第27話 病気に門はない
1984年5月9日(水) 13:00
一
ゴールデンウィークが明けても、御殿の学生客は戻らなかった。
「常連客は維持されています。ただ、利益の進捗は目標線をわずかに下回っていますね」
「後半戦が踏ん張りどころだぞ、みんな」
中原の檄に、黒服たちは頷いた。だが、表情は硬い。値引きなり、新しいサービスなり、もう少し思い切った手を打ってほしい。口には出さなくても、そんな空気が事務所に残っていた。
午後一時、チャイムが鳴り、西本が応対に出る。
「いらっしゃいませ……あ、先生」
「おおぅ、西本クン。今日もよろしく頼むよ」
「今日は何本、剥いてきたんすか? こう……スパッと、職人技で」
「お前さん、ワシゃ美容外科じゃないぞ?」
俺は帳簿から顔を上げ、苦笑しながら二人のやり取りを聞いた。客が乗っているうちは、西本の軽口も接客のうちである。
「そうそう、お前さん。当節な、抜き身でその槍、振るうなよ」
「……は?」
「ワシはこのところ、消毒専門だよ。淋しいヤツが増えててな」
「……え」
「若いのにも多いぞ。本人が気づかんまま、相手へ移すヤツもある」
「マジっすか」
「何とかサロンに行くのは勝手だが、無茶するなよ。彼女にまで土産を持って帰るぞ?」
西本は反射的に股間を押さえた。
「……ウチは原則、着帽っすから」
医者はニカッと笑い、迎えに出たコンパニオンへ腕を差し出す。
「だから、来とるんだ。はっはっは……」
二
それから、西本はコンパニオンたちに着帽を勧めるようになった。
中原はその様子を見て、口ひげを撫でながら苦笑した。
「どうした。宗旨替えしたか」
「そう思われてもいいっす。俺、あの先生の話、堪えました」
「医者があそこまで言うんです。笑い話ではないんでしょうな」
西本は神妙に頷き、それから俺へ向き直った。
「店長」
「何ですか」
「俺のツレ、お土産……もらってたっす」
「まだ、探らせてたんですか?」
俺が眉をひそめると、西本は慌てて頭を振る。
「違うっす。最初は俺が金渡して探らせたんすけど、あいつ、そのあと自分で通ってたんすよ」
「……そうですか」
「御殿は費用対効果が悪いとか言われて。俺も、ちょっと影響されてたっす」
頭を掻きながら、西本は続けた。
「先生の話聞いて、念のため病院行けって言ったら、本人は何ともないって言ってたんすけど……検査で引っ掛かったらしいっす」
「治療は?」
「もう受けてます。大事にはならなかったみたいです」
そこまで言って、西本はしばらく黙った。
「店長の言ってたこと、よく分かったっすよ。シャレになんない」
俺は頷いた。分かってもらうために言っていたわけではない。危ないから、やらない。それだけの話だった。
三
五日後、午前九時。
「おはようございます。あかね市保健所、生活衛生課です」
「同じく、予防担当です」
白衣姿の男が二人、御殿を訪れた。物腰は穏やかで、生活衛生課の職員が来意を告げる。
「最近、この辺りで性病の相談が増えておりまして。念のため、店内を確認させていただきます」
「よろしくお願いします」
「私の方は、予防のお話と、検査のお勧めです」
黒服たちが生活衛生課の職員を案内し、事務所を出ていく。残った職員は、中原と俺にそれぞれパンフレットを差し出した。
「若い方の相談も増えています。新しい業態の店を利用したという話もありますが、そこだけの問題とも言えません」
「そうですか」
「病気に、門の内も外もありませんから」
「ええ」
その通りだった。門で客を分けることはできても、病気までは分けられない。
俺は棚から御殿の業務マニュアルを取り出し、衛生管理の項目を開いた。
「検査について、ひとつ確認させてください」
「どうぞ」
「月一回より、回数を増やす意味はありますか」
「あります。もちろん、検査だけで防げるわけではありませんが」
職員はそこまで言ってから、マニュアルへ目を落とした。
「それと、できれば予防具の使用を――」
「それは、保健所からの指導ですか」
職員が顔を上げた。
「……いえ。そこまでは申しません」
「では、一般的な予防のお話として?」
「そう受け取ってください。感染予防の立場から言えば、使うに越したことはありません」
「分かりました」
俺は中原を見る。
「検査料を店で半分持った場合、衛生費で収まりますか」
中原は少し考え、帳簿へ目を落とした。
「今の範囲なら、問題ないでしょう」
一回分を店が持てば、本人の月間負担を増やさずに検査回数だけ増やせる。
「では、そうしましょう」
赤ペンを取り、改訂欄へ日付を書き込んだ。
――性病検査 月一回から月二回へ変更。
――検査料 コンパニオン全額負担から、店との折半へ変更。
「今日中に、待機室の分も差し替えます」
職員が改訂欄を見て、少し目を丸くした。
「随分、早いですね」
「店の責任として、必要だと思いました」
「分かりました。ただ、検査を増やしても、普段の予防を緩めないようにしてください」
「もちろんです」
俺はマニュアルを閉じた。
四
「黒服さんたちには、いくつか注意点をお話ししました。その励行だけ、お願いします」
生活衛生課の職員はそう言い残し、もう一人の職員と御殿を出ていった。
指摘されたのは、タオルを一時的に置く位置、待機室の共用品の管理、消毒薬の希釈表示。いずれも改善報告を求められる類ではなかったが、西本は妙に感じ入った様子で事務所へ戻ってきた。
「俺らが気をつけるとこ、全部その場で教えてくれたっす」
「分かりました。今日から直してください」
「了解っす」
中原が待機室へ置くマニュアルを集め始めたので、俺も改訂箇所を確認する。一冊だけ直して終わりでは意味がない。控えを含め、今日中に全部そろえる必要がある。
作業の途中で、ふと事務所の掲示板へ目が行った。
一月の警察署立入検査から、そのまま残してある。
営業上の健全:
○ 法令遵守
○ 明朗会計
○ 衛生管理
○ 強要しない
○ 秘密保持
社会上の健全:
△ 後ろめたさを、増やさない。
△は、今も△のままだった。
法律を守っても、衛生に気を配っても、この仕事を誰にでも胸を張って話せるようになるわけではない。それを無理に○へ変えるつもりもなかった。
ただ、今日の話を聞いて、一つだけ迷わず書けるものがあった。
俺は赤ペンを取り、少し間を空けて新しい見出しを書いた。
最優先:
◎ 安全第一
後ろで、西本がそれを読んでいた。
「店長」
「何ですか」
「いまなら、よく分かるっす」
西本はしばらく掲示板を眺め、それから首を傾げた。
「……でも、工事現場じゃないんすよ、ウチ」




