↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
根のない男 ―― 夜の街で、居場所をつくる  作者: 早瀬 構


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

30/52

第29話 事故のあとで

1984年5月29日(火) 21:00


一


「ふぅ……店長。今日は、お休みでも取ればよろしかったのに」


「アレは業務内です。ただ、今日は、おかげで帳簿に専念できました」


「業務内……ですか。店長、まったく軸がブレませんね」


 午後九時。


 俺は帳簿の整理と、溜まっていた書類仕事を終えた。


 左目の周りには、まだ青あざが残っている。昨夜の騒ぎから、ほぼ丸一日。長かったような、そうでもなかったような一日だった。


二


 昨夜、午後八時半。


 数人の警官が客室へ踏み込み、男を制圧した。


 俺は腫れ始めた左まぶたを手で覆い、壁際へ腰を下ろした。脇腹も頭も痛むが、吐き気も眩暈もない。耳も聞こえている。


「自由恋愛だろうが! この店、どうなってんだっ!」


 男は警官二人に両腕を押さえられながら、なおも喚いている。


 少し遅れて、あかね中央警察署保安課の刑事が入ってきた。一月の立入検査で来た、あのオッサンだ。


「大変でしたな、店長」


「ええ。まあ」


 オッサンは俺の顔を見てから、男の前へしゃがみ込んだ。


「ご主人。いま、自由恋愛っておっしゃいましたな」


「そうだよっ。風呂場で恋に落ちたっ、それだけだろうがっ!」


「なるほど。店長、何があったか最初からお願いしますかな」


 俺は、入店時に店の方針を伝え、男も了承したこと、部屋でみほが断ったこと、それでも迫ったため止めに入り、男が暴れ出したことを順に説明した。


「違うっ! 部屋で交渉してたんだ! コイツら、そういう商売だろうが!」


 オッサンが眉をひそめる。


「さっきは自由恋愛っておっしゃってましたな。恋愛なのに、商売で交渉するんですか?」


「……あの。脱帽をちょっと……持ちかけまして」


 明らかな論理破綻だった。


「まあ、その辺りも含めて、署でお話を聞きましょう。店長さんが殴られた件は傷害の疑いがあります。コンパニオンさんからも事情を聞きます」


 男の顔から、みるみる血の気が引いた。


「ま、待って下さい! すみませんでした! お願いですから、職場と家族には……!」


 バカバカしい。


「俺自身については、被害届を出すつもりはありません」


「それでいいんですか?」


「はい」


「ただし、コンパニオンさんの件は別ですぞ」


「もちろんです。本人に確認してください」


 俺が決めることではない。それより、みほをここから離した方がいい。


「中原さん。みほさんを待機室へお願いします」


「分かりました」


 中原がみほを連れて出ていくのを見送り、俺は男へ向き直った。


「それから、サービス未了ですので、代金は返します。西本さん、返金処理をお願いします」


「……は?」


「あと、名刺を一枚頂けますか」


「お、お金ですか……?」


「刑事さんの前で、恐喝するバカはいませんよ」


 男はおずおずと名刺を差し出した。


 銀行員か。後先を考えて行動すべき、お堅い仕事だろうに。


「今後のお運びは、お断り申し上げます」


 表には野次馬が集まり始めていたので、警官たちには通用口から出てもらった。


 最後にオッサンが俺の顔を見て、「念のため、医者には行っておきなさい」と言い残した。


三


「店の評判、落としたかも知れませんね」


「仕方ありません。野次馬も集まりましたが、不可抗力ですよ」


 不可抗力、か。俺は肩をすくめた。


 昨夜、男と警官たちが出ていくと、中原は表へ回って野次馬と来客の整理を始め、俺は事務所へ押し込まれた。


「冷やすんすよ、こういうのは」


「いや、ある程度経ったら温めるんじゃなかったか?」


「薬、塗った方がいいんじゃないですかね」


「湿布は?」


「顔に湿布貼るんすか?」


 黒服たちが議論している間にも、左まぶたは腫れ上がっていく。


「俺は大丈夫ですから、営業に――」


「店長は黙ってて下さい」


 西本にまで止められた。


 そこへ中原が戻ってきた。


「氷のうに氷入れて持ってこい。それだけだ」


 議論は終わった。


 今朝には腫れそのものはかなり引いたが、代わりに左目の周りが青黒く変色していた。


「フェイフェイみたいっすね。左目だけ」


「デカい眼帯、薬局で買ってきましょうか?」


「眼帯をしたら、余計に目立ちます」


 中原が黒服たちを見回す。


「今日は、店長には裏方に徹して頂こう。その分、お前らが頑張れ」


「了解っす」


 この顔で朝礼にも客前にも出るわけにはいかない。それで一日、事務所にこもった。


 帳簿を付け、伝票を整理し、溜まっていた書類を片付ける。普段なら細切れになる仕事が、面白いほど進んだ。


 だから、「今日は、おかげで帳簿に専念できました」というのは、別に強がりではない。事実だった。


四


「店長、コーヒーでもいかがですか」


「……いいですね」


 俺は中原と連れ立って通用口へ向かった。


 自販機の前まで来たところで横を見ると、喫煙所にみほがいた。こちらを見て、一度立ち上がろうとしてから、またベンチへ腰を下ろす。


 何か話があるのかもしれない。


 俺は中原から離れ、喫煙所へ歩み寄った。


「あ、あの……店長。昨夜は、本当に……」


 言いかけたみほが俺の顔を見て、一瞬たじろいだ。


「パ、パンダみたいに……ならはりましたね。左目だけ」


「ああ、これですか。見苦しいもので、すみません」


「そんなことありませんっ」


 みほはすぐに首を振り、それから俯いた。


「店長……すんませんでした」


 深々と頭を下げる。


「あなたが謝ることはありません。あれは、みほさんの過失ではありません」


 少し考えた。


「店長業務における事故です」


「……事故?」


「ええ」


 それ以上でも、それ以下でもない。


 みほは何か言おうとして、結局、口を閉じた。


 沈黙が気まずくなり、俺は灰皿へ目をやった。みほの指には火のついたタバコがある。


「えっと……タバコって、美味いもんですか」


「……タバコ?」


「ええ」


「吸わはったこと、ないんですか?」


「ありません」


「そうなんや」


 みほは少し笑って灰を落とした。


「美味いいうより……気ぃ紛らわすため、吸ってます」


「気を紛らわす」


「そう」


 ケースから新しい一本を抜き、唇に咥えて火をつける。そのまま首をかしげた。


「……吸わはりますか? ハッカやけど」


「え、ええ……試しに」


 俺は受け取ろうと手を伸ばした。


 みほはその手を見てから、なぜか指で渡さず、唇から抜いたタバコの吸い口をそのまま俺の口元へ差し出した。


 反射的に咥える。


「ゆっくり――」


 言われる前に吸い込んだ。


 冷たいハッカの刺激に続いて、熱い煙が一気に喉へ入った。


「……がはっ……げほっ、げほっ……」


「店長っ、大丈夫ですか?」


 みほが慌てて背中をさする。


「そんな急に吸うもんやないのに」


「口の中が……痛くて、ヒリヒリして……。美味しいもんじゃないですね」


 みほは一瞬きょとんとして、それから鼻を鳴らした。


「それでも……やめられへんのです」


「不思議ですね」


「ホンマに」


 背後で、自販機のドリップ音が止まった。


 振り返ると、中原が紙コップを二つ持って立っていた。


「どうぞ」


「ありがとうございます」


「おおきに」


 俺とみほに一杯ずつ差し出すと、中原は何も言わず、もう一度自販機へ向き直った。


 紙コップが、手のひらに温かかった。


 湯気とコーヒーの香りが、そっと鼻腔を撫でた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。