第35話 雑音の向こう
1984年10月1日(月) 14:00
唐突だが、俺が考える仕事の進め方は、だいたい五つの段階に分かれる。
第一段階。担当範囲を観察し、現状を把握する。
第二段階。担当範囲の「あるべき姿」を想定、または確認する。
第三段階。現状と「あるべき姿」との開きや歪みを見極める。
第四段階。その開きや歪みを矯正する手順を決める。
第五段階。手順に沿って実行し、必要があれば第一段階、あるいは第二段階へ戻る。
業種や地位が違っても、根本はそう変わらないと思っている。極端に言えば、ヒゲを剃るときにも使える。まず鏡を見るか、手で触って伸び具合を確かめる。それが第一段階だ。
少なくとも、俺はそうやって仕事をしてきた。
一
午後二時。プラチナム最上階の社長室前。
四半期ごとの営業実績報告も、俺にとってはこれで六回目になる。「あるべき姿」に向けて決めた手順を実行し、その結果を数字で報告する。それだけの場だった。
半年前からは月次の営業報告も定例化され、グループ各店の数字を並べて見る機会が増えた。だが、俺には店舗間の実績を単純に突き合わせることに、さほど意味があるとは思えない。
同業でも、店ごとに立地も客層も違う。当然、課題も違う。
「赤色と水素、どちらが優れているか」
真顔でそんな議論をするようなものだ。
最初の頃、ほかの店長たちは俺を若造扱いしてはばからなかった。そこに、特に何の感情もない。「田中公児」と同じで、「若造」も俺を識別するための札の一つだと思っていたからだ。
ところが月次報告が続くにつれ、担当範囲外から入り込むものを、以前より煩わしく感じるようになった。
とりわけ、社長室から出てきた店長たちの捨て台詞が煩わしい。
雑音だ。
この日も順番を待ちながら、プラチナムの片桐店長と廊下のベンチに並んで腰掛けていた。
「プラチナムさんは、着実に収益環境を整えておられますね」
俺は先ほど目を通した営業報告から、事実をそのまま述べた。他店の営業情報など、俺にとっては豆知識に近い。社長の指示があるから確認しているだけだ。
片桐店長は片眉を上げ、鼻を鳴らした。
「……はっ。着実に『収奪される』環境も整ってるぞ」
意味を測ろうとしたが、すぐにやめた。
御殿の数字には関係がない。
二
「そういや公児。お前、最近……こんなことなかったか?」
片桐店長が、唐突に話を変えた。
「……こんなこと、とおっしゃいますと」
「八月下旬、リネンの回転が噛み合わなかっただろ」
確かにあった。
八月下旬にはリネンの回転が噛み合わず、九月上旬には求人原稿の凡ミス、その中旬にはアメニティの仕切値を上げたいという打診も来た。いずれも業者への確認、条件の再提示、発注量の調整で処理している。
損害は出していない。
「……なぜ、ご存じで?」
「人間、追い込まれるとクズが増えるんだよ」
片桐店長は、社長室のドアを顎でしゃくった。
「あの中で怒鳴られてる誰かだ。もう怒られたくない。数字を作らなきゃならない。焦ったヤツが、取引先や外注先に圧を掛ける」
「……」
「向こうも全部は被れねえ。だから、しわ寄せを別の店へ回す。納期をずらす、条件をいじる、間違いを後回しにする。そんなのが御殿にも飛ぶ」
俺は八月以降の伝票と電話のやり取りを、頭の中で並べ直した。
どれも、処理済みの案件だと思っていた。
「お前んとこへ飛ぶデカいしわ寄せ、俺は先月、三つ止めたぞ」
「……三つ」
「ああ。貸しだ。そう思っとけ」
それだけ言うと、片桐店長は立ち上がった。ちょうど中から呼ぶ声がして、銀縁眼鏡を押し上げながら社長室へ入っていく。
貸し。
俺は、貸し借りで仕事をするつもりはない。必要な条件で発注し、受けた仕事は決められた通りに返す。それで済むと思っていた。
だが現実には、俺の知らないところで誰かが何かを止め、その分だけ別の誰かに勘定が残るらしい。
御殿だけ見ていれば足りる話でもないらしい。
三
十月上旬、あかね楽天地の門外で、警察と保健所による合同取締りが行われた。
対象は、このところ増えている人待ちと、門外で営業する無届けの業者だった。客を拾ってどこかへ連れていく者もいれば、店舗らしい形も持たず、その場限りで商売する者もいる。楽天地の中へ直接手が入ったわけではないが、夕方から門の周辺には制服姿が目立った。
午後八時。入口近くで様子を見ていると、あかね中央警察署保安課の刑事が声を掛けてきた。一月の立入検査以来、何度か顔を合わせている例のオッサンである。
「お前さんたちみたいな『正業』が、行き場のないオンナを抱えてくれたらな」
「……」
「街が荒れりゃ、こっちも面倒なんだ。アンタらみたいな店で収まってくれりゃ、楽なんだがな」
警察が口にする「正業」という言葉には、ずいぶん幅があるらしい。
「俺の判断範囲ではありません。それに、予測できない事態は増やしたくないですね」
オッサンは一瞬こちらを見てから、腹を抱えて笑った。
「ホント、お前さん、この街に向いてない」
俺の目的は、御殿を正常値に保つことだ。
人数を増やす必要があるなら採用し、そうでなければしない。警察の都合や街の体裁まで、俺が背負える話ではない。
それでも、店の外にある事情は、こちらの都合などお構いなしに流れ込んでくる。
また一つ、考える項目が増えた。
四
「最近、客層が良い方に変わりましたよね」
「需要を観測できるようになった結果です。みなさんのおかげですよ」
数日後、閉店が近づいた頃、あるコンパニオンとのやり取りを聞いていたみほが、横で苦笑した。
「需要て。まるでスーパーみたいや」
スーパー。
棚を整え、欠品を埋め、売れ方を見て品物の置き方を変える。機能で回すという意味では、そう遠くないのかもしれない。
だが、機能が安定すれば、人は安心する。
「まぁ、楽やけどな」
みほはそう言って、静かなロビーを見渡した。
「最近、ほんま落ち着いてますね」
「静かなときほど、雑音が目立ちます」
「なんや、怖いこと言わはりますね」
「事実です」
みほは小さく笑い、足元の手提げ袋へ手を伸ばした。
「店長さん。よかったら、コーヒー飲みますか」
「コーヒー?」
「うん。持ってきてん」
袋から出てきたのは、小ぶりの魔法瓶と紙コップだった。蓋を開けると、自販機のものとは少し違う香りが立つ。
「ご自分で淹れたんですか」
「豆も自分で挽いた。昔、バーやってた頃にな、よう淹れててん」
「バーを?」
「まあ、昔の話や。専門店でもないし、大したもんやない」
紙コップへ注ぎ、俺に差し出す。
「ありがとうございます」
一口飲んだ。
苦味はあるが角がなく、飲み込んだあとにも香りが残った。
「美味しいです」
「ホンマ?」
「ええ。自販機のものとは、ずいぶん違いますね」
「そら比べる相手が悪いわ」
みほは笑い、自分の分も注いだ。
しばらく二人で立ったまま飲んだ。何を話したわけでもない。ロビーでは中原たちが閉店前の確認を続けており、電話も鳴らなかった。
さっきまで頭の中に並んでいた売上や取引先や警察の話が、その間だけ途切れていた。
「気に入ったんやったら、また淹れてきてあげるわ」
「ありがとうございます」
「そんな律儀に礼言わんでもええのに」
「頂いたものですから」
「……店長さんらしいわ」
みほは紙コップを手にしたまま、「ほな」と待機室へ戻っていった。
俺も残ったコーヒーを口にする。
閉店前のコーヒーも、悪くない。




