第19話 違和感の理由
1983年8月19日(金) 11:05
一
お盆が明け、店にも活気が戻ってきた。
売上、回転、指名率、いずれも悪くない。帳簿を見れば、御殿は安定していると言ってよかった。
ただ、みほのつぶやきを聞いてから、俺の中には妙な引っ掛かりが残っていた。
店長として、何が正解だったのか。
数字なら、基準がある。売上も経費も回転率も、比較すれば良し悪しが分かる。だが、人間相手となると、どうにも勝手が違う。
何でも参考になるかもしれないと思い、俺は街の本屋へ出かけた。「店舗運営」「人心掌握」「会話術」、ついには「女性の口説き方」まで、目についたハウツー本を何冊も買い込み、寮で片端から読んだ。
(まずは……雰囲気の把握、か)
翌朝、さっそく試してみた。
朝礼に並ぶコンパニオンたちの表情を、一人ずつ注意して見る。口調、声の高さ、目線。書いてあった通り、相手の目も意識して見ることにした。
「どうしたんですか、店長? 私、顔に何かついてます?」
「いやだ、そんなまじまじ見ないで下さい」
「店長……目つき、ちょっと怖いですよ?」
どうもおかしい。
俺としては観察しているだけなのだが、こちらが見るほど、向こうは落ち着かなくなるらしい。
そして、あやが俺をしげしげと見返した。
「店長。何、誰彼かまわずコナかけてますのん?」
「……コナ?」
「そない見つめられたら、勘違いしますやん。サービスで見せてあげましょか? 思い出してオカズにしぃ」
ロビーがどっと沸いた。コンパニオンたちだけではない。中原も、小野寺も、西本も、笑いをこらえている。
「あやちゃん、ええ加減にしいや」
みほがたしなめたが、その口元まで歪んでいた。
完全な失敗だった。
(相手の目を三秒見る、と書いてあったよな。長かったのか?)
いや、まだ一冊目だ。めげるには早い。
今度は「フレンドリーな雰囲気づくり」を試した。続く数日、俺はコンパニオンや黒服たちに、意識して笑顔で応対することにした。
「……店長、この頃おかしくないですか?」
「何だか、ぎこちないというか……むしろ怖いです」
「すみません、店長。俺ら、何か失敗したなら先に教えていただけませんか」
また裏目に出た。
あやが、今度は妙に真剣な顔で俺を覗き込む。
「店長。もしかして……」
「……もしかして?」
「発情期と違いますかぁ?」
「違います」
「あきまへんよ。誰彼見境なしは」
その日の閉店後、俺は事務所の机に突っ伏しかけた。
どうしてこうなる。
結局、中原に慰められながら、ジョニ黒とピスタチオで反省会になった。
二
「雰囲気の把握だの、フレンドリーな雰囲気だの……一体、何をなさってたんです」
「ハウツー本を読みましてね。何冊も。全然役に立ちませんでした」
中原はピスタチオの殻を割りながら、浅くため息をついた。
「店長。雰囲気なんて、無理に読んだり作ったりしない方が良いですよ」
「……へっ?」
「店長は、ご自分が『おかしい』と感じたことの理由を突き詰めればいいんです」
「おかしいこと?」
「ええ。店長が引っ掛かるところには、だいたい何かありますから」
人の顔色を読むのではなく、自分が違和感を覚えた場面から考えろ、ということらしい。
半信半疑のまま、やってみた。
数日もすると、中原の言いたいことが少し分かってきた。
朝礼で連絡事項を伝えたとき、返事そのものは同じでも、反応には僅かな差がある。あやの軽口に対する笑いも、全員が同じではない。すぐ笑う者もいれば、一拍遅れて笑う者もいる。
待機室が、妙に静かになる時間もあった。目立った対立があるわけではない。それでも、居心地が良い静けさとは少し違う。
何かがおかしい。
ただし、理由が分からないうちは触らない。
黒服から上がってくる報告にも変化があった。
「問題ありません」
問題がないのは良いことだ。だが、それだけで終わる報告が以前より増えている。誰が何をして、どう収まったのかという話が抜け、妙に薄い。
(俺が、何か言わせにくくしているのか?)
思い当たる節はなかった。
だから、すぐには何もしない。見る。待つ。理由を探す。それだけにした。
三
「店長、飲みすぎはいけません。今日はラーメンにしましょうか」
お盆から数回目の反省会で、中原は事務所の簡易キッチンに鍋をかけた。俺は冷蔵庫にネギがあるのを思い出し、包丁を取る。
トン、トン、と一定の間隔で刻んでいると、中原が横目で手元を見た。
「……店長。性格が出てますね、ネギの刻み方に」
「そうですかね」
「寸分たがわぬ、ってやつです。ゆっくりですけど」
「……ははは」
三十八手前の優男が夜中にインスタントラーメンを湯がし、その横で二十三の大男が几帳面にネギを刻んでいる。傍から見れば、相当妙な光景だろう。
いつしか反省会は、酒を飲むだけではなく、こうして簡単な夜食を作る時間になっていた。
その合間にも、俺は店を見るようになった。
平均の回転数は維持しているのに、特定の部屋でだけ回転が落ち、そのたびに黒服が慌ただしくなる時間がある。部屋割りを少し変えてみると、それだけで収まった。
延長にも偏りがあった。全体では適正範囲だが、特定の時間帯と、特定のコンパニオンへ集中している。
本人を呼んで理由を問いただす必要はなかった。フリー客の割り振りと出番の時間を少し動かすと、偏りは薄くなった。
(そういうことか)
客、コンパニオン、黒服。三者が作る流れの中で、俺が感じる違和感には、たいてい何か理由があった。
そして、理由が分かったからといって、本人を直す必要があるとは限らない。まだ店の流れに影響していないなら触らず、影響が出たときだけ、原因になっている配置や順番を少し動かす。
人を変えるのではなく、流れを適正に戻す。
それなら、俺にもできる。
ネギを刻みながら、俺は少し笑った。
「ゆっくりですし、寸分たがわぬってやつ……難しいですね」
「店長」
「はい」
「店や人間は、ネギや野菜じゃない。当たり前ですよ」
「……そうですね」
中原との妙な共同作業は、そのまましばらく続いた。
四
それから三週間ほどが過ぎ、九月も半ばに入った。
「店長」
「どうしました、みほさん」
喫煙所で、不意にみほから声を掛けられた。
いつもなら、こちらから声を掛けることの方が多い。みほは壁にもたれ、アイスコーヒーの紙カップを片手に持っていた。
「丸く……なりはったね」
「……丸く、なりましたか」
「うん」
みほは俺を見て、少しだけ目を細めた。
「前は、触ったらケガしそうやった」
「そんなにですか」
「ふふっ」
軽く笑うと、それ以上は何も言わず、喫煙所を出ていった。
俺はその背中を見送りながら、頭を掻いた。
(丸く、か)
閉店作業後、俺はラーメンをすすりながら、中原へその話をした。
「みほさんに、丸くなったって言われました」
「……そうですか」
「はい」
麺をすすり、少し考える。
「異常値の検知精度が上がっただけです」
「異常値……の検知精度?」
「ええ」
中原は一瞬黙り、それから苦笑した。
「難しいことをおっしゃる。でも――」
小さく頷く。
「それは良かった」
ラーメンの熱が、腹に心地よかった。
俺は丼を持ち上げ、残ったスープまでクイッと飲み干した。




