第30話 正しさの波紋
1984年7月2日(月) 10:00
ワシは、あかねナイトグループの社長だ。
予科練上がりの死にぞこないが焼け野原で稼業を始め、いまでは風呂屋五軒、そのほか諸々を回している。あかね楽天地で起こることは、良い話も悪い話も、たいてい最後にはワシの机へ戻ってくる。
一
午前十時。
ワシは社長室で葉巻に火をつけ、壁の時計を見ていた。
来る。あの若造は、時間を裏切らない。
――ノック三回。
「入れ」
田中公児が入ってくる。背筋は伸び、余計な愛想もなければ、社長室へ入る緊張も見せない。あまりにいつも通りなので、天気予報でも眺めているような気分になる。
「前四半期のご報告に参りました」
「おう、始めてくれ」
売上、経費、客数、上納利益。数字にも説明にも淀みがない。日々、コイツ自身が帳簿を温めていることが、聞いているだけで分かる。
また聞き、部下任せ、月末に数字を寄せ集めただけの報告をする店長もいる。あんなものは、税理士の講釈を聞いている方がまだマシだ。
「従いまして、上納利益は前年同期比十二パーセント増となりました」
「今年度の目標は、前年同期比五パーセント増だったな」
「はい」
「上げ幅二・四倍か。……ご苦労」
若造は礼だけして、顔色を変えない。前年までに作った伸びを土台に、そこからさらに五パーセント積ませるつもりだった。それを、この逆風の中で十二パーセントまで持ってきた。
去年のいま頃、上納利益二割増を報告に来たときも、似たような顔をしていた。
(勝っても騒がねえ。扱いやすいが、読みにくい若造だ)
ワシは営業報告書を机へ置いた。
「だがな。四月から出足が渋った」
「はい」
「五月末には着帽まで打ち出した。あれで、さらに客が逃げたろ」
「一時的に」
「それが、なぜ戻った」
若造は、門外の新興サロン群で性病が広がったことを挙げた。そこで客が怖気づき、着帽を徹底している御殿へ戻ってきたのだという。
なるほど。理屈は通る。
だが、コイツの説明からは、「自分」というものが徹底的に抜けている。
「それだけじゃねえだろ。……優等生さんよ」
若造が、わずかに目を細めた。
(本当に自覚がねえんだから、笑えるよな)
二
「警察を店に入れた件は、その翌朝に報告済みです」
「聞いてるよ」
この若造が客に殴られ、官を店へ踏み込ませ、野次馬まで集めながら、それでも店とコンパニオンを守り切った夜。その一時間後には、ワシのところへ稼業の連中から一報が入っていた。
本人からの報告も、余計な言い訳ひとつなく、過不足がなかった。
並みのヤツなら隠すか、飾る。だが、御殿は線を守る――その噂だけは、本人の知らないところで一晩のうちに広がった。
「自分の身体で広告しやがって、このトンチキ野郎が」
「恐れ入ります」
本気で業務だと思っている顔だ。計算も私欲もないから、余計に始末が悪い。
ワシは顎をしゃくり、報告を続けさせた。
「所轄とは?」
「保安課とは、緊張はあるものの、良好な関係を維持しています」
「マル暴が出張ったら即報告しろ」
「かしこまりました」
「保健所は?」
「感染症まん延防止について、ご指導を頂きました」
「ご指導、ねえ」
この若造、店の事務所に「安全第一」なんて書きやがったらしい。製造現場か工事現場と勘違いしているのかと笑いたくなるが、やっていること自体は笑えない。
法の線を守る。その上でもう一本、自分たちで線を引こうとしている。
(正しい。だが、正しさは使い方を間違えると、刃物になる)
三
「逆風を追い風に変えた。結果も道筋も、そつがねえ。……だがな、お前、一つ間違えた」
若造の視線が上がる。
「着帽。検査を月二回。費用は店と折半。そこまでは分かる。なんで独断した?」
「店と従業員を守るためです」
即答しやがった。
「ゴムを店で出さなかったのは?」
「店が接客内容まで具体的に決めた形にしたくなかったためです」
「そこも分かる。店で用意して、使えまで言えば、こっちが商売の中身を仕切ったと取られかねねえ」
「はい」
「で、その代わりに歩合を半パー上げた」
「はい」
ワシは葉巻を灰皿へ置いた。
「半パーが惜しいんじゃねえ」
若造は黙っている。
「御殿だけ良い子になったら、ほかの四軒はどう見える?」
そこで初めて、若造の顔がわずかに動いた。
「御殿は着帽、検査強化、費用折半。そのうえ歩合まで上げた。話はもう他店にも回ってる。じゃあ、ウチは何もしねえのか。あっちは従業員を大事にして、こっちはしねえのか。そういう話になる」
「……はい」
「他の店長は、別に悪いことをしたわけじゃねえ。それでも、お前が先に一本立てたせいで、肩身が狭くなる」
若造は視線を落とした。
「店ごとに客も違えば、女も違う。長年のやり方だって違う。御殿で通ったものを、そのまま持っていけるとは限らねえ。だがな、比較だけは勝手に始まるんだよ。御殿はやった。じゃあ、こっちはどうする――ってな」
「……はい」
「グループには、御殿以外にも風呂屋が四軒ある。御殿の正しさが、そのまま全体の正しさになるとは限らねえ。お前が正しいことをやるほど、ほかの店に説明が要る場合もある」
若造は黙ったまま、こちらを見ている。
「勘違いすんなよ。着帽をやめろとも、歩合を戻せとも言ってねえ。順番の話だ。御殿だけの決めごとで済まねえものは、先にワシへ上げろ」
「申し訳ありません」
「謝れって言ってんじゃねえ。覚えとけ。店の根っこに触るときは、独断するな」
「肝に銘じます」
ワシは椅子の背へもたれた。
ふと、コイツの前任の顔を思い出す。私欲に奔り、店を私物化したクソ野郎だった。だが、あれは読めた。金と女と立場を押さえれば、どこへ走るか想像がついた。
この若造は違う。私欲より、正論で走る。
正論がワシの埒外へ出たとき、コイツはどちらの道を選ぶのか。
「ご苦労。下がって良い」
「失礼いたします」
若造は一礼し、社長室を出ていった。
四
遠ざかる革靴の音を聞きながら、ワシは葉巻の灰を落とした。
(……ならなきゃいいがな、教祖によ)
声に出すほどの警戒ではない。思考の端へ置いておく程度だが、本人にその気がなくても、周りが勝手に担ぐことはある。
窓の外には、ワシの庭場であるあかね楽天地が広がっている。その門外には迷走する新興サロン群があり、庭場の片隅では、あかねロイヤル興業の残骸もまだ燻っている。
あの若造は、自分では御殿しか見ていないつもりだろう。
だが、もう御殿だけの男じゃなくなり始めている。
(ああいうヤツは、嫌いじゃねえ)
使えるし、観察していて面白い。何より、どこまで行くのか読めない。
ワシは、ゆっくり煙を吐いた。
(御殿だけじゃ、狭いわな)
もう一度、葉巻をくわえる。
(広げてやるか)
田中公児が――どこまで守り切れるか。
見てみたいものだ。




