↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
根のない男 ―― 夜の街で、居場所をつくる  作者: 早瀬 構


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

27/50

第26話 崩さない一線

1984年3月10日(土) 07:00


一


 朝七時。俺はロビーを横切りかけ、七段雛飾りの前で足を止めた。


 三月三日は、もう一週間前だ。誰も何も言わなければ、このまま月末まで置かれていそうな気さえする。区切りを付けないのは、どうにも性に合わない。


 申し送りの席で、そのまま尋ねた。


「ロビーの雛飾りは、いつ片づけるんですか」


「あれは月曜日に片づけるんっすよ」


 西本が、当然のような顔で答えた。


「コンパニオンが早く片付いちゃったら、客も店も困るっしょ」


 意味が分からず、中原を見る。


 中原は苦笑しながら、口ひげを撫でた。


「下世話な話です。雛人形をいつまでも出していると、娘の嫁入りが遅れるというでしょう」


「ああ……」


「逆ですな。この店では、少しでも長くいてもらわないと困る」


 俺はもう一度、ロビーの方へ目をやった。


「店が、コンパニオンの時間を止めるわけですか」


「まあ、そういうことになります。不条理は否めませんね」


 冗談として流してよい話なのだろうが、妙に噛み切れないものが残った。


 中原が帳面を開く。


「さて、申し送りですが……店長、今月下旬は苦戦を強いられそうです」


「楽天地門外の新興サロンですか」


「ええ。若い学生客が、少しずつ減っています」


 雛人形ではないが、客層ごとに時季の上振れ要因がある。


 高齢層なら年金受給日前後。学生なら長期休暇の後半だ。休みに入ってからバイトで稼ぎ、その金で少し背伸びをする。例年なら三月下旬にも、そういう客が一定数来る。


「今年は、その上積みを見込まない方が良さそうですね」


「でしょうな」


 致命的ではないが、これまで通用していた読みが外れ始めた以上、こちらも軌道修正しなければならない。


「アイツら、何でもアリアリっすから。ムチャしやがる」


「西本さん」


「はい」


「ウチは、ウチのやり方を検証して、磨くだけです」


 西本は一瞬口をへの字にしたが、すぐ頷いた。


「了解っす」


 そちらへ流れてはいけない。


二


 ――三月下旬。


 学生客の入りが、目に見えて消えた。


 もともと季節性の浮動客であり、毎月の基礎売上を支える層ではない。それでも、例年なら来ていた客が来なくなると、数字以上に空気が変わる。


 黒服もコンパニオンも、予約表の空きを見る回数が増えた。


「店長、中原さん。……ツレが行ったらしいんですよ、新興サロン」


 西本が、申し送りのあとで声を潜めた。


 俺が止めようとすると、中原が片手をわずかに上げた。


「ほう。それで?」


「一時間でコンパニオンが二人。その二人とも脱帽で、注射だったらしいっす」


「それで、コンパニオンの一人は女子大生でもう一人は――」


「もういいです」


 俺はそこで話を切った。


「探りに行っても、誰かを行かせてもいけません。噂も広げないようにして下さい」


「了解っす」


 西本は素直に引き下がり、来客対応へ戻った。


 その背中を見送りながら、中原が苦笑する。


「アイツが直接行ったわけではないでしょう。そこは勘弁してやって下さい」


「怒ってはいません。競業への偵察は、リスクが高すぎます」


「スパイは当然として、スカウト行為とも取られかねませんからね」


「ええ。それに、黒服やコンパニオンたちへ比較させたくない」


 中原が俺を見る。


「比較?」


「未成年使用、深夜営業、衛生問題。何をやれば客が来るか、それだけで比べ始めたら、線はすぐに消えます」


 売上も客数も大事だが、そのために御殿で決めたものを、こちらから崩してしまっては意味がない。


三


 ――四月。


 新年度に入る頃には、学生客はほとんど来なくなっていた。さらに、二十代の常連客まで、少しずつ足が遠のき始めた。


 御殿の中心顧客は四十代と五十代だから、まだ致命傷ではない。ただし、働く側の目に映る景色は違う。


「店長……私たち、少しは協力しますから、値引きを……」


「回転とか、二輪を始めた店もあるって言うし、ウチでも……」


「ええやん、店長っ。ウチもお姉さんとペアで脱帽――」


「アホか、あやちゃん。黙っとき」


 不安を口にする者が増え、そのたびに俺は話を聞き、同じ説明を繰り返した。


 衛生優先は変えない。回転、二輪、脱帽を店の仕組みにはしない。法令遵守も変えず、夜間営業も店としてのアフターも行わない。


 これまであった上振れが消えただけで、現時点では地盤沈下と断じる数字ではない。


 黒服たちもコンパニオンたちも、頭では分かってくれているようだったが、完全に納得している顔でもなかった。


 閉店作業後、俺は事務所で業界紙をめくった。


「短期決戦で稼いで撤退。……ウチは屋台じゃないんだ」


 新興サロン、個室按摩、鑑賞室、脱衣カフェ。ここ数年で登場した「軽め」の新興業態についての記事が並んでいる。


 遊郭の流れを引き継ぐ楽天地門内の店と違い、伝統も古いしがらみもない。飲食店やマッサージ店といった曖昧な看板を掲げ、そこから垣根を越えてくる。


 中原も隣から紙面を覗き込んだ。


「来年に見込まれる法改正が、潮目になるでしょうな。新興勢は、やり方が荒っぽい」


「それまでに稼げるだけ稼ぐ、ですか」


「そう見えます」


 俺は紙面を閉じた。御殿ではそんな商売はできないし、やるつもりもなかった。


四


「ったく、公児よ。お前も硬いな。カ・タ・い」


「ええ。この点は、線引きをきっちりとします」


「値引きくらい使え。客が戻るまでだ」


「一度値段を崩せば、戻すのに苦労します。そこは押さえます」


「はっ。『衣食足りて礼節を知る』だぞ? 分かってんだろうな」


「ええ」


 四月上旬。一月から三月期の数字をまとめ、俺は社長室にいた。


 一月から三月期の上納利益は、前年度同期比二十・四パーセント増。目標だった二十パーセントを、どうにか上回った。


 だが、新年度はそこが基準になる。


 社長の指示は、前年実績に対して二十パーセント増を維持したうえで、さらに五パーセント上積み。計算すれば、今年度目標は前年度比二十六パーセント増になる。


 客の流れが変わり始めた矢先に、軽い数字ではない。


 社長は、コンパニオンや黒服を代弁するように、値引きによる客の呼び戻しを持ちかけた。


「期間限定なら傷も浅い。五百円、千円引けば若いのは戻るだろ」


「戻るかもしれません。ただ、それで来た客は、値段を戻したらまた離れます」


「なら別の手を考えろ」


「考えます」


「脱帽も二輪も、やらん?」


「やりません」


「夜も?」


「やりません」


 社長は葉巻を口元へ運び、しばらく俺を眺めた。やがて火をつけ、紫煙をふっと吐く。


「……二十六パーだぞ」


「承知しています」


「逃げ道、自分で潰してんぞ」


「それでも、御殿のやり方で取ります」


 社長は鼻を鳴らした。怒るでも笑うでもなく葉巻を指先で転がし、しばらくして椅子の背へ深くもたれた。


「お前の思うように、やってみろ」


 俺は一礼した。


 値段も、これまで決めてきた線も崩さず、そのうえで数字を作る。それが俺に任された仕事なら、やるしかなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。