第31話 笑ってしまう理由
1984年7月7日(土) 19:00
ウチは川本由美。二十六歳。借金を返すために、ここ「あかね御殿」で働いてる。源氏名は、みほ。
大阪の郊外から出てきて、気ぃつけば三年四ヶ月になる。
失敗は、自分のもんやと思うてる。共同で店を出した相手が金を持って消えて、残った借金を連帯保証しとったウチが被った。それだけのことや。
泣いたところで金は戻らんし、恨んでも返済額は減らへん。せやから、やることは最初から決まってた。
働いて、返して、少し残して、きれいに終わらせる。
それ以上のことは、なるべく考えんようにしてきた。
一
六月の終わり頃から、店の空気が少しずつ戻ってきた。
去年みたいに、ふっと息を吹き返す、あの感じや。
客が増えたとか、売上がどうとか、そういう数字の話やない。黒服たちの足音が揃って、ロビーに人がおっても妙にざわつかへん。待機室でも、前みたいな重たい溜息が減った。
今年も七夕キャンペーンをやるいうて、西本君が短冊を配り始めた。
「願い事、三枚ずつお願いっす」
三枚て。毎度、多いな。
ウチはペンを持ったまま、しばらく止まった。
願い事いうもんを、普段からあまり口にせえへん。口にした瞬間、それが自分の欲しいもんやと認めてしまう気がするからや。
「あや、何書くん?」
向かいでは、あやが目ぇをきらきらさせて短冊を振っていた。
「えー、内緒! でも一個は恋愛! あとね、指名増えるやつ!」
「欲張りやな」
「お姉さんは? お金? 新しいお店?」
ペン先が、一瞬だけ止まった。
「……仕事に関係あるやつにしとき」
「えー」
結局、書いたのは三つやった。
健康。無事。平穏。
並べてから、自分でおかしくなった。願い事いうより、保険みたいや。
そういえば去年も、似たようなことを書いた気がする。
穏やかに働けますように。
たしか、そんな文やった。
あれから一年。店の中はずいぶん変わったのに、ウチが欲しいもんは大して変わってへんらしい。
二
七夕の準備が進む中でも、店長はいつも通り仕事をしていた。
笹の位置、飾りの高さ、客の通る幅。ひとつずつ見て、邪魔になるところだけ直していく。
「笹は入口から一歩奥にして下さい。通路、狭くしないで」
「承知しました、店長。こちらで動かします」
中原さんの声は、いつも柔らかい。店長が真っ直ぐ引く線の角を、少しだけ丸めてくれるような人や。
今年も、浴衣で接客することになった。
「店長が浴衣代、補助してくれるって」
「え、また? ほんと?」
みんながざわつく。去年と同じや。
けど、自分の給料から出すいうのは、やっぱりよう分からん。
こういう商売で何かしてもらえば、普通はその先を考える。貸しや見返り、贔屓。そういうもんが、どこかについてくる。
あのヒトには、それがない。
必要やと思ったから出した。それで本人の中では話が終わってるんやろう。
「お姉さん、見て見て」
あやが自分の浴衣を広げた。明るい色に、大きな花柄。
「どう? 可愛いやろ?」
「似合うてる。若い子は派手でええな」
「店長さんにも見せてくる!」
「あ、ちょ――」
止める前に走っていった。
事務所の入口から、すぐ声が聞こえる。
「店長さん! これ、どうですか?」
「動きやすい丈ですね」
「え?」
「帯は、ほどけないようにして下さい。転ぶと危ないので」
「えー、そこ?」
少し間があって、
「でも嬉しい!」
あやの声が弾んだ。
何がそんなに嬉しいんやろ。
ウチには、よう分からん。
けど、あやはああやって何も考えずに近づける。話したければ話すし、見せたければ見せる。笑いたければ笑う。
あの軽さは、ちょっと眩しい。
ウチには、できへん。
三
それなのに最近、接客の合間に店長を見てしまう。
ロビーを通ったとき。黒服に何か指示してるとき。帳簿を抱えて事務所へ戻るとき。
理由は、自分でもよう分からん。
見たからいうて、おもろいことをする人でもない。いつ見ても、だいたい同じや。散らかったものを戻して、ズレたものを直して、誰かが困ってたら何が原因か調べる。
春に客が暴れた夜も、そうやった。
自分が殴られても殴り返さず、あの客にしがみついて離さんかった。翌日、左目を真っ青にしながら、ウチが謝ったら、「店長業務における事故です」やて。
何やねん、それ。
いま思い出しても、腹立つような、笑いたなるような気持ちになる。
喫煙所で鉢合わせることもある。
「お疲れさまです」
「お疲れさんです」
それだけや。
あやみたいに、「ちょっと聞いて下さいよ」と寄っていくことはせえへんし、店長も余計なことを聞いてこん。
借金は、あと一年半も働けば返せる見通しや。返したら少し残る。残ったら、それでええ。
今さら誰かに助けてもらうような話でもない。
ただ。
あのヒトも、たまには誰かに世話焼かれたらええのに。
そんなことが、ふっと頭をよぎった。
(……何考えてんねやろ)
ウチは手元の灰皿に目を落とした。
別に困ってるようにも見えへん。仕事もできるし、自分のことは自分でやる。
せやのに、なんでそんなこと思ったんやろ。
答えを探すほどの話でもないと思って、ウチは短くなった煙草を灰皿へ押しつけた。
四
午後七時。
七夕やのに、雨やった。
湿気で浴衣の裾が足にまとわりつく。入口の笹も短冊も、少ししんなりして見えた。
「雨ですね。七夕なのに」
店長が外を見て言った。
「そうですね。足元、気をつけて下さい」
中原さんが答える。
店は普通に回っている。雨でも、七夕でも、やることは同じや。
休憩の合間、ウチは喫煙所へ出た。
タバコに火をつける。ハッカの煙が湿った空気に混じり、屋根を叩く雨音がいつもより近く聞こえる。
ひと息吸って、ゆっくり吐いたところで、この前のことを思い出した。
店長が初めてタバコを吸った夜。
ウチのを一本、試しに吸って――いや、一本やない。ウチが吸ってたやつを、そのまま口にした。
しかも、いきなり思い切り吸い込んで、
「……がはっ」
盛大に咳き込んだ。
口の中が痛い。
ヒリヒリする。
美味しいもんじゃないですね。
真顔でそんなことを言うていた。
あんなに背ぇ高くて、普段は何があっても顔色ひとつ変えへんのに、あのときだけ妙に子どもみたいやった。
「……ふっ」
声が出かけた。
慌てて煙を吐いて、ごまかす。
けど、一回思い出したらあかん。肩が少し揺れた。
(……あかん)
何がおかしいんやろ。
別に大した話でもない。ただ、煙草でむせただけや。
客に殴られたことでもない。ウチをかばったことでもない。もっと覚えておくようなことは、ほかにいくらでもある。
それやのに。
なんで、こんなん覚えてるんやろ。
雨音を聞きながら、短冊のことを思い出す。
健康。無事。平穏。
どれも間違いやない。
借金を返すまで、何事もなく働けたらええ。去年から、それだけのはずや。
ウチはタバコをもう一度吸った。
ハッカの煙が喉を通る。
ゆっくり吐き出す。
それからもう一回だけ、小さく笑った。




