第16話 店が減ります
1983年7月26日(火) 09:55
一
「おはようございますっ!」
午前十時少し前、開店前のロビーに、場違いなくらい明るい声が響いた。
出勤の早いコンパニオンでも十時半ごろだ。しかも通用口から入れば、そのまま待機室へ向かう。わざわざロビーまで出てきて、これほど元気よく挨拶する者はいない。
「あやさん、今日は体験入店ですからね。気負わないで下さい」
「分かってます、中原さん。行ってきますっ!」
返事を待つでもなく、あやは階段へ向かった。ヒールが段を打つ軽い音が、コツ、コツ、と弾む。手すりにも触れず、身体だけが先へ先へと上がっていく。
中原は、その背中を見送りながら肩をすくめた。
「みほさんに……やんわりと見ていただいた方が良さそうですね」
「……お任せします」
採用した以上、店長としての責任はある。しかし接客の実務へ踏み込めるわけでもない。
しばらくして、みほが通用口から入ってきた。中原が呼び止め、声を落として二言三言話す。
「ウチに、『姐さん女郎』をせえっちゅうことですか」
「お手数ですが……良しなに」
みほは苦笑し、それから俺へ目を向けた。
「店長さん」
「は、はい」
「高こ、つきますよ?」
何と返せばいいのか分からず黙っていると、みほは柔らかく笑った。
「ふふっ、冗談」
俺が頭を掻くのを見届けてから、みほは満足そうに待機室へ向かった。
二
「あのお客さんを……付ける、と?」
「ちょうど良いんじゃないですか」
午前十一時四十五分。中原は予約台帳を眺めながら答えた。
その客は、俺が御殿へ来た初日、正午きっかりに現れた男だった。馴染みのコンパニオンを持たない、いわゆる店付きの常連。俺が勝手に「平行移動」と呼んでいる客である。
中原の見立ては分かる。まったくの新規客よりはいいし、誰かの指名客を新人へ振り替えるのはもっとまずい。店をよく知り、特定のコンパニオンへ執着しない。新人を試す相手としては確かに適任だった。
「……大丈夫ですかね」
「何がです?」
「接客をしくじった場合です。店付きの常連を一人失うことになります」
それに、あの元気印が平行移動に波長を合わせられるのか。
正午きっかりに表の扉が開く。背筋を伸ばし、仕立ての良いスーツを洒脱に着こなし、革靴までいつも通りきれいに磨かれている。
「いらっしゃいませ」
「いつもの」
この「いつもの」は、二時間コースという意味だ。
中原が穏やかに微笑んだ。
「実は、本日初入店のコンパニオンがおりまして」
「へえ」
「業界未経験の二十一歳、ですが」
「任せるよ」
感情の欠片も見せず、いつも通りだった。
黒服が内線であやを呼ぶ。ほどなく階段を降りてきたあやは、すれ違いざま俺へ顔を寄せた。
「行きますよっ!」
「……!」
注意事項が十個ほど頭に浮かんだが、もう遅い。
あやは客へ近づくと、にっこり笑って腕を絡めた。
「あやです。よろしくお願いしますねっ」
「あやさん、ね。こちらこそ、よろしく」
二人がエレベーターへ入り、扉が閉まる。
俺がそこを見ていると、中原が静かに言った。
「案外、上手くいくかもしれませんよ」
「……そうだといいんですが」
三
三時間後、あの客がロビーへ戻ってきた。
俺が知るかぎり、二時間の「いつもの」を延長したのは初めてだ。しかも、ほんのわずかだが足取りまで軽い。
(仏様に……なっとる)
笑っているわけではない。ただ、いつもの無表情から何かが抜け落ちたように、妙に穏やかな顔をしていた。
客はそのまま中原のところへ向かう。
「次も、あの娘で」
「ご指名、ということでよろしいでしょうか」
「ああ。また頼むよ」
「かしこまりました」
来店予約ではない。指名である。
俺は店を出ていく客を呆然と見送った。
「上手く……いったんですかね」
「店長」
中原が渋い顔をする。
「いけません。指導が必要です」
「……はい?」
「延長そのものは結構なんですが、ウチは正午から零時までです。二時間単位なら営業時間をきれいに割れます」
「ええ」
「そこへ三時間を一本入れると、一時間ずれる。同じ部屋を続けて使わせるわけにもいきませんから、次は別の部屋へ回す。そうすると、そちらも一時間ずれるんです」
客が出た部屋にはメンテナンスが入り、次の客は別室へ送る。その前提で二時間刻みに組んだ部屋割りへ三時間を差し込めば、半端な空き時間が残る。
「……厄介ですね」
「ええ。延長は売上になります。ただ、何でも延ばせば良いというものでもありません」
中原の予感は的中した。
その後、閉店までにあやが付いた客は三人。全員が二時間の予定を三時間へ延ばした。
あやが部屋を移るたび、後ろの予約を別室へ差し替える。空いた部屋へ先にメンテナンスを入れ、別の客を移し、その部屋がまた一時間ずれる。二時間なら埋まるはずの枠に、一時間だけの穴が残っていく。
「また三時間っすか!」
「最後に一時間、ハコが余るじゃないかっ!」
「次、三〇二空けろ! 三〇五を先にメンテ入れるぞ!」
黒服たちは大わらわだった。俺も予約台帳と部屋割表を見比べ続けた。
売上は上がっている。客も喜んでいる。あや本人も、朝と変わらず元気いっぱいだ。それなのに、店だけが目に見えて疲弊していく。
閉店後、あやは上機嫌でロビーへ降りてきた。俺は日払いの歩合が入った封筒を渡す。
「おつかれさまでした」
「ありがとうございますっ!」
その場で封筒の中を覗いたあやは、ぱっと目を輝かせた。
「すごいっ!」
「……そうですか」
「明日も、よろしくお願いしますっ!」
意気揚々と通用口から出ていく背中を見送り、中原が肩をすくめた。
「使い減りしないタイプってことは……分かりました」
「……店が減りますよ」
四
翌朝、俺は朝礼を中原に任せ、みほとあやを事務所へ呼んだ。
三人で机を囲み、俺がみほへ目をやる。みほは小さく頷いた。
「あやちゃん。昨日のことやけどな」
「うん?」
「時間配分、ちょっと考えなあかんで。お客さん一人だけやないやろ。次のお客さんもおるし、部屋のメンテもある。三時間ずつやられると、黒服さんが部屋回されへんねん」
あやは不思議そうに首を傾げた。
「せやかて、みんな喜んではったやん?」
「そら、喜ばせるんは大事や」
「やろ?」
にかっと歯を見せる。
「ウチも、めっちゃ気持ちよかったし」
「……そうやな」
みほは苦笑したあと、少しだけ声を落とした。
「それでな。昨日、衛生用具はちゃんと使こたんか?」
「使ったよ」
「四人とも?」
あやの表情が、ほんの少し止まった。
「……最後の人だけ、脱帽した」
今度は、みほの笑顔が消えた。
「あやちゃん、まだピル飲んでへんやろ」
「うん。でも、安全日やったし」
俺は咳払いした。みほがこちらを見る。
ここは、俺の領域だ。
「あやさん」
「はい」
「安全日かどうかは関係ありません。店で認めるまでは、脱帽は禁止です。御殿の決まりとして守ってください」
「……はい」
「接客では、自分の判断だけで例外を作らないように。プロとしてお願いします」
あやは俺を見た。少しは堪えたかと思ったが、次の瞬間には、にかっと歯を見せて笑った。
「分かりましたっ!」
右手を額へ持っていく。敬礼だった。
「店長、気を遣ってもらって、ありがとうございますっ!」
「……はい?」
あやは立ち上がった。
「今日も頑張りますっ!」
俺とみほへ一礼し、そのまま事務所を出ていく。
扉が閉まってからも、俺はしばらくそこを見ていた。何に礼を言われたのか、まるで分からない。
隣で、みほが小さく息を吐いた。
「店長」
「はい」
「しっかりしいや」




