第11話 戻しただけなのに
1983年4月1日(金) 07:30
一
「……エイプリルフールだろ。タチの悪い」
「……いや、あの店長っすよ?」
「……エイプリルフール、そもそも理解してないか」
「……っす」
失礼な会話だった。
聞こえているのだが、さすがにこの状況で事務所へ入るのは気が重い。
午前七時半。俺は出勤するなり、小野寺と西本の無遠慮な人物評にさらされていた。
扉の前で数秒迷い、踵を返す。そのまま通用口へ回ると、中原がやってきた。
「ああ、おは――」
俺は人差し指を口元へ立てた。中原が挨拶を止め、怪訝そうに眉を上げる。
「どうしたんです、店長?」
「事務所に……すこぶる入りにくい状況でして」
中原が扉の方を見る。
「やはり……」
「やはり?」
「いえ。十分ほど、こちらでお待ち下さい」
「なぜですか」
「地均ししておきます」
「……お願いします」
中原は事務所へ向かった。
俺は通用口脇の喫煙所にあるベンチへ腰を下ろした。煙草は吸わないので、することもない。何度か腕時計を見て、十分ほど経ったところで立ち上がった。
事務所の扉を開ける。
「おはようございます、店長!」
小野寺が直立していた。
「おはようございますっ!」
西本まで背筋を伸ばしている。二人揃って、ほとんど最敬礼だった。
「……おはようございます」
俺は中原を見る。一体どういう地均しをしたのか。
中原は視線を逸らし、軽く咳払いした。
二
「業務報告をお願いします」
「はい。本日の予約、現時点で七割。新規二件です」
「ありがとうございます。通常通り回します」
「はい!」
「了解っす!」
妙に元気がいい。
「換気は済みましたか」
「完了しております!」
「絨毯も終わってます!」
「……そうですか」
申し送り後も、誰も無駄口を叩かない。動きは速いが、空気が張り詰め、こちらへ向けられる視線まで妙に鋭かった。
しばらくして、小野寺がおずおずと口を開く。
「……あの、店長。本当に、変えるんですか。私らの……給与条件」
「変更ではありません。規定通りに戻すだけです」
「え?」
西本も手を止めた。
「……大丈夫なんすか?」
「何がですか」
「いや、その……社長とか」
「社長には了承をいただいています」
「マジっすか……」
「規定通りですから。詳しくは朝礼でお話しします」
二人は顔を見合わせた。
黒服二人相手で、この気疲れである。しかし、所詮は前哨戦に過ぎなかった。
午前十時四十分。
ロビーへ入った途端、五人のコンパニオンに取り囲まれた。
「店長!」
「ちょっと、店長!」
近い。
全員が前のめりになって詰め寄ってくる。残りのコンパニオンたちも、少し離れてこちらを見ていた。
「歩合上げて下さるって、あの掲示、本当ですかっ?」
「上げるのではありません。規定通りに戻すだけです」
「でも、五十五パーセントですよね?」
「はい」
「指名料も全部?」
「本指名料は、ご本人の総取りです」
「大入りも戻るんですか?」
「戻します」
質問が次々に飛んでくる。黒服たちまで仕事をしながらこちらを見ている。
全員揃っている。このままでは営業準備にも差し支える。
「みなさん、一度並んで下さい」
手を叩くと、ざわつきながらコンパニオンたちが整列した。黒服も後ろへ集まる。
「本日の店長通知について、ご説明申し上げます」
掲示内容を一項目ずつ復唱した。
「従って、特別な待遇変更を行うわけではありません。これまで基準を下回っていたものを、グループ規定へ戻します。それだけです」
「……それだけって」
誰かが小さく呟いた。
「はい。それだけです」
定期研修も今後は一切行わない。技術の研鑽は日々の接客を通じて行い、必要があれば店として別の形で支援する。
「以上です」
やっと伝え終えた。すぐに全部を理解してもらう必要はない。追々、分かってくれればいい。
そう思った、そのときだった。
三
ぱち、ぱち、と通用口の方からゆっくりした拍手が聞こえた。
「おう、公児よ。いっぱしじゃねえか。ビッとしてやがる」
「しゃ、社長?」
社長が拍手をしながら歩いてきて、俺の隣へ立った。
なぜいる。それより、何をしに来た。
「みなさん、ご苦労様です。ワシから少し、コイツの話に補足させて頂きたい」
嫌な予感がした。
「昨日早朝、店長がワシのところへ来ました。多くの資料を持って来て」
俺は社長を見る。あのファイルやカセットテープの話をするつもりか。
「資料を精査した結果、前店長の処理に不備があり、みなさんの報酬が基準を下回っていた。そこはワシの監督不足です。お詫びします」
頭までは下げない。ただ、はっきりと言った。ロビーが静かになる。
「こちらに配属させて一週間。コイツをご覧になって、いかがですか?」
誰も答えない。当たり前だ。社長直々に店長をどう思うかと聞かれて、返答できるはずがない。
「まあ、答えづらいわな」
社長は笑った。
「コイツはね、早朝から熱弁を振るって、ワシに訴えたわけです。みなさんの待遇を元へ戻せ。黒服の給料も戻せ。報奨金も大入りも復活させろ、とな」
熱弁?
俺はそんなものを振るった覚えがない。
「その提案は合理的だった。だから、ワシも認めた。それだけの話です」
社長がこちらを見る。目が笑っていた。
嫌な予感が、確信に変わった。
四
「ご存じの通り、ワシは飾らない人間です」
自分で言うことだろうか。
「コイツにも、報奨を提案しました。しかし、コイツは報奨はいらんと言いました。ワシが何を提案しても」
そこまでは事実だ。そのまま終わってほしい。
社長は顎に手を当て、わざとらしく考え込む顔を作った。
「ワシもまだ老成できていない。つい、『エレナではどうだ』と口を滑らせまして」
ロビーが、水を打ったように静まり返った。
やめてほしい。
プラチナムのエレナ。街で知らない者はいないほどのコンパニオンだ。
「これがまた、コイツに断られましてね。一晩貸し切り、と言ったのに」
あちこちから息を呑む音がした。小さなどよめきも起こる。
俺は口を挟めない。社長の口を塞ぐわけにもいかず、ただ立っているしかなかった。
「それでワシも聞いたわけです。何でだ、と」
聞かれていない。いや、似たような話はした。だが、その先は聞きたくない。
社長が、にやりと笑った。
「コイツいわく――みなさんの方が、エレナより百万倍マシだそうです」
言ってない。
ロビーが爆発した。
「ええっ?」
「ちょ、店長!」
「百万倍って!」
「社長、俺は――」
抗議しかけたが、社長は聞く耳を持たない。
「まあ、誰か気が向いたら、コイツに女ってものを教えてやってください」
今度はさっき以上のどよめきが起きた。
西本が咳き込み、小野寺は顔を伏せ、中原は額へ手を当てた。
コンパニオンたちの視線が、一斉に俺へ集まっている。さっきまでとは明らかに違う種類の視線だった。
社長は満足そうに頷いた。
「じゃあ、営業頑張って下さい」
それだけ言い残し、後ろ手に手を振りながらロビーを出て行く。
俺は、その背中を見送った。
振り返れない。背中に突き刺さる視線の数だけは、嫌でも分かった。
俺はしばらく、その場から動けなかった。




