第9話 平凡という欲
1983年3月31日(木) 02:40
一
「お前は功績を上げた。……社長として、報いてやらねえとな、オイ」
ワシは通帳の表紙を指先で叩いた。
机の横には、若造が運び込んできた段ボール箱が積まれている。研修記録、十六分テープ、百二十分テープ、前任名義の通帳と印鑑。どれもこれも扱いを一つ間違えれば火を噴く代物だが、この若造は一つ抜くでも、中身を聞くでもなく、そのままワシのところへ持ってきた。
「何か希望はあるか」
「あります」
意外にも即答しやがった。
「言ってみろ」
「御殿の歩合と給与体系を、グループ規定へ戻す許可をいただきたいです」
「……あ?」
若造はいつもの調子で続けた。
「コンパニオンの歩合は五十五パーセント。本指名料は本人の総取り。黒服の給与も同等職の規定額へ戻し、月次報奨金と大入りも復活させたいです。バックマージンの排除と定期研修の全廃については、店長の職責として実行します」
淀みがない。自分の名前は一度も出てこない。
「それが、お前の褒美か」
「はい」
「違うだろうが。元々、あのクソが勝手に分け前を歪めたんだろ」
「帳簿を精査した限り、その通りです」
「だったら戻すのは当たり前だ」
ワシは通帳を机へ放った。
「四月分からだ。コンパニオンも黒服も、グループ規定へ戻せ」
「ありがとうございます」
何を感謝してやがる。こいつが掘り返さなければ、そのままだったかもしれないのに、本人には自分が何かを勝ち取ったという意識すらないらしい。
まったく、調子の狂う若造だ。
二
「それとは別だ。お前個人への褒美を言ってる」
そこでようやく若造は黙り、少し考える顔をした。
「何か欲しいものくらいあるだろ」
「平凡に暮らしたいです」
「……平凡?」
よりによって、この部屋で聞く言葉か。
「仕事をきちんとやって、給料をもらう。店も問題なく回る。それで十分です」
「人生、それだけじゃねえだろ。遊びとか道楽とか、何かあんだろ」
「特には」
「女は」
若造が少し考えた。
「将来的には、家庭を持ちたいです」
「家庭?」
「はい」
ワシの予想していた答えと、妙にずれている。
「嫁もらって、子供作ってってか」
「そこまで具体的には考えていません」
「相手は」
「いません」
「交際した女くらいいるだろ」
「いません」
そこで、ようやく腑に落ちた。
「……まさか、お前、童貞か」
「はい」
恥ずかしがりもしなければ、自慢もしない。年齢を聞かれて二十三です、と答えるのと同じ顔だ。
そうだった。コイツはそういう男だった。
三
「だったら話は早え」
ワシは椅子から身を起こした。
「エレナを一晩貸してやる」
若造の目が僅かに細くなった。
「あのエレナだぞ」
「分かっています」
プラチナムのトップコンパニオン。二十一歳。日本と北欧だったか、そっちの血が混じっている。顔も身体も一級品で、客あしらいも上手い。ワシが特別客用に押さえてから、そう簡単には予約も取れない女だ。
普段なら、金を積まれたからといって一晩丸ごと空けることはない。
だが、今夜こいつがワシへ持ってきた物には、それだけの値打ちがある。七百本近いテープも、地元の有力者が名を連ねた火薬庫も、二千万を超える通帳も、一つくらい抜こうと思えば抜けた。それを何一つ自分の懐へ入れず、ワシの机まで運んできた。
ワシの尺度なら、十分すぎるほどの忠義だ。しかも、こいつは礼を要求するどころか、さっきまで御殿の連中の取り分ばかり気にしていた。
ワシは借りを残すのが嫌いだ。もらった分だけ返し、払うべきものは払う。ならば、こいつにも相応のものを渡して帳尻を合わせる。それがワシのやり方だった。
「明日一晩、貸し切らせてやる。料金はいらん」
「必要ありません」
「……はぁ?」
「結構です」
「お前なあ、エレナだぞ?」
「はい。二年、一緒に働いていましたから」
「だったら、なおさらだろうが」
「そうでしょうか」
若造は本気で分からない顔をしている。
「エレナさんは、俺にとって同僚です」
「……同僚?」
「はい。仕事はコンパニオンですが、俺と一緒に店を回していた人です。御殿のコンパニオンも同じです」
ワシは黙った。
ようやく一つ、腑に落ちた。こいつは女を知らないからコンパニオンを特別視しているわけじゃない。逆だ。最初から特別扱いしていない。
だから前任の研修記録を問題にした。だから歩合を元へ戻せと言った。だからエレナを差し出されても、褒美として受け取る意味が分からない。
ワシにとっては商品。こいつにとっては従業員。
根っこから見ているものが違う。
「……なるほどな」
「何がでしょうか」
「いや、こっちの話だ」
欲がないわけじゃない。平凡に暮らしたい。いつか家庭を持ちたい。ちゃんと欲はある。ただ、その向きがワシの知っているものと、まるで違う。
そりゃ読めんはずだ。
四
「もういい。店に戻れ」
「はい」
「コンパニオンと黒服の待遇は、さっき言った通りだ。四月分から戻す。バックマージンも研修も、お前の好きに片づけろ」
「承知しました」
ワシは机の脇に積まれた段ボールへ目をやった。
「こっちはワシが処理する。お前はもう触るな」
「お願いします」
若造は一礼し、社長室の扉へ向かった。ところが、取っ手へ手を掛ける前にふと足を止める。
「社長」
「あぁ?」
「社長にお渡しして、よかったです」
「何の話だ」
「これです。俺では処理できませんでしたから」
ワシは何も言わなかった。
掛け値なしに、ワシならどうにかすると信じている顔だった。
五年前。身寄りも行き場もなかった十八の小僧を拾った。使えると思ったから拾っただけで、恩を売ったつもりはない。
ところが、こいつの中では違うらしい。拾われたことを五年経っても勘定から消さず、それでいて見返りを寄越せとは一度も言わない。ワシには、その忠義の形もよく分からなかった。
「とっとと帰れ」
「失礼します」
扉が閉じた。
時計を見る。午前三時を回っている。
机には通帳。床には火薬庫みたいな段ボール箱。前任を追いかける手配もいる。テープをどう始末するか、どこまで外へ漏れているかも調べなければならない。やることはいくらでもある。
それでも、しばらく若造のことが頭から離れなかった。
カミュの封を切り、グラスへ注ぐ。琥珀色の液体を一口あおる。
少しは分かったつもりだった。
平凡に暮らしたい。
家庭を持ちたい。
あの若造が自分から口にした欲らしい欲は、それだけだった。
ワシは空になったグラスを机へ置いた。
「……よし」
家庭、か。
なら、あの若造に、ワシなりの褒美を一つくれてやるか。




