第12話 祭りのあとで
1983年4月1日(金) 11:20
一
余韻だけが、天井のシャンデリアに残った。
扉が完全に閉まるのを待って、俺はゆっくりと振り返った。とりあえず、開店させなければならない。
ところが、コンパニオンも黒服も誰一人として散らず、全員その場に立ったままだった。
中原が、場をなだめるように両手を軽く広げる。
「……ほら、みなさん。業務連絡して、戦闘開始ですよ」
焼け石に水だった。
小野寺が真っ先に口を開いた。
「店長。本当ですか。昨日、社長に会われたって」
「会いました」
「何を話したんですか」
「今回の是正について、提案しました」
嘘をついても仕方がないので、そのまま答える。それを合図にしたように、コンパニオンたちから質問が飛んできた。朝礼が終わるどころか、さっきより人数が半歩ずつ俺へ近づいている気さえする。
「どうして、そこまでしてくれたんですか」
「何か、裏があるんじゃないですか」
「店長、どうしてそこまで社長に言えるんですか?」
一つずつ答えたつもりだが、俺にとってはどれも業務の範囲内だった。蛮勇を振るった覚えもなければ、特別なことをした覚えもない。
おかしかったものを、元へ戻した。それだけなのだが、どうやら誰にも納得してもらえない。
コンパニオンの一人が、値踏みするように俺を見た。
「じゃあ、店長」
「はい」
「エレナさんのこと、本気で言ったんですか?」
また、その話か。
二
「冗談ではなく?」
「言いましたが、冗談でも、比較でもありません」
「じゃあ、どういう意味なんです? あのエレナさんですよ?」
意味を問うほどのことだろうか。
話が噛み合わないまま、俺は小さく肩をすくめた。
「店にとっては商品です。でも、俺にとっては同僚です」
一瞬、静かになった。
「……はあ?」
「店長、自分で何おっしゃってるか分かってます?」
「おっしゃってること、矛盾してますっ!」
「私らを、あのエレナさんよりマシって?!」
「マシとは言ってません」
話が広がりすぎている。待遇を元へ戻した。それだけなのに、なぜこんなところまで説明しなければならないのか。俺がエレナさんをどう見ているかと、御殿の給与体系に、いったい何の関係があるのだろう。
「ほんま、不器用な人や……」
俺は顔を上げた。
「不器用?」
誰が言ったのか分からない。コンパニオンたちと黒服たちの視線が一度こちらへ集まり、すぐに逸らされた。
「説明は、以上です」
「それで納得しろってことですか?」
「店長、逃げないでくださいっ」
「逃げません」
俺は腕時計を見た。
「……社長に、確認事項があります」
ありていに言えば、撤退した。
中原に朝礼の締めと開店を任せ、俺はプラチナムへ向かった。管理統制の危機である。一言、文句を言ってやらなければならない。
「なんか用か」
「何か用か、ではありません」
社長室へ入ると、社長は椅子に腰掛けたまま、両足を机の上へ投げ出していた。おまけに手鏡を覗き込み、鼻毛を抜いている。
俺は文句を言う気力を失いかけた。
三
社長は俺を見ると、ようやく机から足を降ろした。手鏡をぱたりと閉じ、鼻毛をつまんでいた指先をティッシュで乱暴に拭う。
「朝のことか」
「そうです」
「何が不満だ」
「何もかもです」
「そうか」
悪びれる様子もない。
社長は椅子の背へ身体を預けた。
「ワシはな、あそこでお前を持ち上げたつもりはねえ」
「……では、何を」
「利用しただけだ」
「利用?」
「おう」
社長は葉巻を一本取り出し、火を点けた。甘ったるい煙が、ゆっくりと天井へ昇っていく。
「ワシが黙ってりゃ、お前はただの地味な若造だ。そこで給料を戻しました、研修やめましたって紙切れ一枚貼ったところで、腹の底じゃ何考えられるか分からん」
「……はぁ」
「一遍ガタガタになった店はな、正しいこと言ってりゃ戻るってもんじゃねえ。誰かが音頭取らなきゃ、人間は動かねえんだよ」
「俺が、ですか」
「そうだ」
「向いていないと思います」
「知ってる」
即答された。
「……」
「だからワシが鳴り物やってやったんだろうが」
「百万倍は、鳴らしすぎです」
社長が葉巻を口から離し、俺を見た。
「お前の顔が『バカですか』って言ってたぞ」
「そ、そんなことは」
「分かりやすく盛った方が、オンナも部下も喜ぶんだよ。童貞さん?」
言葉に詰まる俺を見て、社長は鼻で笑った。
「覚えとけ、公児よ。人間はな、祭りばやしで踊るもんだ」
そう言うと、再び机へ両足を投げ出した。今度は爪やすりまで取り出している。話は終わったらしい。
俺は気勢を削がれたまま社長室を出た。
プラチナムの通用口から外へ出る。四月の空を見上げると、妙に明るかった。
「音頭取りができるくらいなら、苦労しないって」
御殿へ戻ってからは、いつも通り業務を続けた。予約を確認し、空いた部屋の清掃を見て、売上の途中集計にも目を通す。ただし、入れ替わり立ち替わり探るようにやってくるコンパニオンたちの質問には、できるだけ丁寧に答えた。
俺には、社長のように言葉で人を沸かせることはできない。それどころか、仕事で人を沸かせる必要性そのものを疑っている。
黒服は黒服の仕事をし、コンパニオンはコンパニオンの仕事をする。店長は店長の仕事をする。それぞれが自分の持ち場を守れば、店は回る。
それ以外に、何が必要なんだ。
数日も経つと、さすがに俺を持ち上げるような空気も薄れた。最初の二、三日は誰かしらが事務所を覗きに来たが、それも次第に減っていく。日払いを受け取るたび、歩合が元へ戻ったことも実感してもらえたらしい。
廊下ですれ違えば、コンパニオンたちは俺へ会釈する。
平常運転。
そう言いたいところだが、完全には戻っていない。ときどき、まるで珍獣でも見るような視線を感じる。
理由は分からなかった。
四
翌週の木曜日。
午後四時。
久しぶりに、通用口脇の喫煙所でみほを見かけた。壁にもたれ、煙草をくゆらせている。
俺に気付くと、首だけを動かして会釈した。
「……ほんまに、研修なくなったんやね」
「意味のないことは、するべきではありません」
「借金ある子も、もう選ばれへんの?」
「選びません」
みほは俺を見た。以前、同じ場所で定期研修について尋ねたときとは、少しだけ目つきが違って見えた。何が違うのかまでは、俺には分からない。
それ以上は何も聞かず、ふぅっと紫煙を吐き出した。しばらくして煙草を灰皿へ押しつけ、そのまま喫煙所を離れていく。
「おおきに」
肩越しの言葉だった。
俺は、その背中を見送った。
礼を言われるほどではない。
あれほど言っているのに。




