第10話 元へ戻すだけ
1983年3月31日(木) 03:10
一
社長室を出たとき、時計は午前三時を回っていた。
空になったリネンカートを押し、長い廊下を進む。段ボールも通帳も、もう載っていない。車輪の音だけが、磨かれた床に乾いて響いた。
委ねるべきものは、上に委ねた。前店長をどうするかも、あのテープをどう処理するかも、俺が考えることではない。
ただし、御殿は今日も日が昇れば動き出す。俺の仕事は、むしろこれからだった。
外へ出ると、三月末の夜気が頬に冷たい。あかね楽天地のネオンはまだ生きているが、人通りは途絶え、街そのものの温度が下がっているように見えた。
十五分ほどして御殿へ戻り、鍵を開ける。静まり返った店内では、その音まで大きく聞こえた。
ロビーは暗い。消えたシャンデリアの下で、絨毯もソファも輪郭だけになっている。
「……よかった。中原さん、帰ったな」
事務室へ入り、自席に腰を下ろす。
すでに、やるべきことは決まっていた。定期研修は廃止。コンパニオンの歩合は五十五パーセントへ戻し、本指名料は本人の総取り。黒服の給与体系もグループ規定へ復し、月次報奨金と大入りを再開する。
おかしくなっていたものを元へ戻す。それだけだ。
書面にする前に、少しだけ目を閉じようと思った。事務所のソファへ横になる。
「……店長?」
目を開けると、中原がいた。
肩越しの時計を見る。午前七時半。
(うわっ、眠り込んだか)
「ああ……おはようございます」
「おはようございます。昨夜は……ご無事で?」
「ええ。すべて、きれいさっぱり下駄を預けてきました」
中原は一瞬だけ俺の顔を見て、それから小さく息を吐いた。
「……ご無事で、何よりでした」
それ以上は聞かなかった。
二
午前八時。黒服たちとの申し送りを終え、そのまま開店準備へ入った。
換気扇を回し、灰皿を洗い、入口のガラスを拭く。シャンデリアの状態を見ながら、床を掃除する西本へ中原が声を掛けた。
「西本君、絨毯はそれでいい。掃除機の前に上を済ませよう」
「はい」
「小野寺さん、リネン届いたら私も見ます」
「分かりました」
昨日までより動きが速い。声は少ないが、誰かの指示を待って止まる時間も減っていた。
俺はそのままリネン室へ向かった。
こういうとき、俺がいつまでも前へ出る必要はない。中原がチーフとして現場を回し、その指示で西本と小野寺が動く。その形になれば、それでいい。
昨夜の中原は、自分が止めなかったことを悔いていた。しかし、悔いた人間にいつまでも昨夜の話をさせても仕事は進まない。
午前十一時前、コンパニオンたちがロビーへ集まった。
何人かが黒服たちを見ている。今朝の空気が昨日までと違うことには、すぐ気づいたらしい。ただ、こちらを見る目まで柔らかくなったわけではない。
現状では、俺が黒服たちをねじ伏せた、と見られても仕方がない。
「予約を含めた稼働は八割です。月末ですので、回転を意識してお願いします」
数字と必要事項だけを告げ、俺は事務所へ戻った。
午後二時。アメニティ倉庫で、小野寺と詰め替え作業をする。
計量し、補充し、本数を記録する。扉の向こうでヒールの音が止まり、しばらくして離れていった。
小野寺が、もの問いたげにこちらを見る。
「何か、ご質問がありますか」
「いえ、特には……。あの」
「どうぞ」
「昨夜、中原さんと何か……あったんですか?」
「なぜですか」
「今朝から、何というか……人が変わったみたいで」
「そうですか」
俺は計量カップへ視線を戻した。
「人には、そういうときもあるんじゃないでしょうか」
昨夜のことは昨夜のことだ。本人が口にしたくないことを、俺が得々と説明する筋合いでもない。
店長なんて、黒子に徹すればいい。
小野寺はしばらく黙っていたが、自分を納得させるように頷き、再びボトルへローションを移し始めた。
三
午後四時半。
中原は午後五時からのVIP客を迎えるため外出。小野寺はリネンの検品、西本は夜番に備えて仮眠に入っている。
事務所には、俺一人だった。
そこへ、四人のコンパニオンが入ってきた。
机の前まで来る。誰も口を開かず、互いの顔を見ようともしない。表情は硬い。怒っているというより、緊張しているように見えた。
「店長、お話が」
「何でしょうか」
一人が少し息を整えてから尋ねた。
「本日の定期研修……何時から、誰が務めますか」
「やりませんよ」
四人の顔を見る。
「今日は月末です。締めに集中させて下さい」
それだけ答える。
四人はすぐには動かなかった。一人はドレスの裾を握ったまま、何かを待っている。
やがて別の一人が口を開いた。
「その節には、お声掛け下さい」
俺が頷くと、四人は一礼した。
「……みほさん、行きましょう」
最後に残ったみほだけが、一瞬こちらを見た。何か言いたそうにも見えたが、そのまま三人のあとへ続く。
廊下へ遠ざかるヒールの音が、やけに大きく響いた。
俺は帳簿へ視線を戻す。
月末締めの数字は、まだ確認が残っている。定期研修の話は、明日から必要がなくなるのだから、今日わざわざ時間を割く理由もなかった。
四
閉店作業を終えたあと、俺は事務所の机で大判の紙二枚に通知事項を書いていた。
時計は午前零時を回っている。日付は四月一日。
辞令の上でも、俺は正式に御殿の店長になっていた。
中原が紙コップを二つ持って入ってきた。湯気と一緒に、コーヒーの香りが漂う。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
紙コップを受け取ると、中原が俺の書いている紙を覗き込んだ。
「店長はつくづく、面白い」
「何がですか」
「昨夜、無事に戻って来られただけでなく、収穫まで持ち帰ってくる」
「当たり前のことです。店長の仕事をしただけです」
中原は苦笑した。
「今日、大騒ぎになりますよ」
「そうでしょうか」
「エイプリルフールじゃないかって」
「冗談は口頭で済ませるものです」
俺は最後の一行を書き終える。
「文書にすれば、冗談では済まない」
「……そういう意味じゃないんですけどね」
事務所と待機室、それぞれの掲示板へ紙を貼った。
『一九八三年四月一日付 店長通知』
――定期研修を廃止する。
――コンパニオンの歩合は、グループ規定どおり五十五パーセントとし、査定を排除する。
――本指名料は全額、コンパニオン本人が受け取るものとする。
――男性従業員の給与体系は、グループ規定に復する。
――月次報奨金制度および大入りを復活する。
文字の傾きと行間を確認する。読めないところはない。
合理的で、適正だ。
「……エイプリルフールじゃ、ありませんよ」
中原はもう一度苦笑いし、紙コップを手に事務所を出ていった。
俺は掲示した紙を見上げる。
これでいい。
おかしかったものを、元へ戻した。それだけだ。
冷めかけたコーヒーを飲み干す。紙コップを軽く潰し、ゴミ箱へ放り込んだ。




