第32話 平等のぬくもり
1984年7月8日(日) 10:40
一
七夕の笹は、まだ入口に立っている。昨日の雨を吸った短冊は少し湿り、色が濃くなっていた。空はもう明るいのに、朝から蒸し暑い。
ウチの中だけが、どうにも落ち着かへん。
なんで昨日、あんなことで笑ったんやろ。思い出すのも、あのヒトが煙草でむせて、目ぇ赤うして咳き込んどった顔ばっかりや。もっと他に、思い出すことくらいあるやろ。
厄介やな。
恋とか、そんな言葉は使わん。使った瞬間、何や安っぽうなる気がする。そもそも、そこまでの話やない。店長とコンパニオン。助けてもろたことはあるけど、それも店の中の話や。それ以上にしたら、今まで自分で引いてきた線までぼやけてしまいそうやった。
待機室で化粧直しをしていると、あやがウチの横へぴたりと座った。肩が触れそうなくらい近い。
「お姉さん」
「何や」
「昨日さ、喫煙所おったやろ」
胸が、ほんの少しだけ跳ねた。
「おったら何やねん」
「店長さんと一緒やったやん」
「偶然や」
「ふーん」
横を見ると、案の定にやにやしている。嫌な予感しかしない。
「何が言いたいん」
「店長さんおったら、お姉さん安心した顔するやん」
「アホか。仕事や」
間髪入れずに返したら、思ったより声が強うなった。
安心した顔。ウチが。
借金背負って、ここまで来て、自分で稼いで、自分で返してきた。誰かがおるから安心する、なんて考えたこともない。そんなもんに寄りかかったら、また足元をすくわれる。少なくとも、そう思って生きてきた。
「アンタは軽いねん」
つい、きつく言うてしまった。
あやは一瞬だけ目を丸くしたが、すぐに笑った。
「えー、お姉さんこわ。図星やから怒ってるんちゃうん」
「ちゃう言うてるやろ」
そう返してから、鏡へ目を戻した。口紅の端が少しずれていたので、指で直す。
軽いのは、どっちや。
言葉が胸の中へ戻ってきて、妙に引っ掛かった。
二
営業が始まっても、あやの一言は頭から離れへんかった。
安心した顔。
そんなはずはない。ウチは、あのヒトがおらんでも働けるし、借金かて自分で返す。ここを出る日も、自分で決める。誰かに居場所を決めてもらうつもりはない。
事務所へ目をやると、あのヒトはいつも通り帳簿をめくり、黒服に短く指示を出していた。姿勢も、声も、何も変わらへん。殴られても怒らず、「業務内の事故です」で済ませたヒトや。歩合を規定へ戻したときも、恩を売るようなことはせえへんかった。
コンパニオン全員を、同じように扱う。規定通り、平等に。ウチだけを特別扱いしたことなんか、一度もない。
廊下ですれ違った。
「お疲れさまです」
「お疲れさん」
それだけやのに、自分の声が高うなってへんか気にしてしまう。そんな自分が鬱陶しい。
好きちゃう。期待もしてへん。どうせウチは流れ者や。借金を返したら、ここを出る。それは何も変わってへんはずやのに、腹の奥だけが落ち着かへん。
胸よりもっと下の、理屈の届かんところがざわついている。名前なんか付けたない。付けたら、そこから動かれへん気がした。
三
夕方になっても蒸し暑さは残っていた。
ウチはアイスコーヒーだけ持って喫煙所へ出た。今日は煙草を出さん。頭を冷やしたかった。
「お疲れさまです」
振り向くと、あのヒトやった。手には、同じくアイスコーヒー。昨日の続きを思い出して、また腹の奥がきゅっと縮む。
「この業態、いずれ名称を変更することになりそうで」
「……は?」
思わず間の抜けた声が出た。
「国名を一般名詞として扱うのは問題がある、という話が出ています」
拍子抜け、いうのはこういうことやと思う。このヒト、真顔で何を言うてるんや。
「そら、向こうの人は嫌やろな」
「ええ。ただ、変更するとなると、看板やネオン、領収書、業態記載部の更新が必要になります。かなり物入りです」
少し間を置き、さらに続けた。
「ああ、それに十一月には接客部屋の営繕工事も控えています」
ウチの胸の中の話なんか、かすりもせえへん。このヒトは完全に段取りの顔をしている。
「あ、まだ皆さんには内緒ですよ。日程を詰めて、来月発表しますから」
「それ、ウチに言う話なん?」
「皆さんに説明する前に、ご意見を伺おうかと」
冗談でも何でもなく、本気らしい。
昨日の煙草も、あやに言われたことも、今のウチの顔色も関係ない。このヒトは、ただ店のことを考えている。名称を変えたらどこに金が掛かるか、工事はいつやるか、営業にどれだけ影響するか。そんなことを真面目に心配してる。
ズレてるけど、嘘がない。
「工事いうても、どこ直すん?」
「まず浴室の目地と排水です。二階の二室は扉も少し重い。照明は球を替えるだけで済む部屋と、器具ごと触った方がよい部屋があります」
「よう見てるなあ」
「毎朝、開店前に見ていますから」
何でもないことみたいに言う。けど、ウチらが客と部屋へ入っている間、このヒトはそんなところを見てるんやと思うと、少し可笑しかった。
「ほな、三階の端の部屋も見といて。湯ぅ抜いたあと、ちょっと臭い戻ることあるで」
「分かりました。中原さんにも確認してもらいます」
メモまで取る。この話をしたかったから、ウチを呼び止めたわけでもない。ただ会うたから聞いた、それくらいの自然さやった。
「名前、変えたら客は戸惑うやろな」
「やはり、そう思われますか」
「昔から来てる人ほどな。電話で予約するときも、『前と同じ店なんか』て聞かれるんちゃう? 看板だけ変えても、中身まで変わった思われたら困るやろ」
あのヒトは少し考え、紙コップの氷を揺らした。
「なるほど。告知の仕方は考えた方が良さそうですね。常連のお客様には、黒服からも説明できるようにしておきます」
「それがええんちゃう」
きちんと聞いている。女としてやない。コンパニオンとして、店で働く一人として。
それが妙に、嬉しかった。
四
氷が、カランと鳴った。
さっきまでウチは、自分の感情だけでぐらぐらしていた。安心した顔やとか、好きなんちゃうかとか、そんなことばかり考えていたのに、このヒトは業態の名前とネオンと営繕工事の話や。ウチの揺れなんか、頭の隅にもあらへん。
せやけど、皆に話す前に、ウチへ聞こうとは思っている。
それは、たぶん信頼や。
「……店長さん、ほんま真面目やな」
「そうでしょうか」
分かってへん顔で返す。
このヒトは、守る方向にしか舵を切らへん。コンパニオンも、黒服も、店の線も。たぶん、名前ひとつ変えるにしても、余計なもんを壊さんように考える。
ウチだけが特別やない。平等や。
それが分かってるのに、腹の奥があったかい。
嫌やなあ、と思う。こういうのは。頼ったらあかん、期待したらあかん。そうやって、これまでやってきた。誰かを当てにせんかったら、見捨てられることもない。
それでも、このヒトの横におるときだけ、少し肩の力が抜ける。助けてもらえるからやない。何かしてくれるからでもない。このヒトなら、昨日と今日で言うことを変えへん。たぶん、それだけのことや。
あやの言葉が、また浮かんだ。
安心した顔。
認める気は、まだない。
アイスコーヒーを一口飲むと、このヒトはまだ話していた。ネオンの見積もり、領収書の刷り直し、営繕工事の日程。細かい数字まで出てくる。
ほんまに、それしか言うことないんか。
笑いそうになって、口元を押さえた。
「何か?」
「何でもない」
なんやねん、このヒト。
そう思ったら、今度は自分の方がおかしくなってくる。
なんやねん、ウチ。




