第26話 崩さない一線
1984年3月10日(土) 07:00
一
朝七時。俺はロビーを横切りかけ、七段雛飾りの前で足を止めた。
三月三日は、もう一週間前だ。誰も何も言わなければ、このまま月末まで置かれていそうな気さえする。区切りを付けないのは、どうにも性に合わない。
申し送りの席で、そのまま尋ねた。
「ロビーの雛飾りは、いつ片づけるんですか」
「あれは月曜日に片づけるんっすよ」
西本が、当然のような顔で答えた。
「コンパニオンが早く片付いちゃったら、客も店も困るっしょ」
意味が分からず、中原を見る。
中原は苦笑しながら、口ひげを撫でた。
「下世話な話です。雛人形をいつまでも出していると、娘の嫁入りが遅れるというでしょう」
「ああ……」
「逆ですな。この店では、少しでも長くいてもらわないと困る」
俺はもう一度、ロビーの方へ目をやった。
「店が、コンパニオンの時間を止めるわけですか」
「まあ、そういうことになります。不条理は否めませんね」
冗談として流してよい話なのだろうが、妙に噛み切れないものが残った。
中原が帳面を開く。
「さて、申し送りですが……店長、今月下旬は苦戦を強いられそうです」
「楽天地門外の新興サロンですか」
「ええ。若い学生客が、少しずつ減っています」
雛人形ではないが、客層ごとに時季の上振れ要因がある。
高齢層なら年金受給日前後。学生なら長期休暇の後半だ。休みに入ってからバイトで稼ぎ、その金で少し背伸びをする。例年なら三月下旬にも、そういう客が一定数来る。
「今年は、その上積みを見込まない方が良さそうですね」
「でしょうな」
致命的ではないが、これまで通用していた読みが外れ始めた以上、こちらも軌道修正しなければならない。
「アイツら、何でもアリアリっすから。ムチャしやがる」
「西本さん」
「はい」
「ウチは、ウチのやり方を検証して、磨くだけです」
西本は一瞬口をへの字にしたが、すぐ頷いた。
「了解っす」
そちらへ流れてはいけない。
二
――三月下旬。
学生客の入りが、目に見えて消えた。
もともと季節性の浮動客であり、毎月の基礎売上を支える層ではない。それでも、例年なら来ていた客が来なくなると、数字以上に空気が変わる。
黒服もコンパニオンも、予約表の空きを見る回数が増えた。
「店長、中原さん。……ツレが行ったらしいんですよ、新興サロン」
西本が、申し送りのあとで声を潜めた。
俺が止めようとすると、中原が片手をわずかに上げた。
「ほう。それで?」
「一時間でコンパニオンが二人。その二人とも脱帽で、注射だったらしいっす」
「それで、コンパニオンの一人は女子大生でもう一人は――」
「もういいです」
俺はそこで話を切った。
「探りに行っても、誰かを行かせてもいけません。噂も広げないようにして下さい」
「了解っす」
西本は素直に引き下がり、来客対応へ戻った。
その背中を見送りながら、中原が苦笑する。
「アイツが直接行ったわけではないでしょう。そこは勘弁してやって下さい」
「怒ってはいません。競業への偵察は、リスクが高すぎます」
「スパイは当然として、スカウト行為とも取られかねませんからね」
「ええ。それに、黒服やコンパニオンたちへ比較させたくない」
中原が俺を見る。
「比較?」
「未成年使用、深夜営業、衛生問題。何をやれば客が来るか、それだけで比べ始めたら、線はすぐに消えます」
売上も客数も大事だが、そのために御殿で決めたものを、こちらから崩してしまっては意味がない。
三
――四月。
新年度に入る頃には、学生客はほとんど来なくなっていた。さらに、二十代の常連客まで、少しずつ足が遠のき始めた。
御殿の中心顧客は四十代と五十代だから、まだ致命傷ではない。ただし、働く側の目に映る景色は違う。
「店長……私たち、少しは協力しますから、値引きを……」
「回転とか、二輪を始めた店もあるって言うし、ウチでも……」
「ええやん、店長っ。ウチもお姉さんとペアで脱帽――」
「アホか、あやちゃん。黙っとき」
不安を口にする者が増え、そのたびに俺は話を聞き、同じ説明を繰り返した。
衛生優先は変えない。回転、二輪、脱帽を店の仕組みにはしない。法令遵守も変えず、夜間営業も店としてのアフターも行わない。
これまであった上振れが消えただけで、現時点では地盤沈下と断じる数字ではない。
黒服たちもコンパニオンたちも、頭では分かってくれているようだったが、完全に納得している顔でもなかった。
閉店作業後、俺は事務所で業界紙をめくった。
「短期決戦で稼いで撤退。……ウチは屋台じゃないんだ」
新興サロン、個室按摩、鑑賞室、脱衣カフェ。ここ数年で登場した「軽め」の新興業態についての記事が並んでいる。
遊郭の流れを引き継ぐ楽天地門内の店と違い、伝統も古いしがらみもない。飲食店やマッサージ店といった曖昧な看板を掲げ、そこから垣根を越えてくる。
中原も隣から紙面を覗き込んだ。
「来年に見込まれる法改正が、潮目になるでしょうな。新興勢は、やり方が荒っぽい」
「それまでに稼げるだけ稼ぐ、ですか」
「そう見えます」
俺は紙面を閉じた。御殿ではそんな商売はできないし、やるつもりもなかった。
四
「ったく、公児よ。お前も硬いな。カ・タ・い」
「ええ。この点は、線引きをきっちりとします」
「値引きくらい使え。客が戻るまでだ」
「一度値段を崩せば、戻すのに苦労します。そこは押さえます」
「はっ。『衣食足りて礼節を知る』だぞ? 分かってんだろうな」
「ええ」
四月上旬。一月から三月期の数字をまとめ、俺は社長室にいた。
一月から三月期の上納利益は、前年度同期比二十・四パーセント増。目標だった二十パーセントを、どうにか上回った。
だが、新年度はそこが基準になる。
社長の指示は、前年実績に対して二十パーセント増を維持したうえで、さらに五パーセント上積み。計算すれば、今年度目標は前年度比二十六パーセント増になる。
客の流れが変わり始めた矢先に、軽い数字ではない。
社長は、コンパニオンや黒服を代弁するように、値引きによる客の呼び戻しを持ちかけた。
「期間限定なら傷も浅い。五百円、千円引けば若いのは戻るだろ」
「戻るかもしれません。ただ、それで来た客は、値段を戻したらまた離れます」
「なら別の手を考えろ」
「考えます」
「脱帽も二輪も、やらん?」
「やりません」
「夜も?」
「やりません」
社長は葉巻を口元へ運び、しばらく俺を眺めた。やがて火をつけ、紫煙をふっと吐く。
「……二十六パーだぞ」
「承知しています」
「逃げ道、自分で潰してんぞ」
「それでも、御殿のやり方で取ります」
社長は鼻を鳴らした。怒るでも笑うでもなく葉巻を指先で転がし、しばらくして椅子の背へ深くもたれた。
「お前の思うように、やってみろ」
俺は一礼した。
値段も、これまで決めてきた線も崩さず、そのうえで数字を作る。それが俺に任された仕事なら、やるしかなかった。




