第22話 健全のものさし
1983年11月11日(金) 07:30
一
「店長、中原さんっ! 『あかねロイヤル興業』、ガサっす!」
「静かに。野次馬、噂、一切禁止です。すぐ店内に徹底してください」
「はいっ!」
朝七時半。西本が泡を食って事務所へ駆け込んできた。
中原は椅子から立ち上がるより先に指示を飛ばした。俺も頷き、まず礼を言う。
「ありがとうございます。事実確認が先ですね」
「ええ。しかし、ロイヤルですか……」
中原は口ひげをさすった。
「あかね楽天地全体へのローラーも、考えておいた方がいいでしょうね」
「誰が、何の容疑で、どこまでやられたのか。まだ何も分かりません」
「だからこそ、厄介です」
あかねロイヤル興業。我々あかねナイトグループとは別系列だが、社長の稼業上の係累にあたる。大阪から勢力を広げてきた新興で、価格攻勢とサービスを武器に、あかね楽天地へ食い込んできた。
何があったのか分からない。分からないままなら、人は勝手に続きを作る。
案の定、朝礼ではその話が広がった。
「ウチは大丈夫なんですか?」
「警察が動いた理由って、何なんでしょう」
「急に営業止められたり、せえへんよね……」
対岸の火事ではない。それでも、分からないことまで御殿へ当てはめても仕方がない。
「現時点では何も分かりません。だから、それ以上のことは言えません」
できるだけ普段と同じ声で答え、並んだコンパニオンたちを見る。
「ただ、守るべきものは守っています」
みほが小さく鼻を鳴らした。
「その……店長の言わはる『守るべきもの』って、何ですのん?」
「……」
「信用せえへんわけやないんです」
みほはまっすぐ俺を見た。
「せやけど、警察や言われたら……やっぱり、不安ですねん」
俺は静かに頷いた。
分からないなら、分かる人間に聞くしかない。
朝礼の締めを中原へ任せ、俺はプラチナムへ向かった。
二
「公児ぃ。ケツが座ってねえな」
「……立ってますから」
「誰が面白いこと言えって言ったコラ」
「採るべき対策のお伺いに参りました」
プラチナム最上階、社長室。
社長は絨毯をグリーンに見立て、パットの練習をしていた。こちらを見もしない。
「で、ワシにどうしてほしい」
「取締りを受ける可能性があるなら、事前に確認と対策をしたい。そのお許しを」
社長がパターを振り抜いた。
ブンッ、と鈍い風切り音がして、ゴルフボールが低いライナーのまま窓下の腰壁へぶつかった。黒檀張りの板には、同じようなへこみがいくつも残っている。
「バカ野郎! ウチは健全だ。要らんことすな、ボケ!」
「その健全が、警察の理解と一致しているかどうかを――」
パターのヘッドが、すっと俺の額へ向いた。
「ワシはな。今朝の件で、機嫌が良くて、機嫌が悪い」
「……はい」
「ロイヤルは同じ稼業筋のくせして、ワシの庭場へ足突っ込んでやがった。それが一網打尽だ。胸がすくと言や言い過ぎだが……まあ、近いわな」
「ただよぉ。稼業筋から、まるでワシが密告でもしたみてえな言い掛かりを受けてんだ」
ブンッ!
二球目が腰壁へ突き刺さった。
「そんなチンケな真似する男だと思われてんのが、癪に障る」
「……」
「だから、お前は動くな。探るな。聞き回るな。探偵の真似すんじゃねえ」
「しかし――」
「柄にもなく、だ」
言い切られた。
「店に帰れ。普通に回せ」
「……承知しました」
結局、それだけだった。ウチは健全。社長は、その言葉を疑ってすらいないらしい。
三
「健全……社長、言い切られましたか」
「ええ。それこそ、胸を張って」
閉店作業後。中原と俺は事務所のコンロを机の脇へ移し、白菜、長ネギ、鶏肉を放り込んだ鍋をつついていた。
俺は豆腐を口へ入れ、すぐに顔をしかめる。
「……熱っ」
「急いで食べるからですよ」
中原は器用に豆腐を割り、息を吹きかけてから口へ運んだ。
「黒服もコンパニオンも、程度の差こそあれ、『警察』という言葉には反応します。この稼業なら、なおさらです」
「でしょうね。俺も、一瞬固まりました」
「法令を守る。適正に営業する。それを健全と言うなら、ウチは健全です」
「はい」
中原は鍋へ箸を伸ばし、白菜を取り分ける。
「でも、お天道様と世間様。この二つまで絡めると……ウチは、健全じゃない」
俺は黙って頷いた。
「ウチみたいな店に通うこと自体は、それだけで違法になるわけじゃありません。でも、客の家庭は壊れるかもしれない」
「……」
「コンパニオンにしたって、黒服にしたって、ここを履歴書に書ける職場だと思ってませんよね」
「はい」
「じゃあ、健全って何なんでしょうね」
俺がつぶやくと、中原は苦笑した。
「それを私に聞かれても、困りますよ」
「……ですよね」
「ただ」
中原は火を弱め、残った具材を器へ移した。
「店長は、そういうことを考えるようになったんですね」
「そうですかね」
「ええ。前なら、規定通りならそれで終わっていたでしょう」
言われて、返事に困った。
中原はそれ以上何も言わず、鍋の後片付けを始めた。
「では、お先に失礼します」
「おつかれさまでした」
「店長も、ほどほどに」
中原が店を出ると、事務所には時計の音だけが残った。
四
俺はペンを取り、チラシの裏を表に返した。
考えてもまとまらないなら、まず項目にすればいい。
営業上の健全:
○ 法令遵守
○ 明朗会計
○ 衛生管理
○ 強要しない
○ 秘密保持
ここまでは書ける。
法令は守る。金は明確にする。衛生上の決まりを守らせる。嫌がる者に無理をさせず、客やコンパニオンの秘密を外へ出さない。
だが、その下へ書いたところで、ペン先が止まった。
社会上の健全:
何も浮かばない。
客は家族に言えないかもしれない。コンパニオンも、家族へ仕事を言えないかもしれない。黒服だって同じだ。
だったら、俺たちは何をもって健全と言えばいい。
しばらく考えたが、答えらしいものは出てこなかった。時計を見ると、午前四時を回っている。
「……コーヒーでも買ってくるか」
眠気覚ましに外へ出た。
十一月の早朝の空気は冷たい。自販機で缶コーヒーを買い、プルタブを開けたところで、新聞配達の自転車が店先へ止まった。
「おつかれさまです。もう朝晩、寒いですね」
「ヒッ!」
オッサンが肩を跳ね上げた。
「……暗がりから声掛けるなよ。幽霊かと思ったぜ」
「すみません」
「いや、こっちもボーッとしてた」
オッサンは、はにかむように笑いながらポストへ新聞を差し込んだ。
「本当によ。この季節になると、着込んでも着込んでも足らねえ。春までは、配り終えるまでお天道様も拝めやしねえ」
「そうでしょうね」
「因果な仕事だわさ。いまさら、他にできることもねえしな」
そう言って自転車へ跨がり、走り去った。
愚痴の多い新聞配達だな。
俺は後ろ姿を見送りながら、缶コーヒーを一口すすった。冷えた身体に、熱が落ちていく。
お天道様。世間様。因果な仕事。
答えそのものではない。けれど、何となく一つだけ書けそうな気がした。
事務所へ戻り、もう一度ペンを取る。
社会上の健全:
△ 後ろめたさを、増やさない。
ペンを置いた。
そのまま机へ突っ伏した。




