第34話 分かる範囲で
1984年9月1日(土) 17:40
一
夕方、一人の男が御殿に入ってきた。
店付きの常連客で、自動車メーカーの技術職だと聞いている。半年ほど北米全土を回ると言って年明けに発った男だったが、予定を超えて、ようやく戻ってきたらしい。皺の寄ったスーツに、乾き切った革靴。いかにも長旅帰りという格好だった。
西本がスーツケースを預かる。
「ニューヨークからご帰還。超カッコいいっすね」
「ニューヨークは起点と終点だけだ。自動車工場なんて、だいたい田舎にある」
「マジっすか。……そりゃ、銀座に自動車工場ないっすもんね」
「そういうことだ」
いつもの調子だった。
ただ、西本が店の決まりとして着帽を促すと、男は妙に強く頷いた。
「……それ、続けた方がいいぞ」
「へっ?」
「向こうで、エイズとかいう病気が騒ぎになってる。若いのが急に痩せて、肺炎を繰り返したりするらしい。免疫が駄目になるとか、そんな話だ」
事務所の奥で帳簿を見ていた俺も、顔を上げた。
「男同士に多いって話は聞いた。ただ、輸血でも出たとか、女にもいるとか、話がいろいろでな。原因らしいウイルスが見つかったって記事も見たが、何がどこまで本当か、俺には分からん」
「エイズ……」
「AIDSって書く。向こうじゃ、結構みんな気にしてるぞ」
男はそれ以上話を広げず、迎えに出たコンパニオンへ軽く手を上げ、そのまま部屋へ向かった。
俺は帳簿を閉じた。エイズという名前くらいなら新聞で見た覚えがあるが、いまの話には「らしい」と「聞いた」が多い。噂だけで店の運用を変える理由にはならない。
とはいえ、知らない病気だから無視していい、という話でもなかった。
二
翌九月二日、午後二時。
西本がいつものように着帽の説明を終えると、馴染みの客が感心したように頷いた。
「おお、西本クン。説明に実感がこもっとるね」
「そりゃもう、毎日っすから。先生にも脅かされたし」
「事実の告知は、脅迫とは言わんわな」
泌尿器科の医師だった。ゴールデンウィーク明けに来店し、西本を「着帽第一主義」へ宗旨替えさせた張本人でもある。
接客を終えてロビーへ戻ってきたところを、西本が呼び止めた。
「先生。俺、聞いたんっすけど。アメリカで流行ってる、エイズって病気」
先生の表情が少しだけ変わった。
「誰から聞いた」
「北米回ってた、自動車メーカーの技術屋さんっす。昨日来たんすよ」
西本は、若い人間が痩せること、肺炎を繰り返すこと、男同士に多いと聞いたこと、輸血でも出たらしいことを伝えた。
先生は途中で口を挟まず、最後まで聞いた。それから俺と中原を呼び、事務所の椅子へ腰を下ろした。
「エイズ。後天性免疫不全症候群というやつだ。原因らしいウイルスも見つかっとる。まだ分からんことは多いがな」
「感染経路は?」
「血液と性行為が関わっとると見られとる。男性同士の接触例が多いのは事実だが、輸血でも出とるし、それだけの病気ではない」
西本が、少し安心したように息を吐いた。
「じゃあ、ウチの店は――」
「安心するな」
先生が遮った。
「誰か一つの集団を指さして、そこだけの病気だと思うのが一番まずい。分からんことがあるなら、分かっている範囲で構えるしかない」
「今やっている性病検査で、エイズも分かりますか」
「分からん。少なくとも、いま店で受けさせとる検査とは別の話だ。だからといって、今までの予防を緩める理由にもならん」
先生は俺を見る。
「着帽も検査も続けろ。流言飛語は慎め。分かっている予防を崩さんことだ」
「分かりました」
特別なことを始める必要はない。いま引いている線を、そのまま守ればいい。
三
翌九月三日、午後二時。
俺はプラチナム最上階の社長室前で、月次の営業報告の順番を待っていた。同業五店のうち、俺は最後だった。
扉の向こうから怒声が漏れる。
「夏枯れだ? 毎年だろうがっ! お前、『学ぶ』ってこと知らねえかっ!」
「キャンペーンは打ちましたが……」
「言い訳はいらん。次!」
続いて、ゴンッ、と鈍い音が響いた。たぶん、またパターでライナーを飛ばしたのだろう。
しばらくして扉が開き、一人目の店長が出てきた。俺の顔を見るなり、眉をしかめる。
「御殿さんはいいですなぁ。着帽を決めて、歩合まで上げて」
「歩合は〇・五パーセントです」
「ウチじゃ、それを『帽子代』って呼んでるんですよ。女の子から、御殿はゴム代まで持ってくれるのにってね」
俺が何か返す前に、中から次を呼ぶ声が飛んだ。店長は肩をすくめ、そのまま廊下の奥へ歩いていった。
入れ替わりに二人目が社長室へ入り、十分ほどして出てくる。こちらも俺の前で足を止めた。
「こっちは検査代まで言われてる。御殿は半分持つんだろうって。あんたが先にやると、こっちは何もしない店みたいに見えるんだよ」
「その件は、社長にも叱られました」
「叱られて済むのはアンタだけだよ」
吐き捨てるほどではないが、冗談でもなかった。
三人目も似たようなものだった。ただ、こちらは苦笑しながら俺の持つ資料へ目をやった。
「ウチは客単価が違う。〇・五上げりゃ、そのまま利益に響く。それでも同じグループだ。比較だけはされるんだよな」
返す言葉はなかった。
御殿で必要だと思って決めたことでも、他店には他店の客層と数字がある。同じやり方を持ち込めば済む話ではないし、こちらにそのつもりがなくても、比較は勝手に始まる。それはもう、社長からも教えられている。
三人目が去ってしばらくすると、プラチナムの片桐店長が俺の横に立った。
「公児。お前、眉一つ動かさねえな」
「俺は、報告に来ただけですから」
「社長の機嫌は気にならないのか」
「機嫌で数字は変わりません」
片桐店長が鼻を鳴らした。
「相変わらずだな。最後は骨も残らんぞ」
「そうならないよう、報告します」
「可愛げがないねえ」
片桐店長は社長室へ入り、三十分ほどして、入る前とほとんど変わらない顔で出てきた。
「今日は、機嫌が読める日だったよ」
「そうですか」
さすがだと思う。
片桐店長は昔から、何を先に出し、何を後へ回すか、どこまで言えば社長が納得するかを読むのがうまい。数字だけを並べるのではなく、相手がどう受け取るかまで含めて順番を組む。
俺には、まだできない。
もっとも、社長の機嫌を読みに来たわけではないのだが。
「次だ、公児!」
中から声が飛び、俺は資料を抱え直して扉を開けた。
四
社長室は静かだった。
先ほどまでの怒声を証拠立てるものといえば、窓下の腰壁に増えたゴルフボールの直撃痕くらいである。ベニヤ板でも張っておけば良いものを、と思いながら机の前に立った。
「始めろ」
「はい」
客単価、延長率、稼働、衛生コスト、夏季の客層変化を順に報告した。
春以降ほとんど消えていた学生客は、夏休みに入ってからわずかに戻った。常連客は維持され、着帽を理由とした離脱も、現在は許容範囲に収まっている。八月の上納利益も前年同月を上回った。
新しい施策を打ったわけではない。春から崩れた箇所を戻し、客の動きを見ながら、その数字を確認してきただけだった。
社長は最後まで聞き、一度だけ頷いた。
「ふん」
「以上です」
資料を閉じて一礼し、退室しようとしたところで声が飛ぶ。
「……お前、何者だ」
足を止めて振り返った。
「店長です」
一年半近く前、ここでまったく同じことを聞かれた。あのときも、俺は同じように答えた。
社長は俺を見たまま、しばらく黙っていた。やがて、口角をわずかに上げる。
「ワシは今日、初めてウチの店長に会ったな」
意味がよく分からない。
今日は俺の前に、四人の店長が報告を終えている。だが、社長が説明する様子はなかったし、俺も尋ねなかった。
「そうですか」
「……はっ」
社長が鼻で笑う。
「下がれ」
「失礼します」
頭を下げて社長室を出ると、廊下は静かだった。
外では、まだ分からない病気の話が広がり始めている。分からないことまで決めつけず、分かっていることを崩さない。
俺は資料を抱え直し、そのまま廊下を歩いた。




