第24話 ○と△のあいだ
1984年1月17日(火) 09:30
一
「どうも。あかね中央警察署の保安課です。昨年の一斉捜査の関係で、営業の実態を少し確認させていただきたい。責任者の方、お願いします」
午前九時半。中原、黒服たち、それに俺が開店作業を終え、事務所でちゃんこ鍋の準備をしていたところへ、所轄署の刑事が二人やって来た。
一人は五十がらみの小柄な男、もう一人は二十代後半の大柄な男。以下、前者をオッサン、後者をアンチャンとする。
中原が、俺の耳元で声を落とした。
「押さえに掛かっているわけではないでしょう。本気なら、営業中に来ます」
俺は頷き、エプロンをしたまま包丁を置いてロビーへ出た。
「俺が店長の田中です」
オッサンが、俺の腹のあたりへ目を落とした。
「……前掛け。何をされてましたかな?」
「黒服たちと一緒に、ちゃんこ鍋で腹ごしらえを」
「朝っぱらから、ちゃんこですか。まるで相撲部屋ですな」
「寒いので」
「なるほど」
納得したのかどうかは分からない。
アンチャンが店内を見回した。
「中を見せてもらえますか」
「どうぞ。小野寺さん、お願いします」
小野寺は少し緊張した顔で頷き、西本を伴って案内に立った。アンチャンが二人についていき、オッサンはそのまま事務所に残る。
「まったく、慌てる風がないですな」
「……そうですか」
「普段から、何かあったときの話でも?」
「特には。ただ、店の決まりは黒服も把握しています。コンパニオンにも必要なことは伝えています」
「店の決まり?」
「業務マニュアルです」
オッサンの眉が、わずかに動いた。
「拝見できますかな」
「ええ」
棚から一冊取り出して手渡した。
清掃、備品管理、接客上の決めごと、金銭の取り扱い、衛生管理。それに事故や揉め事が起きたときの連絡手順まで、十二月に皆でまとめたものだ。
オッサンは一枚ずつページをめくり、「衛生管理」の項目で手を止めた。
「上手いこと作っとられますな」
「何か」
「『性病の予防を最優先とすること』。……どうやって予防するかは書いていない」
「と、おっしゃいますと?」
「『ゴムを使え』まで書いたら、店がそこまで指図してることになりますからな」
「法律を守る。それが大前提ですから」
オッサンは鼻を鳴らし、もう一度ページをめくった。
「これは、アンタが作ったんですか」
「文案は俺です。ただ、中原さんと黒服たちにも手を入れてもらいました。コンパニオンにも読んでもらっています」
「皆で?」
「はい」
しばらく冊子を眺めたあと、オッサンは表紙を閉じた。
「……コピーを一部、頂けますかな」
「どうぞ。控えがあります」
余分に作っておいた一冊を差し出すと、オッサンは中原へ目を向けた。
「最初から、こういうものを見せるつもりで?」
「必要になるかもしれない、と私が言いました。長くおりますので」
「なるほど」
二
二十分ほどして、アンチャンが戻ってきた。
「客室、待機室、倉庫。一通り見せてもらいました」
「どうだ」
「見た限り、構造で気になるところはありません。営業の様子は、まだ時間前なので何とも」
オッサンが頷く。アンチャンが俺を見た。
「営業関係の書類も、差し支えない範囲で見せてもらえますか。届出関係、従業者の一覧、出勤簿。それから、売上や経費の帳簿があれば」
「分かりました」
俺が立つより先に、中原が動いた。棚や引き出しから必要な書類を取り出し、机の上へ並べていく。
アンチャンが俺と中原を交互に見た。
「田中さんが店長でしょう」
「そうです」
「帳簿は、こちらの方も見られるんですか」
「毎日見てもらっています」
「黒服に?」
「チーフです。互いに見られて困るものもありませんから」
俺が答えると、アンチャンは小さく鼻を鳴らした。
「へえ……」
売上台帳、出勤簿、経費台帳。日付を前後させながら数字を照らし合わせていく。ほとんどメモを取らず、必要なところだけ指で押さえて確かめていた。
やがて、中原へ質問を始めた。
「勤務時間は?」
「基本はこちらです」
「歩合は?」
「現在は五十五パーセントです」
「本指名料は?」
「本人へ全額です」
「新人の研修は誰が?」
「基本は先輩のコンパニオンです。黒服が実技に関わることはありません」
「嫌がる仕事をさせたりは?」
「ありません」
同じ内容を少し言い換えて確かめる質問も混じる。中原は余計な説明を加えず、聞かれたことだけに答えた。
一通り終えると、アンチャンは帳簿を閉じた。
「数字は、いま見た限り合ってます。書類同士にも、大きな食い違いはない」
「そうですか」
アンチャンがオッサンを見ると、オッサンは小さく頷いた。
「コンパニオンの方にも、お話を伺えますかな。もちろん、差し支えなければ」
「構いません」
俺も頷いた。
アイツでなければ、問題ない。
三
「店長! 中原さんっ! おはようさん!」
「もう、あやちゃん。うるさいねん、朝か……ら……」
十時前。出勤一番乗りは、そのアイツだった。
あや。そして、みほを連れている。
みほは事務所にいる二人を見た途端、表情を変えたが、あやはいつもと変わらなかった。
オッサンが手元の紙を見た。
「ええと……源氏名みほさん。川本由美さんでよろしかったですな」
「はい。川本です」
「こちらが、あやさん。倉橋亜美さん」
「オジサン、警察の方ですかぁ?」
「あやちゃん、アンタはっ!」
みほが慌ててあやの腕を引いた。
「すんまへん、刑事さん」
「いやいや」
オッサンは苦笑する。
「お二人に、普段の仕事について少し聞かせてもらえますかな」
「はい」
「はーい」
「では、普段の接客の流れを、そのままご説明ください」
二人はオッサンを連れ、事務所を出ていった。
あとは、みほを信じるしかない。
十五分ほどして三人が戻ってきた。あやは相変わらず笑っているが、みほは少々むっとしており、オッサンはなぜか苦笑を浮かべている。
「元気のいいコンパニオンさんですな」
「え、ええ……」
「お二人の話は、だいたい一致してました。店の決まりについても、同じことを仰っていた」
「そうですか」
少しだけ肩の力が抜けた。
みほが俺を見る。何やら言いたげだったが、いま聞く話でもないだろう。
オッサンが帰り支度を始めた、そのときだった。
事務所の掲示板の前で、足を止める。
四
「そう言えば……何ですかな、これは。手書きですな」
「ああ。業務マニュアルを作る前に、俺が書いたものです」
「骨子のようなもの?」
「そんなところです」
掲示板には、十一月に書いた紙がそのまま残してある。
営業上の健全:
○ 法令遵守
○ 明朗会計
○ 衛生管理
○ 強要しない
○ 秘密保持
社会上の健全:
△ 後ろめたさを、増やさない。
オッサンは上から順に読み、最後の一行で目を止めた。
「上の五つは、マニュアルにもありましたな」
「はい」
「これは全部、○」
「守るべきことですから」
「で、こっちは△」
指先が、三角の印の横で止まる。
「後ろめたさ。ありますかな」
「あります」
俺は答えた。
「法律を守るのは、前提です」
「前提」
「でも、それだけで胸を張れる仕事だとも思っていません」
「……ほう」
「だから、○とは書けませんでした」
オッサンはもう一度、掲示板へ目を戻した。
「それで、△」
「はい」
「×ではなく?」
「今より悪くしないことは、できると思っています」
そう答えてから、自分でも少し考えた。
「働く人が、今以上に後ろめたくならないようにしたい。それだけです」
オッサンは何も言わず、しばらく△を見ていた。やがて「なるほど」とだけ言い、アンチャンへ目配せする。
マニュアルの控えを鞄へ収め、二人とも立ち上がった。
「今日はどうも。ご協力、ありがとうございました」
「いえ」
「また、お話を伺うこともあるかもしれません」
「分かりました」
オッサンが一礼する。俺も頭を下げ、二人が事務所を出て扉が閉まるまで見送った。
そこでようやく、中原が息を吐いた。
「……朝から疲れましたな」
「そうですね」
「店長」
みほの声に振り返る。
彼女は掲示板の前に立っていた。
細い指で、△をなぞる。
「△は……いつまでも、△やね」




