第17話 飾らない感謝
1983年8月13日(土) 10:30
一
あやが入店して、十八日が過ぎた。
本採用になってすぐ生理休暇に入ったので、実働は二週間ほど。それでも、馴染み客がすでに二人いる。
一人は、例の「平行移動」さん。もう一人は、五十絡みの自営業さんだった。
初日こそ、あやは店の回転をガタガタにし、黒服たちを引きずり回した。だが、みほに何か言われたのだろう。それ以降は回転と衛生を考えて接客するようになり、みほを「お姉さん」と呼んで素直に従っている。
大阪出身者が二人になったことで、店内では以前より大阪弁を耳にするようになった。二人で話していると、ときどき何を言っているのか分からない。
黒服の申し送りが終わったところで、中原が俺を呼び止めた。穏やかに微笑んでいる。
「結果オーライ、といったところですね、店長」
「みほさんには、お手数をお掛けしました」
「ええ。昔の姐さん女郎というのも、馬鹿になりませんね。私たち男だけでは、行き届かないところがありますから」
俺が見るかぎり、中原だってコンパニオンたちのあしらいは上手い。プラチナムで黒服をしていた頃のことを考えても、彼ほどの黒服は数えるほどしかいなかった。
「みほさんには、店長から労いの言葉をお掛けになるべきですよ」
それはそうだろうと、俺は黙って頷いた。
中原が、少しだけ笑みを深くする。
「飾っては、いけませんよ」
「……はい」
「ご自身の言葉で、感謝を伝えて下さい」
二
朝礼が始まった。
十一人のコンパニオンがそろい、黒服たちも脇に控えている。このときだけは、ロビーに心地よい緊張感が漂う。
中原が微笑みながら、コンパニオンたちへ封筒を配り始めた。中には、七夕キャンペーンのときに撮った浴衣姿の写真が入っている。
「みなさん、先月の七夕キャンペーンのパネル写真です」
それぞれが封筒を開くと、たちまち声が上がった。
「ねえねえ、私、結構……写真写り良くない?」
「ふふっ、私だって負けてないわよ。ほら」
ロビーが一気に華やぐ。
みほは自分の封筒を開けず、微笑みながら周囲を見回していた。あとで見るつもりなのだろう。
あやは、あちらこちらの写真を覗き込んで回っている。相手の懐へ苦もなく入っていくのは、彼女の得意技らしい。
「ステキ……こんなの、あったんですか?」
「そうよ、あやちゃん。来年が楽しみじゃない? ふふっ」
そのまま、あやはみほの傍らへ移動した。
「お姉さんの写真、見せて下さいよ」
「そんな、見せるほどでもあらへんし」
「イケズなこと言わんと。ええでしょ、お姉さん?」
「しゃあないなあ」
みほは苦笑しながら封筒を開き、写真を取り出してあやへ渡した。
あやはしげしげと見入り、やがて口元を押さえた。
「お姉さん……めっちゃセクシーやん。艶がちがうわ」
「何をアホなこと言うてんの」
「なあ、店長さんもそう思うやろ?」
「……はい?」
「後ろからこう、ギュッてしたいやろ?」
あやは、みほのパネル写真を俺の前へ突き出した。俺は写真より先に、あやを見る。
「あやさん。朝礼ですから、この辺にしておきましょう」
「うわっ、店長さんスカしてる。感じ悪っ……」
「あやちゃん」
みほが横から口を挟んだ。
「店長はアンタのおもちゃちゃうで」
「はぁい、分かりましたぁ」
三
お盆ということもあり、その日の稼働は七割程度だった。コンパニオンたちにとっては、いつもより一、二本分の実入り減になる。
俺は久しぶりに、営業時間中に帳簿を付けていた。
「ねえねえ、店長」
「どうしました、あやさん」
「ふふっ。『どうしました、あやさん』やて。やっぱりスカしてるわ」
ここで「帳簿に集中させてくれ」などと言おうものなら、火に油を注ぐようなものだ。彼女は仕事上の質問を装いながら、とりとめのない雑談へ俺を巻き込もうとする。
「はいはい、あやさん。店長はお忙しいんですよ」
「はぁい、中原さん。堪忍して下さい」
あやは、パタパタと事務所を出ていった。
その後ろ姿を見やり、中原が苦笑する。
「すっかり、珍獣扱いされてますね。店長」
「……珍獣、ですか。ははは」
「あの年頃ですから、店長のようなタイプが珍しいんでしょう」
(あの年頃って、俺はアイツより二歳上なだけですけどね)
俺はげんなりしながら、中原へ苦笑いを返した。
しかし、その日の午後七時。俺のげんなりは、さらに深くなった。
客を見送ったコンパニオンが一人、事務所へ入ってきた。ニヤニヤしながら俺を見る。
「店長、狙われてるんじゃないですか?」
「……狙われてる、と言いますと?」
「あやちゃんですよ」
俺は背筋を伸ばした。また何かやらかしたのかと思った。
「あやちゃん、待機室で店長の話を聞き回ってますよ?」
「え……そうなんですか」
「『ネタの宝庫やねぇ』って。面白そうに。ふふっ」
(それは狙ってるんじゃなくて、面白がってるんでしょう)
四
「休憩、入ってきます」
午後八時。
俺は誰に言うともなく事務所を出た。コーヒーでも飲んで、気を取り直そう。さすがに今日は、少し疲れた。
通用口脇の喫煙所では、誘蛾灯がバチ……バチ……と定期的に音を立てている。足元では、蚊取り線香が細い煙を漂わせていた。
みほが一人、煙草をくゆらせている。
中原に言われたことを思い出した。労いの言葉といっても、気の利いたことは何も浮かばない。飾るなと言われた以上、考えすぎても仕方がないだろう。
俺は自販機へ硬貨を入れ、ブルマンブレンドのアイスコーヒーを二人分買った。
紙カップを、みほへ差し出す。
「……どうぞ」
みほが俺を見る。
「……どうも、おおきに」
「……こちらこそ、ありがとうございます」
みほが一瞬、目を細めた。
「ホンマや……ふふっ」
一口すすって、微笑む。
「……美味しいな」
俺も自分のコーヒーをすすった。
みほは煙草を灰皿へ置き、胸元から封筒を取り出した。朝、配られたものだ。
浴衣姿の写真を取り出し、しげしげと眺める。
「艶っぽい、か……」
小さく鼻で笑った。
しばらく写真を見てから、一拍置いて俺を見やる。
「せやろか?」
ここで否定するのも、妙だろう。
「……そう、思いますよ」
みほは俺を見た。それから、もう一度写真へ目を落とした。
「はっ……写真やと、ええ女に見えるもんやな」
写真を封筒へ戻し、灰皿に置いていた煙草を手に取る。短く吸ってから火を消した。
「九時から一本入ってます」
立ち上がる。
「……さ、仕事や」
俺は、立ち去るみほの背中を見送った。
俯いてコーヒーをすすると、蚊取り線香の煙と残った煙草の煙が混じり、ゆっくりと俺の前を流れていった。




