第33話 記号と変わらぬ線
1984年8月6日(月) 09:00
一
業界で、国名業態名を問題視する声が出始めている。まだ行政から正式な通達が出たわけではなく、同業でも実際に動いている店はほとんどない。それでも、いずれ変更を求められる可能性があるなら、騒ぎになってから慌てる理由もなかった。
客足が明日から減るような話ではない。だからこそ、先に段取りだけ済ませておけばいい。
午前九時。
プラチナム最上階の社長室で、グループ内同業五店の店長会議が開かれた。
社長は開口一番、いかにも面倒くさそうに舌打ちした。
「世間がうるさいだけだ。……お前らもな」
そう言うと、耳だけは貸してやる、とでもいうように競馬新聞を広げ、前日の結果を見直し始めた。
態度はさておき、俺も社長の考えには近かった。業態名は変えればいい。問題視されている部分だけ直せば済む話で、店名まで変える必要があるとは思えない。
ところが、三店の店長は屋号そのものの刷新まで提案した。横文字の新名称、宝石の名、海外都市の名。紙の上には派手な案が並び、その脇には「攻め」「話題性」「転換期」といった強い言葉まで添えられている。
「プラチナムさんや御殿さんは、よろしいですねぇ」
「そうそう。どちらも高級店。片や旗艦店、片や創業店ですからな」
「我々の苦労も、ご理解いただきたいものです」
言いたいことは分かる。ただ、御殿は名前や雰囲気を変えたから立ち直ったわけではない。歩合を戻し、衛生を整え、部屋の回転を見直し、崩れていたものを一つずつ元へ戻しただけだ。
議論が一巡したところで、俺は口を開いた。
「新味を出すより、そのまま行った方が良いんじゃないですか」
二
数秒、部屋が静かになった。三店の店長たちが、「何を言う」とばかりにこちらを見る。
議論の場で意見を求められたから答えただけなのだが、どうも余計なことを言ったらしい。
俺と同じく、それまで黙っていたプラチナムの片桐店長が、資料から目を上げずに続けた。
「公児の言う通りだ。屋号まで捨てる理由がない」
当然、他店から反論が返った。古い屋号では若い客に響かない、どうせ看板を替えるなら一度に刷新した方が安い、変えるなら今しかない。どれも理屈としては分かるが、御殿にその事情はない。
しばらく好きに言わせていた社長は、新聞を広げたまま片手を振った。
「プラチナムと御殿はそのまま。他も、変えたきゃ勝手にしろ。ただし業態名は変えろ。表向きはクリーンにな」
競馬欄を精読していた割には、お耳が達者なようだ。
外側の表記は変える。しかし、必要のないところまで触らない。そのくらいが妥当だろう。ネオン、領収書、広告物。業態名が入っているものは順次更新する必要があり、費用も掛かるが、管理できない額ではない。
会議後、持参した資料をまとめながら考えた。
名称は記号だ。記号を変えただけで店に推力が生まれるわけではない。推力は、毎日の運用から生まれる。
御殿はようやく平常値へ戻り、客層も落ち着いてきたところだ。ここで屋号まで変えれば、これまで積み上げてきた店への認識を、自分たちの手で揺らすことになる。必要がない。
御殿へ戻ると、中原が会議資料を覗き込んだ。
「ウチはそのままで……良かったですね」
「不要な変化は避けたいです」
「名前を変えるだけで、大騒ぎする店もありますからね」
「運用が変わらなければ、実害はありません」
中原が苦笑した。
問題は、現場への説明だった。名称変更は、それだけで実際以上に大きな変化に見える。余計な憶測が広がる前に、必要なことだけを簡潔に伝えた方がいい。
三
「業態名だけ変わります。今まで通り、よろしくお願いします」
翌日の朝礼でそう伝えると、多少のざわめきは起きたものの、大きな反応にはならなかった。コンパニオンたちも、互いに顔を見合わせる程度である。
俺は、そのまま次の連絡へ移った。
「十一月二日から四日まで、接客部屋を営繕します。三日間休業です。休業補償は出します」
今度は、はっきり反応があった。
「十二月は忙しくなりますから、中日の三日に忘年会を済ませます」
ロビーの空気が一段軽くなる。
「補償って、いくらですか?」
「直近三か月の平均日当を基準に算出します」
「忘年会、外ですか?」
「待機室の方が、気楽でいいでしょう」
コンパニオンたちの間から笑いが起きた。別に冗談を言ったつもりはない。
外の店を使えば移動があり、服装にも気を遣う。人数が多ければ周囲にも遠慮が要る。その点、休業日の待機室なら気楽だろう。配慮のつもりなのだが、この手の認識のずれにはもう慣れた。
壁際にいたみほは、休業補償の説明をしたところで腕を組むのをやめた。隣のあやが小声で何か言うと、肩を軽く押され、小さく笑う。
騒がず、前にも出ない。いつもの位置だった。
補償を先に示しておけば、不安が想像だけで膨らみにくい。営繕は傷みの補修と動線の見直しが中心で、浴室の目地や排水、扉の建て付け、照明器具まで一度に確認する。休むなら、その間に済ませてしまった方がいい。
忘年会も同じだ。十二月に入ってから無理に予定を組むより、三日間休業の中日である三日に合わせる方が、店にも働く側にも負担が少ない。こちらで食事と酒を用意すれば、外へ移動する手間もない。
朝礼が終わると、中原が俺の横に並んだ。
「段取りが早いと、みんな落ち着きますね」
「想像で不安を広げる前に、数字を示す方が早いです」
「店長らしいですな」
夏休みに入ってから、春以降ほとんど消えていた学生客も、わずかだが戻り始めている。以前の上振れには遠い。それでも、数字が動けば検証はできる。
今は、それでいい。
四
八月末。閉店後の深夜。
業者が入口脇に脚立を立て、御殿の看板から国名業態のネオンを外していく。古い配線を整理し、空いた部分へ店名の補助表示を入れ、最後に結線を確認した。
通電すると、入口の上がぱっと明るくなった。
「照度が強いですね」
以前より明らかに光量が上がっている。俺の横で、中原が看板を見上げた。
「目立ちますよ。通りからも分かりやすい」
「視認距離は伸びますね」
看板は変わり、光も以前より強くなった。それでも店の名前は同じである。受付の配置も、衛生手順も、歩合も、指名料も変わらず、日々の運用もそのままだ。
入口の外には、みほが立っていた。新しくなったネオンを見上げ、数秒して目を細める。
「眩しいですね」
中原が振り向いた。
「そうですね。少し強めです」
みほはもう一度だけ看板を見上げると、それ以上は何も言わず店内へ戻っていった。
俺は手元の照度計へ目を落とす。
基準値内だった。
記号は更新されたが、線は維持されている。変えるべきものだけを変え、残すべきものは残した。
それで十分だ。




