第28話 守るということ
1984年5月23日(水) 07:30
一
午前七時半。俺は、事務所の掲示板を見つめていた。
今日伝えることは、御殿の「色」を変えるかもしれない。だが、迷いはなかった。あるべき姿へ戻すために必要なら、決めたことを実際に守るだけだ。
(安全、第一だ)
先日の保健所立入り検査後に朱記した項目は、まだ鮮やかな色を保っている。
俺が微かに頷いたとき、背後から声が飛んだ。
「店長、聞こえなかったすか? 玉子、堅焼きか半熟か、言って下さいよ」
「あ、ああ……堅焼きでお願いします」
西本がフライパンを振りながら、掲示板を見る。
「やっぱり工場か工事現場みたいっすよね。それに二重丸って。分かりますけど」
「分かるなら、いいでしょう」
「いや、まあ……そうなんすけどね」
西本は苦笑し、再びフライパンへ向き直った。
安全第一。紙に書くだけなら簡単だが、店の決まりにするなら、結果まで引き受けなければならない。
二
午前十一時。朝礼の最後に、先日の保健所立入りを受けて改訂した衛生管理について確認した。
性病検査は月二回。費用は店とコンパニオンの折半。そこまでは、すでに伝えてある。
「今日は、もう一点あります」
コンパニオンたちの顔が上がった。
「今後、当店ではお客様へ着帽をお願いします。拒否された場合は、接客をお断りして下さい。店は、その判断を支持します」
一瞬、ロビーが静かになった。
「それって、実質義務やん」
「そう受け取っていただいて構いません」
「義務なら、衛生用具は店で出してくれますよね?」
「支給はしません。店の備品として用意すれば、具体的な接客方法まで店が決めた形になります」
何人かが鼻を鳴らした。面倒が増えることに変わりはない。
「その分、歩合を〇・五パーセント増やします。一本あたり、おおよそ三百円です」
「別にええけど、客来んようになったら困りますやん」
あやの一言で、空気が重くなった。その通りだ。客が減れば、店の売上だけでなく、コンパニオンの収入にも響く。だからといって、軽々しく補償を約束するわけにはいかない。
「ウチは……賛成や」
みほが顔を上げた。
「店がそこまで決めるんやったら、うちらも決まり守らなあかんやろ?」
あやが何か言いかけたが、みほはそれ以上続けなかった。
俺は一礼した。
「ご協力をお願いします。それと、拒否されたことで揉めた場合も、これまで通りです。コンパニオンを先に離す。黒服は一人で対応しない。こちらから手は出さない。それだけは守って下さい」
プラチナムでも最初に叩き込まれた基本だった。こちらまで熱くなれば、揉め事はただの喧嘩になる。
朝礼後、事務所へ戻ると、小野寺がぽつりと言った。
「コンパニオンや黒服が道理を理解しても、客から同じ理解を得るのは大変ですよね」
「そうですね。方針ですから、説明には俺が立ちます」
三
その日から、中原、黒服たちと俺は、常連新規を問わず、客が入店するたび同じ説明を続けた。
「当店では、着帽をお願いしております。お断りの場合は、接客をお受けできません」
「あ、そう。そうなったの。良いんじゃない?」
中原の説明に、「平行移動」は淡々と答え、あやに腕を貸してそのままエレベーターへ入っていった。
だが、すべての客が同じではない。
「嫌だって言ったらどうする?」
「恐縮ですが、接客をお断りいたします」
それだけの説明で、反応は大きく分かれた。
「分かった。当節の折り目って、理解するよ」
「マジかよ……御殿、変わっちまったな。イヤな方向に」
「じゃあ帰る。チッ……実質値上げじゃねえか」
踵を返す客も出た。台帳を確認するたび、売上には確実に下押しの圧力が掛かっている。
「店長、意地の張りどきですね」
中原が微かにため息をつく。
「ええ。ご苦労をおかけします」
数字が下がっていることは分かっていた。それでも、ここで引けば、最初から決めなかったのと同じになる。あるべき姿へ戻すには、客に選ばれなくなる可能性まで受け入れなければならなかった。
四
声掛けを続けて五日後。午後八時、四十絡みの男が御殿を訪れた。
長身のやせぎすで、量販店で買ったような背広を着ている。一見、どこかの会社の課長か、係長あたり。来店実績はない。
現金で支払いを済ませた男に、俺はパネルを差し出した。
「ご覧になりますか」
「……この子を頼む」
ほとんど見ていない。男の指が示したのは、みほだった。主に五十代以上を接客する彼女の客としては若いが、それだけなら珍しい話ではない。
「承知しました。当店では、着帽をお願いしております。お断りの場合は、接客をお受けできません」
「いいですよ、それで」
返事が早かった。料金説明では延長料金や時間の数え方を二度確認したのに、その点だけは聞き返しもしない。パネルもろくに見ず、みほを選んだ。
小さなズレが二つ重なった。
俺は男へコーヒーと熱シボを渡し、中原の横へ寄った。
(一階に、付けて下さい)
中原は俺の顔を見ただけで、すぐ頷いた。
(一階ですね。分かりました)
一階の客室は一つだけで、ロビーから最も近い。何かあっても駆けつけやすいし、杞憂ならそれでいい。
やがて、みほが男の腕を取り、部屋へ向かった。みほは扉を閉じたが、内鍵までは掛けなかった。最初の安全確認が済むまでは施錠しない。先日の朝礼で確認した手順どおりだった。
十分ほどして、廊下の奥からくぐもった声が聞こえた。
俺は顔を上げた。もう一度、今度はさっきよりはっきり聞こえる。
中原と目が合った。二人で一階の客室へ走り、ノックと同時に扉を開ける。
「部屋の中じゃ自由恋愛……ちょっとくらい、いいだろう?」
「お断りしますっ! ……あ、店長っ!」
下着姿の男が、みほへ詰め寄っていた。
俺は中へ入り、男との間に身体を差し込む。
「お客様、不都合がございましたでしょうか」
「お前ら何だっ、私を脅す気かっ?!」
「そのようなつもりはありません」
男はテーブルの上のローションをつかみ、壁へ投げつけた。鈍い音とともにふたが外れ、中身がタイルへ飛び散る。
「客の望むサービスをするのが、コイツらの仕事だろうが、ええっ?」
「お客様、お遊びの範囲を越えておられます。事務所で――」
お話を、と続ける前に、目の前で火花が散った。
右拳が顔面へ入り、上体が大きく揺れた。考えるより先に間合いを潰し、男の右腕を抱え込むように胴へ組みつく。
反撃しない。制止する。プラチナムで最初に教わった通りだった。
「この野郎、放しやがれ!」
背後で中原の声が飛ぶ。
「みほさん、外へ!」
足音が遠ざかり、続いて「外線、急いで!」と小野寺を呼ぶ声がした。
俺は男から離れない。空いた左拳がわき腹へ入り、次は頭を殴られた。もう一発、耳のあたりに鈍い衝撃が走る。
痛い。
それでも、ここで腕を緩めれば、男がみほを追うかもしれない。
歯を食いしばり、俺はただ、男を逃がさないよう必死にしがみついた。




