↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
根のない男 ―― 夜の街で、居場所をつくる  作者: 早瀬 構


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

32/50

第31話 笑ってしまう理由

1984年7月7日(土) 19:00


 ウチは川本由美。二十六歳。借金を返すために、ここ「あかね御殿」で働いてる。源氏名は、みほ。


 大阪の郊外から出てきて、気ぃつけば三年四ヶ月になる。


 失敗は、自分のもんやと思うてる。共同で店を出した相手が金を持って消えて、残った借金を連帯保証しとったウチが被った。それだけのことや。


 泣いたところで金は戻らんし、恨んでも返済額は減らへん。せやから、やることは最初から決まってた。


 働いて、返して、少し残して、きれいに終わらせる。


 それ以上のことは、なるべく考えんようにしてきた。


一


 六月の終わり頃から、店の空気が少しずつ戻ってきた。


 去年みたいに、ふっと息を吹き返す、あの感じや。


 客が増えたとか、売上がどうとか、そういう数字の話やない。黒服たちの足音が揃って、ロビーに人がおっても妙にざわつかへん。待機室でも、前みたいな重たい溜息が減った。


 今年も七夕キャンペーンをやるいうて、西本君が短冊を配り始めた。


「願い事、三枚ずつお願いっす」


 三枚て。毎度、多いな。


 ウチはペンを持ったまま、しばらく止まった。


 願い事いうもんを、普段からあまり口にせえへん。口にした瞬間、それが自分の欲しいもんやと認めてしまう気がするからや。


「あや、何書くん?」


 向かいでは、あやが目ぇをきらきらさせて短冊を振っていた。


「えー、内緒! でも一個は恋愛! あとね、指名増えるやつ!」


「欲張りやな」


「お姉さんは? お金? 新しいお店?」


 ペン先が、一瞬だけ止まった。


「……仕事に関係あるやつにしとき」


「えー」


 結局、書いたのは三つやった。


 健康。無事。平穏。


 並べてから、自分でおかしくなった。願い事いうより、保険みたいや。


 そういえば去年も、似たようなことを書いた気がする。


 穏やかに働けますように。


 たしか、そんな文やった。


 あれから一年。店の中はずいぶん変わったのに、ウチが欲しいもんは大して変わってへんらしい。


二


 七夕の準備が進む中でも、店長はいつも通り仕事をしていた。


 笹の位置、飾りの高さ、客の通る幅。ひとつずつ見て、邪魔になるところだけ直していく。


「笹は入口から一歩奥にして下さい。通路、狭くしないで」


「承知しました、店長。こちらで動かします」


 中原さんの声は、いつも柔らかい。店長が真っ直ぐ引く線の角を、少しだけ丸めてくれるような人や。


 今年も、浴衣で接客することになった。


「店長が浴衣代、補助してくれるって」


「え、また? ほんと?」


 みんながざわつく。去年と同じや。


 けど、自分の給料から出すいうのは、やっぱりよう分からん。


 こういう商売で何かしてもらえば、普通はその先を考える。貸しや見返り、贔屓。そういうもんが、どこかについてくる。


 あのヒトには、それがない。


 必要やと思ったから出した。それで本人の中では話が終わってるんやろう。


「お姉さん、見て見て」


 あやが自分の浴衣を広げた。明るい色に、大きな花柄。


「どう? 可愛いやろ?」


「似合うてる。若い子は派手でええな」


「店長さんにも見せてくる!」


「あ、ちょ――」


 止める前に走っていった。


 事務所の入口から、すぐ声が聞こえる。


「店長さん! これ、どうですか?」


「動きやすい丈ですね」


「え?」


「帯は、ほどけないようにして下さい。転ぶと危ないので」


「えー、そこ?」


 少し間があって、


「でも嬉しい!」


 あやの声が弾んだ。


 何がそんなに嬉しいんやろ。


 ウチには、よう分からん。


 けど、あやはああやって何も考えずに近づける。話したければ話すし、見せたければ見せる。笑いたければ笑う。


 あの軽さは、ちょっと眩しい。


 ウチには、できへん。


三


 それなのに最近、接客の合間に店長を見てしまう。


 ロビーを通ったとき。黒服に何か指示してるとき。帳簿を抱えて事務所へ戻るとき。


 理由は、自分でもよう分からん。


 見たからいうて、おもろいことをする人でもない。いつ見ても、だいたい同じや。散らかったものを戻して、ズレたものを直して、誰かが困ってたら何が原因か調べる。


 春に客が暴れた夜も、そうやった。


 自分が殴られても殴り返さず、あの客にしがみついて離さんかった。翌日、左目を真っ青にしながら、ウチが謝ったら、「店長業務における事故です」やて。


 何やねん、それ。


 いま思い出しても、腹立つような、笑いたなるような気持ちになる。


 喫煙所で鉢合わせることもある。


「お疲れさまです」


「お疲れさんです」


 それだけや。


 あやみたいに、「ちょっと聞いて下さいよ」と寄っていくことはせえへんし、店長も余計なことを聞いてこん。


 借金は、あと一年半も働けば返せる見通しや。返したら少し残る。残ったら、それでええ。


 今さら誰かに助けてもらうような話でもない。


 ただ。


 あのヒトも、たまには誰かに世話焼かれたらええのに。


 そんなことが、ふっと頭をよぎった。


(……何考えてんねやろ)


 ウチは手元の灰皿に目を落とした。


 別に困ってるようにも見えへん。仕事もできるし、自分のことは自分でやる。


 せやのに、なんでそんなこと思ったんやろ。


 答えを探すほどの話でもないと思って、ウチは短くなった煙草を灰皿へ押しつけた。


四


 午後七時。


 七夕やのに、雨やった。


 湿気で浴衣の裾が足にまとわりつく。入口の笹も短冊も、少ししんなりして見えた。


「雨ですね。七夕なのに」


 店長が外を見て言った。


「そうですね。足元、気をつけて下さい」


 中原さんが答える。


 店は普通に回っている。雨でも、七夕でも、やることは同じや。


 休憩の合間、ウチは喫煙所へ出た。


 タバコに火をつける。ハッカの煙が湿った空気に混じり、屋根を叩く雨音がいつもより近く聞こえる。


 ひと息吸って、ゆっくり吐いたところで、この前のことを思い出した。


 店長が初めてタバコを吸った夜。


 ウチのを一本、試しに吸って――いや、一本やない。ウチが吸ってたやつを、そのまま口にした。


 しかも、いきなり思い切り吸い込んで、


「……がはっ」


 盛大に咳き込んだ。


 口の中が痛い。


 ヒリヒリする。


 美味しいもんじゃないですね。


 真顔でそんなことを言うていた。


 あんなに背ぇ高くて、普段は何があっても顔色ひとつ変えへんのに、あのときだけ妙に子どもみたいやった。


「……ふっ」


 声が出かけた。


 慌てて煙を吐いて、ごまかす。


 けど、一回思い出したらあかん。肩が少し揺れた。


(……あかん)


 何がおかしいんやろ。


 別に大した話でもない。ただ、煙草でむせただけや。


 客に殴られたことでもない。ウチをかばったことでもない。もっと覚えておくようなことは、ほかにいくらでもある。


 それやのに。


 なんで、こんなん覚えてるんやろ。


 雨音を聞きながら、短冊のことを思い出す。


 健康。無事。平穏。


 どれも間違いやない。


 借金を返すまで、何事もなく働けたらええ。去年から、それだけのはずや。


 ウチはタバコをもう一度吸った。


 ハッカの煙が喉を通る。


 ゆっくり吐き出す。


 それからもう一回だけ、小さく笑った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。