第23話 御殿の決めごと
1983年11月12日(土) 07:45
一
「うわっ……店長、ここで寝てました?」
「……へっ? いま何時?」
「何時? じゃないっすよ。汚ったないなぁ……よだれまみれっすよ?」
何という醜態だ。
中原には二度ほど起こされたことがあるが、西本に起こされたのは初めてだった。それも七時四十五分。朝の申し送りまで、あと十五分しかない。
慌てて事務所のシャワーを使い、体裁を整えた。八時ぎりぎりには、中原も駆け込んでくる。
「何すか、店長。部下に示しがつかない。そう思いませんか」
「……西本さんの言われる通りです。すみません」
「中原さんも中原さんです。二人で閉店作業後に何やってるんですか?」
「いやな、小野寺さん。その、店の運営について、店長と打ち合わせだ」
「鍋……つつきながらですけど」
中原は、阿呆を見るような目で俺を見た。
寝不足が続くと、頭は正常に働かない。俺は夜ごとの「反省会」を黒服たちへ白状する格好になった。
「鍋? あはは。事務所で鍋っすか」
「所帯じみてますね……はは、息が……」
ひとしきり笑われたあと、小野寺がようやく息を整えた。
「店長。晩飯食ってすぐ寝て、そこへ酒も入れる。体に良くありませんよ。むしろ朝に打ち合わせされたらどうです?」
「……朝」
「俺たちも混ぜてほしいっすよ。朝鍋」
翌朝から、「朝食ミーティング」が始まった。
寒さも増してきたので鍋は好評だった。開店前、黒服たちと中原、それに俺で鍋を囲み、店の話をする。雑談も混じった。
「じゃあ、こうしたらどうっす?」
黒服たちは、現場の不便や改善案を口にするようになった。的を射たものも少なくない。中原はすぐに否定せず、俺も理由が分かるまでは否定しない。
(前に読んだ、自動車会社の本に少し似てるな)
(「自働化」とか「ジャスト・イン・タイム」とか。異常があればすぐ分かるようにして、必要なものを必要なときに流す)
鍋の向こうでは、西本と小野寺がメンテナンス順について言い合っている。
(考え方だけなら、近いのかもしれない)
(……規模は違いすぎるけど)
俺は一人、苦笑した。
二
十一月十七日、午前十一時。
あかねロイヤル興業の一斉捜査から、一週間が経った。その間、中原や黒服たちは、コンパニオンたちの不安をなだめてくれていた。
そろそろ、店長として俺の考えを示すべきだろう。
「みなさん、今日は少しだけ、俺の考えを話させて下さい」
朝礼に並ぶ顔を見回す。
「まず、御殿は法律上、健全な店です。そこは、ご心配なく」
誰も何も言わない。
法律を守っていても、世間の視線まで消えるわけではない。ここにいることを、誰にでも話せるとは限らない。
「俺は、みなさんや黒服、それに俺自身へ、胸を張れとは言えません。だから……俺たちが、今後これ以上、後ろめたくならない方法を考えたい」
「店長、どんな方法なんですか?」
「法令は、いま守っているものを、これからも守る。それだけです。ただ、いま問題がないからといって、先も同じとは限りません」
一度、言葉を切った。
「強要しない。秘密を外へ出さない。衛生上の決まりを守る。そういう、店として守るべきことを『決めごと』にします。年末までにお知らせします」
「決めごと……ですか?」
「はい。後ろめたく感じることは、人によって違います。俺が勝手に決められることでもありません。みなさんと話をして、少しでも増やさない方法を考えます」
あやが手を挙げた。
「店長。人の心、規定できひんよね?」
「……そうですね」
「解決できひんことの方が、多いんちゃう?」
借金。家族。客との関係。仕事そのもの。紙に書けば片付くことばかりではない。
「……それでも、放置しません」
あやは俺を見たまま、何も言わなかった。
「以上です」
朝礼を終える。
あとは、公表したことを履行するだけだ。
三
「店長、日本語勉強しました? ニホンゴ」
「高卒っすよね? 俺ら中退組に分かる言葉でお願いしますよ」
「お前らなあ。勉強が足らないだけだぞ」
「ひっでぇ……中原さんも中卒なのに」
俺たちの立ち位置で学歴争いをしても、実に不毛である。
最初は、強要しないこと、秘密を守ること、衛生上の例外を作らないこと。それだけを「決めごと」にするつもりだった。
ところが話を詰めるうちに、日々の業務も整理しようということになった。作業動線、部屋の回し方、備品の置き場所、異常時の報告手順。結局、一冊の業務マニュアルにまとめる。
役割分担も決まった。俺が文案を作り、中原が分かりやすい言葉へ直す。黒服たちが現場目線で手を入れ、まとまったところでコンパニオンたちにも読んでもらった。使いにくい、言い方がきつい、現場ではそうならない。そうした意見が出るたび、また直した。
「この作業、こっちを先にした方が取り回し良いっすね」
「分かりました」
「この言い方、コンパニオンに角が立つっすよ」
「角が立ちますか」
「立ちます。怒られるパターンっす」
「……では、直しましょう」
俺一人なら、相当に使いにくいものになっていただろう。
文章だけでは分かりにくいところには、挿絵も入れることになった。試しに俺もフロア図を描いてみる。
「あっちゃぁ……店長。それ、どこかの魔宮っすか」
「フロアの半分も階段が占めてないでしょう?」
「いや、そこだけじゃなくてですね……」
返す言葉もなく俯いていると、西本が中原の図を覗き込み、目を丸くした。
「中原さん、上手いっすね。画伯ってやつっすか?」
「昔取った杵柄だよ。町工場で製図ばっかりやらされててね」
俺も覗き込む。線はまっすぐで、寸法も正確だった。
「……中原さん」
「はい?」
「挿絵、お願いします」
「ええ。そうなると思ってました」
俺の些少のプライドと引き換えに、マニュアルは着々と形になっていった。
四
十二月十八日。
とうとう、御殿の業務マニュアルが完成した。
机に綴じたばかりの冊子を並べると、西本が一冊を手に取った。
「すっげ……店長、なんか普通の会社みたいっすね」
「普通の会社ですよ、御殿も」
西本が一瞬、俺を見る。
「……そうっすね」
翌日の朝礼では、数冊を待機室へ配備した。俺が頼んだわけでもないのに、小野寺が冊子を掲げる。
「来年から、みなさんと一緒に、これを守っていきましょう」
コンパニオンたちは、ざわめきながら冊子を回した。
「へえ……こんなんまで書いてある」
「中原さん、この絵、上手よね?」
「これ店長ちゃう?」
「あやさん、店長のは使えないっす」
「なんで言うんですか」
笑いが起きた。
それでいい。
俺一人で作ったものではない。誰か一人のものでもない。御殿で働く人間が、使うために作ったものだ。
十二月三十日、午後六時。
待機室の前を通ると、棚に置いたマニュアルの一冊は、もう角が少し折れていた。誰かが何度も開いたのだろう。
冊子の端を揃え、そのまま喫煙所へ向かう。
みほが壁にもたれ、紫煙をくゆらせていた。
「おつかれさまです」
「店長も、おつかれさん」
今年は寒いだの、年末は忙しいだの。しばらく取り留めのない話をしたあと、みほが煙草を灰皿へ押しつけた。
「来年は、もっとええ年になるやろかな」
「……そうですね」
みほは微笑んだ。
「良いお年を」
「はい。良いお年を」
小さく会釈し、そのまま通用口から出ていく。
俺は閉じた扉を見た。
大阪に……帰省するのかな。




