第18話 色と汚れの間
1983年8月14日(日) 08:00
一
今日も今日とて、お盆の夏枯れだった。
稼働見込みは七割。予約台帳には空きが目立ち、黒服との申し送りにも、どこか気の抜けたような空気が漂っている。
「……以上です。夏枯れでも取りこぼしはなし。回転第一でよろしくお願いします」
俺はそう締め、開店作業へ散るよう指示した。
暇なときほど弛緩は出る。客が少ないからといって、掃除も案内も雑でいいわけではない。俺はロビーへ出て、絨毯のブラッシングを始めた。
横を通った中原が、ちらりとこちらを見る。
その後の朝礼も、やはり少し間延びしていた。三月下旬、俺が御殿へ来た頃に比べれば、よほど締まっている。問題は、いかんせん、あやだった。
「以上、回転第一でよろしくお願いします」
「『回転第一で、規定通りに』……ふふっ」
俺の口調と声色を真似ると、コンパニオンたちが堪えきれず笑った。
「似てるけどさ、あやちゃん。いま、それ言う?」
「朝礼中よ? 怒られちゃうわよ」
「大丈夫。……ね、店長? 怒らへんよね?」
いつの間にか、みほだけではなく俺にまで大阪弁を使うようになっている。
「ええ、怒りませんよ。……さあ、戦闘開始です」
この程度なら、目くじらを立てるほどでもない。笑いを残したまま、コンパニオンたちはそれぞれの持ち場へ散っていった。
ただ、一つだけ気になった。
いつもならあやをたしなめるみほが、今日は何も言わなかった。笑ってはいたが、どこか遠いところを見ているような目をしている。
昨夜の言葉が、頭へ戻ってきた。
――はっ……写真やと、ええ女に見えるもんやな。
あのとき、俺は何か答えるべきだったのだろうか。
二
正午きっかり、あやの馴染み客になった「平行移動」さんが来店した。それ以外はぽつり、ぽつり。夏枯れらしい昼番で、ロビーのソファが埋まることもない。
午後四時。客を送り出したみほが、ゆっくりと待機室へ向かっていく。
彼女の客は、還暦を過ぎた男性が多い。いま送り出した客も古希手前だった。
何となく声を掛けようとした。だが、何と言えばいいのか分からないまま、一歩遅れた。
「どないしはったんですか、店長?」
振り返ると、あやが立っていた。
「なんですか、あやさん」
「何か……もの言いたそうに、お姉さん見てはりましたね」
「いつも、あやさんのご指導でお手数掛けてますからね」
口にしてから、自分でも妙な言い方だと思った。
あやは鼻を鳴らし、俺の顔をしげしげと眺める。
「へぇ、どうもすんません。……てっきり、店長」
「なんですか」
「なんでもないですぅ」
にやりと笑って、それ以上は言わない。
「……冷コー、もらえますか?」
「はいはい」
通用口脇の喫煙室へ連れて行き、自販機へ硬貨を入れる。出てきたアイスコーヒーを渡すと、あやは紙コップを覗き込んだ。
「ええー? ブルマンちゃいますの?」
「コーヒーはコーヒーです」
「ケチやなあ」
ちょうど通用口を通りかかった中原が、やんわりと声を掛ける。
「あやさん、ご予約が入りそうですよ。ほら、戦闘準備」
「はぁい」
あやはアイスコーヒーを持ったまま、中原に押し出されるように喫煙室を出ていった。中原は俺へ微笑み、その後を追う。
扉が閉まったあと、俺は一人、自販機を見た。
(……何をやってるんだ、俺は)
もう一杯アイスコーヒーを買い、ほとんど味も分からないまま飲み干した。紙コップを握りつぶしてゴミ箱へ放り込み、すぐにロビーへ戻った。
三
夜番に入ると、店は昼より多少活気を取り戻した。長期連休中は若い客も増える。年齢確認を普段以上に徹底するよう黒服たちへ念押しし、俺は事務所へ戻る。
(一番締まってないのは……俺かもしれないな)
帳簿を開くと、また昨夜のことを考えた。
(俺は店長として、何て答えるべきだったんだろう)
今日、何度目か分からない自問だった。
首を振り、数字へ目を落とす。客数、稼働率、本指名。数字を追っていれば、少なくとも答えのないことを考え続けずに済む。
午前零時二十五分。閉店作業を終え、黒服たちが退勤していった。
「中原さん、おつかれさまでした」
「……店長」
「はい」
「一杯、やりませんか」
中原が事務所の棚から瓶を取り出す。
「いつものジョニ黒ですけど」
「……いただきます」
ゆっくりと紙コップへ琥珀色の液体が注がれる。扇風機の風で、机の端に置いた伝票がかすかに揺れた。
「乾き物ですけど、つまみにどうぞ」
中原は缶を開け、チラシを一枚机へ敷く。その上へピスタチオをひとつかみ載せた。
俺は一つ取り、殻を割る。カリッ、と乾いた音がした。
「店長……久しぶりですね。こうやって飲むのは」
「そうですね。三月末……以来ですか」
「ええ」
中原はジョニ黒を一口すすり、少し間を置いてから俺を見た。
「あのときにも言いましたよね。店長……アンタは、きれいすぎる」
四
「……そう、ですか」
「ええ。きれいすぎて、色々と無理をしているようだ」
「無理しているように、見えますか」
「何だか、ご自分を何かの型枠にはめようとしている。そう見えます」
型枠という言葉に、俺は鼻を鳴らし、紙コップのジョニ黒を口へ運んだ。
「そうかもしれません。……童貞が御殿の店長ですから」
中原の手が、ほんの一瞬だけ止まった。
「へえ……童貞でしたか」
「この稼業で実地経験もない。接客される側のことも知らない。店長として、足りないものがあるんじゃないかと」
中原は何も言わず、俺の紙コップへジョニ黒を少し足した。
「それで?」
「はい?」
「オンナを抱いたことがないから、自分は半人前だと?」
事実を確認するような口調だった。
俺は答えなかった。
中原はピスタチオを一つかじり、殻をチラシの端へ置く。
「経験でオンナを知ったつもりになる方が、よっぽど危なっかしいですよ」
「……」
「童貞、いいじゃないですか」
俺はもう一度、ジョニ黒をあおった。
「店長、どうなさいました。……ピッチが速いですよ」
「昨夜、みほさんに聞かれました」
「何をです?」
「『浴衣、艶っぽいと思うか』って」
中原の眉が、わずかに上がった。
「……ほう」
「そう思う、と答えました。そしたら……写真だけだ、と」
息を吐くと、自分でも分かるほど酒臭い。
「俺は……何て答えればよかったんでしょうね」
中原はすぐには答えず、ピスタチオを一つ摘まんで殻を割った。
「私が見るに、みほさんは色がついているだけです」
「……色?」
「ええ」
俺は中原を見る。
「俺だってもう、この稼業で五年半以上、飯食ってます。色がついてないわけじゃない」
「そうでしょうね」
中原は微かに笑った。
「店長。アンタも色はついてるが、汚れてませんよ」
「……その違い、一体何ですか」
中原は少し考えた。
「もがいてるうちは、まだ汚れちゃいませんよ」
扇風機が回り続け、机の上の帳簿が、ぱらりと一枚めくれた。
「店長」
「はい」
「童貞なりの店の回し方、一緒に考えてみましょうや」
俺は中原を見た。
礼を言うのも、何か違う気がした。だから何も言わず、空になりかけた紙コップを差し出した。
中原が笑う。
ジョニ黒が、もう一度注がれた。




