第29話 事故のあとで
1984年5月29日(火) 21:00
一
「ふぅ……店長。今日は、お休みでも取ればよろしかったのに」
「アレは業務内です。ただ、今日は、おかげで帳簿に専念できました」
「業務内……ですか。店長、まったく軸がブレませんね」
午後九時。
俺は帳簿の整理と、溜まっていた書類仕事を終えた。
左目の周りには、まだ青あざが残っている。昨夜の騒ぎから、ほぼ丸一日。長かったような、そうでもなかったような一日だった。
二
昨夜、午後八時半。
数人の警官が客室へ踏み込み、男を制圧した。
俺は腫れ始めた左まぶたを手で覆い、壁際へ腰を下ろした。脇腹も頭も痛むが、吐き気も眩暈もない。耳も聞こえている。
「自由恋愛だろうが! この店、どうなってんだっ!」
男は警官二人に両腕を押さえられながら、なおも喚いている。
少し遅れて、あかね中央警察署保安課の刑事が入ってきた。一月の立入検査で来た、あのオッサンだ。
「大変でしたな、店長」
「ええ。まあ」
オッサンは俺の顔を見てから、男の前へしゃがみ込んだ。
「ご主人。いま、自由恋愛っておっしゃいましたな」
「そうだよっ。風呂場で恋に落ちたっ、それだけだろうがっ!」
「なるほど。店長、何があったか最初からお願いしますかな」
俺は、入店時に店の方針を伝え、男も了承したこと、部屋でみほが断ったこと、それでも迫ったため止めに入り、男が暴れ出したことを順に説明した。
「違うっ! 部屋で交渉してたんだ! コイツら、そういう商売だろうが!」
オッサンが眉をひそめる。
「さっきは自由恋愛っておっしゃってましたな。恋愛なのに、商売で交渉するんですか?」
「……あの。脱帽をちょっと……持ちかけまして」
明らかな論理破綻だった。
「まあ、その辺りも含めて、署でお話を聞きましょう。店長さんが殴られた件は傷害の疑いがあります。コンパニオンさんからも事情を聞きます」
男の顔から、みるみる血の気が引いた。
「ま、待って下さい! すみませんでした! お願いですから、職場と家族には……!」
バカバカしい。
「俺自身については、被害届を出すつもりはありません」
「それでいいんですか?」
「はい」
「ただし、コンパニオンさんの件は別ですぞ」
「もちろんです。本人に確認してください」
俺が決めることではない。それより、みほをここから離した方がいい。
「中原さん。みほさんを待機室へお願いします」
「分かりました」
中原がみほを連れて出ていくのを見送り、俺は男へ向き直った。
「それから、サービス未了ですので、代金は返します。西本さん、返金処理をお願いします」
「……は?」
「あと、名刺を一枚頂けますか」
「お、お金ですか……?」
「刑事さんの前で、恐喝するバカはいませんよ」
男はおずおずと名刺を差し出した。
銀行員か。後先を考えて行動すべき、お堅い仕事だろうに。
「今後のお運びは、お断り申し上げます」
表には野次馬が集まり始めていたので、警官たちには通用口から出てもらった。
最後にオッサンが俺の顔を見て、「念のため、医者には行っておきなさい」と言い残した。
三
「店の評判、落としたかも知れませんね」
「仕方ありません。野次馬も集まりましたが、不可抗力ですよ」
不可抗力、か。俺は肩をすくめた。
昨夜、男と警官たちが出ていくと、中原は表へ回って野次馬と来客の整理を始め、俺は事務所へ押し込まれた。
「冷やすんすよ、こういうのは」
「いや、ある程度経ったら温めるんじゃなかったか?」
「薬、塗った方がいいんじゃないですかね」
「湿布は?」
「顔に湿布貼るんすか?」
黒服たちが議論している間にも、左まぶたは腫れ上がっていく。
「俺は大丈夫ですから、営業に――」
「店長は黙ってて下さい」
西本にまで止められた。
そこへ中原が戻ってきた。
「氷のうに氷入れて持ってこい。それだけだ」
議論は終わった。
今朝には腫れそのものはかなり引いたが、代わりに左目の周りが青黒く変色していた。
「フェイフェイみたいっすね。左目だけ」
「デカい眼帯、薬局で買ってきましょうか?」
「眼帯をしたら、余計に目立ちます」
中原が黒服たちを見回す。
「今日は、店長には裏方に徹して頂こう。その分、お前らが頑張れ」
「了解っす」
この顔で朝礼にも客前にも出るわけにはいかない。それで一日、事務所にこもった。
帳簿を付け、伝票を整理し、溜まっていた書類を片付ける。普段なら細切れになる仕事が、面白いほど進んだ。
だから、「今日は、おかげで帳簿に専念できました」というのは、別に強がりではない。事実だった。
四
「店長、コーヒーでもいかがですか」
「……いいですね」
俺は中原と連れ立って通用口へ向かった。
自販機の前まで来たところで横を見ると、喫煙所にみほがいた。こちらを見て、一度立ち上がろうとしてから、またベンチへ腰を下ろす。
何か話があるのかもしれない。
俺は中原から離れ、喫煙所へ歩み寄った。
「あ、あの……店長。昨夜は、本当に……」
言いかけたみほが俺の顔を見て、一瞬たじろいだ。
「パ、パンダみたいに……ならはりましたね。左目だけ」
「ああ、これですか。見苦しいもので、すみません」
「そんなことありませんっ」
みほはすぐに首を振り、それから俯いた。
「店長……すんませんでした」
深々と頭を下げる。
「あなたが謝ることはありません。あれは、みほさんの過失ではありません」
少し考えた。
「店長業務における事故です」
「……事故?」
「ええ」
それ以上でも、それ以下でもない。
みほは何か言おうとして、結局、口を閉じた。
沈黙が気まずくなり、俺は灰皿へ目をやった。みほの指には火のついたタバコがある。
「えっと……タバコって、美味いもんですか」
「……タバコ?」
「ええ」
「吸わはったこと、ないんですか?」
「ありません」
「そうなんや」
みほは少し笑って灰を落とした。
「美味いいうより……気ぃ紛らわすため、吸ってます」
「気を紛らわす」
「そう」
ケースから新しい一本を抜き、唇に咥えて火をつける。そのまま首をかしげた。
「……吸わはりますか? ハッカやけど」
「え、ええ……試しに」
俺は受け取ろうと手を伸ばした。
みほはその手を見てから、なぜか指で渡さず、唇から抜いたタバコの吸い口をそのまま俺の口元へ差し出した。
反射的に咥える。
「ゆっくり――」
言われる前に吸い込んだ。
冷たいハッカの刺激に続いて、熱い煙が一気に喉へ入った。
「……がはっ……げほっ、げほっ……」
「店長っ、大丈夫ですか?」
みほが慌てて背中をさする。
「そんな急に吸うもんやないのに」
「口の中が……痛くて、ヒリヒリして……。美味しいもんじゃないですね」
みほは一瞬きょとんとして、それから鼻を鳴らした。
「それでも……やめられへんのです」
「不思議ですね」
「ホンマに」
背後で、自販機のドリップ音が止まった。
振り返ると、中原が紙コップを二つ持って立っていた。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
「おおきに」
俺とみほに一杯ずつ差し出すと、中原は何も言わず、もう一度自販機へ向き直った。
紙コップが、手のひらに温かかった。
湯気とコーヒーの香りが、そっと鼻腔を撫でた。




