第13話 戻したその先
1983年6月1日(水) 00:45
一
営業時間中に帳簿を触ることがなくなった。今は中原を中心に黒服たちが現場を回している。
店が回るようになった証拠だ。
俺は閉店後の事務所に残り、五月の数字を追った。客数、本指名、仕入れ、消耗品、人件費。数字には、四月からの積み上げが表れている。
六月末まで、あと一か月。
ここで気を抜けば、それまでの積み上げが無駄になる。残る期間で何を詰めるべきかを整理し、帳簿を閉じた。
仕入先や外注先は、バックマージン全廃の申し出を受け入れた。どさくさに紛れて上がった仕切値までは、今四半期まで目をつぶる。
アメニティの詰め替えも効いている。最初は「貧乏くさい」と眉をしかめていたコンパニオンたちも、自分たちの引かれものが減ると、使い切った容器を自分から持ち込むようになった。
新しいことをしたわけではない。仕入先も、コンパニオンも、黒服も、あるべきところへ戻しただけだ。
その日の朝、開店作業前に中原がやってきた。
「店長。来月の七夕キャンペーンですが、いかがしましょうか」
「七夕……キャンペーン?」
「ええ。毎年恒例の」
御殿は和風寄りだ。俺がいたプラチナムは洋風で、七夕を販促に使ったことはない。
「どんなキャンペーンなんです」
「本指名料無料です。期間中だけですが」
なぜ、それを無料にするのか。尋ねようとすると、中原が少し笑った。
「今までなら、今年も同じことをやって終わりだったでしょうね。でも、店の空気も良くなってきましたし」
一度言葉を切り、中原は俺を見た。
「もう一段、上にあげたい……ですよね」
良い傾向だと思った。中原が、自分から改善を考え始めている。
「企画を考えてもらえますか」
「ええ」
「では、金曜日の午後に聞かせてください」
「分かりました」
中原は静かに頷き、そのまま黒服たちを呼び集めた。
さて、どんなものを持ってくるか。
二
金曜日の午後二時、中原が企画書を持ってきた。かしこまった書類ではない。チラシの裏に細かい字でびっしりと書き込まれたメモだった。
「考えたのは三つです。新規来店、再来店。それと、コンパニオンの士気ですね」
まずは例年どおり、本指名料を無料にする。
「これは常連さんも認識してますから、変えたくありません。去年より条件が悪くなったと思われるのも避けたいですし」
「分かりました」
次に、中原は「ご紹介カード」と書かれた箇所を指した。期間中に来店した客へカードを渡し、それを持って初めて来た客には割引。紹介した側には、人数分だけ次回以降の本指名料を無料にするという。
「どうですかね」
「悪くありません」
効果は分からない。この店へ来ていることを知人へ話す客ばかりではないし、馴染みのコンパニオンがいる店へ他の男を誘うことに抵抗を持つ客もいるだろう。それでも、大きな費用はかからない。
「三つ目は?」
中原が少しだけ言いよどんだ。
「コンパニオンの協力に……少し、報いてやってほしいですね」
例年、七夕期間中はコンパニオンが自前の浴衣で接客する。それは変えず、期間中だけ歩合を少し上乗せする。そうすれば浴衣を新調する者も、馴染み客へ手紙を出して自分から呼び込む者も出る。
「なにより、本人たちの実入りになりますから」
かなり攻めた案だが、筋は通っている。
「分かりました。予算はこの範囲なら構いません。営業に支障が出ないようにしてください」
「はい」
そこで、社長の言葉が頭に浮かんだ。
音頭取り。
中原に考えさせ、予算を認めただけで、それをしたことになるのだろうか。
俺は財布を取り出し、中から札を抜いて十五万円を机へ置いた。
中原が目を瞬いた。
「……店長?」
「これも使ってください」
「これって」
「俺のです」
中原が、わずかに身を引いた。彼は店の財務を見ている。俺の給与も知っている。
「よろしいん……ですか?」
「女物の浴衣がいくらするのか知りませんので。足りなければ言ってください」
「いや、そうではなく」
「コンパニオンたちに使ってください」
中原は黙った。
「投資です。目標を達成すれば、みなさんにも、俺にも返ってきます」
十五万円を押し出すと、中原はしばらく札を見たあと、ゆっくり手を伸ばした。
「……分かりました」
三
それからは、中原をはじめ黒服たちが動いた。通常営業を回しながら七夕キャンペーンの準備を進め、必要なことだけ俺へ確認しに来る。俺はほとんど口を出さなかった。自分で動いている部下を、いちいち止める必要はない。
コンパニオンたちも側面から加わった。馴染み客へ手紙を書き、便箋を選び、封筒へ宛名を書く。何通もしたためている者もいた。
和菓子や短冊の手配も進み、黒服もコンパニオンも願い事を書いて中原へ渡した。
ある日、中原が俺の机へ短冊を三枚置いた。
「店長も書いてやってください」
「三枚も、ですか」
「一人一枚だと、枚数が少なすぎて景気が悪いんですよ」
「そういうものですか」
「そういうものです」
三枚を前に、俺は少し考えた。どうせ飾り物だし、誰が何を書いたかまで見る者もいないだろう。ごくありきたりな願い事を書いて、中原へ返した。
六月最終週の火曜日には、ロビーの観葉植物が姿を消し、代わりに大きな笹が立った。金曜日からキャンペーンが始まる。
短冊や飾りが増えるたび、普段とは違う空気になった。来店した客が足を止めた。
「へえ。今年はまた、例年以上に張り切ってるね」
「恐れ入ります。ぜひ期間中にもお運びください」
中原がチラシを差し出すと、客は楽しそうに眺め、そのまま奥へ消えていった。
俺はその様子を確認して事務所へ戻った。
六月の上納利益は、二十パーセント増近くで着地する見込みだ。だが、見込みは見込みにすぎない。達成できなければ、来月のキャンペーンなど絵空事になる。
最終日まで平熱を保つ。
帳簿へ目を落とし、俺はいつもどおり業務を続けた。
四
「店長……やりましたね」
中原が帳簿から顔を上げた。
「六月の上納利益、二十一・五パーセント増です」
六月三十日、木曜日。正確には日付が変わって、七月一日の午前零時四十分だった。六月分の締めが終わった。
俺は数字をもう一度確認した。二十一・五パーセント増。間違いない。
「達成ですね」
「ええ」
どちらからともなく、安堵の息が漏れた。
「みなさんのおかげです」
帳簿を閉じると、中原は黙ったまま俺を見た。
「店長」
「はい」
「……ありがとうございます」
「なんですか。改まって」
「コンパニオンたちも、私たちも」
中原は少し笑った。
「ずっと、働きやすくなりました」
俺は返事に困った。待遇も給与も、元の基準へ戻しただけである。
「それは……よかったです」
「はい」
中原は会釈すると、帳簿を抱えて事務所を出ていった。
一人になっても、俺にはいまひとつ実感がなかった。特別なことをしたつもりはない。あるべき姿へ戻し、必要な数字を追い、その結果が出ただけだ。
しばらくして俺も事務所を出て、薄暗いロビーへ向かった。
笹は大きな水受けに刺され、まだ青さを保っている。いよいよ今日から七夕キャンペーンが始まる。
少し傾いているのが気になり、俺は笹へ手を伸ばした。
まっすぐに直すと、吊るされた短冊が揺れ、静かなロビーにカサリ、と音を立てた。




