒がれている。昼に燃やした紙が何だったのかも、もう分かりません。
店長は何も知りません。知らないままでよかったのかどうかは、私には判断がつきません。あの人なら、違う答えを出したでしょう。
それでも私は、脚立を片づけました。
埃はまた溜まります。
それでも、拭けばいいのです。




