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ズレて消えた不合格通知は、届かない  作者: AItak


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8/10

世界が壊れているのは、俺のせいかもしれない

 百二十三回目の朝。


 今日も普通に始まるはずだった。


 石段の三段目で目を開けた。石灰岩の冷たさが服越しに脊椎を下から順番に起こしていく。尾てい骨、腰、背骨の中央、肩甲骨の間。体が石の温度を引き受けながら、ゆっくりと覚醒していく。空を見ると今日は晴れで、石段に朝の斜めの光が差し込んでいる。石灰岩の表面の凹凸が光の角度によって小さな影を無数に作っていて、まるで地図の等高線(とうこうせん)のようだ。壁のシミは今日は犬というよりも羊に見える——また少し形が変わった。百二十三回でこのシミが同じだった日は一度もない。


 七段の石段を確認した。今日は七段ある。数えなおして、七段。一段、二段、三段、四段、五段、六段、七段。石段の端を指でなぞって確認してから、両手をついて立ち上がった。服についた石灰の粉を払う。今日の空気は乾いている。


 試験館へ向かった。


 でも朝の一時間で、俺は二つの「ありえないもの」を見た。


――――――――――


 最初のありえないものは、ガルドさんの制服だった。


 試験館の入り口に差し掛かったとき、ベルさんの声がした。


 「また来たのか」


 「また来ました」と俺は答えた。


 今日のベルさんはいつも通りだった。くすんだ青の制服——袖口が少し擦り切れている、いつも同じ場所が擦り切れている——腰の鍵の束が朝の光を受けてぼんやりと輝いている。入口の横の定位置。左の柱の根元から一歩分だけ離れた場所。百二十三回、ほとんど同じ位置に立っている。じゃらり、と鍵の束が鳴った。ベルさんが体の向きをわずかに変えたからだ。


 「頑張れよ」とベルさんが言った。


 「ありがとうございます」


 ベルさんは今日も多くを語らない。「また来たのか」と「頑張れよ」——それだけだ。何回目の繰り返しになるかは、ベルさんには分からない。俺にだけ分かる。この入り口のやり取りが、今日で百二十三回目だということが。


 俺は試験館の扉をくぐった。今日の「第七試験館」の看板——「舘」か「館」か——目を向けた。「館」だ。今日は正しい方に戻っている。世界線が揺り戻したのか、別のルートに入ったのか、判断はつかない。ただ、看板の文字が「正しい方」と「正しくない方」で切り替わる——そのこと自体が、この世界の何かがずれていることの証左(しょうさ)だ。


 廊下を歩きながら、先を行くガルドさんの後ろ姿が見えた。


 ガルドさんはいつも通り、腹が少し出ているのに背筋だけは軍人のように通っている。試験機構の正式制服——金ボタン六つ、袖口の細い金色のライン、衿元に小さなバッジ——を着こなしている。正確には「着こなしている」というより「圧着している」に近い。背筋が廊下の石壁よりも垂直に近い。足音が廊下に静かに響く。硬い靴底が石畳(いしだたみ)を踏む音は、いつも一定の間隔だ。


 廊下の曲がり角で、ガルドさんが立ち止まった。


 制服の前を整えようとした——左手で胸の部分を直す動作だった。その手の動きは素早くて、ほとんど無意識の仕草に見えた。制服の正面を少し引っ張って、左の前立てを整える。そのときに制服の内側が一瞬開いた。


 内ポケットに何かが入っている。


 俺はその瞬間に目を向けた。廊下の光は左の窓から差し込んでいて、ガルドさんの胸元をちょうど照らしていた。見えたのはほんの一瞬だった。一秒にも満たない、おそらく半秒以下の隙間だった。証明書のカード。細長い、資格証明書の形。試験機構の紋章が上部にある。


 色が——灰色だった。


 (灰色——)


 俺は立ち止まった。廊下の石畳(いしだたみ)の上で、足が動かなくなった。


 資格証明書の色は等級によって決まっている。2級は青。3級は緑。4級は金。5級は白。そして、無資格者の証明書は——灰色だ。


 ガルドさんは3級の中位資格者のはずだ。百二十三回、その前提で動いてきた。試験官として口頭試問の部屋に座っていた。受験者に不合格を告げてきた。礼節第○条を引用してきた。俺に「退室してください」と言ってきた。全部が「3級有資格者の試験官ガルド」として完結していた。


 でも今一瞬見えたものは——


 俺の頭の中で、百二十三回分の記憶が高速で展開した。


 ガルドさんを初めて見た、一回目の朝。口頭試問の部屋に座っていた。威圧的な眼鏡越しの目。机の上の書類。あの日、ガルドさんの内ポケットを見ていただろうか。見ていなかった。見る必要がなかった。二回目も、三回目も。五十回目も、百回目も——俺の目はガルドさんの表情と動作と台詞だけを追っていた。胸の内ポケットの中身を、一度も確認したことがなかった。


 百二十三回分の「見ていなかった」が、今日の一瞬に凝縮して目の前に提示された。


 「何か問題でも?」


 振り返ったガルドさんの目が細くなっていた。眼鏡の奥から、俺をまっすぐ見ている。俺が廊下で立ち止まっていることに気づいて、振り向いたのだ。


 「……いえ、制服が少し——大丈夫ですか?」


 言葉が口から出てから、しまったと思った。制服の話をするのは、見ていたということを示す。見ていたことを悟られれば——何を見ていたのかを勘ぐられる。


 「何が?」


 ガルドさんの声が平坦だった。眼鏡の奥で細い目が俺を測っている。


 「……なんでもないです」


 「ふん」とガルドさんが言って、制服の前を整えた。両手でていねいに前立てを直して、左手が内ポケットの上を一度押さえた。内ポケットが完全に隠れた。「試験前に廊下でぼーっとするな。礼節第三条、試験における集中義務を忘れているか?」


 ガルドさんは歩いていった。


 俺は廊下の壁に手をついた。石の壁が冷たかった。手のひらから体温が石に奪われていく。


 灰色の証明書。ガルドさんの内ポケットに灰色の証明書があった。


 見間違いかもしれない。光の加減かもしれない。内ポケットに入っていたのは資格証明書ではなく、別の書類かもしれない。でも百二十三回分の目がある。一瞬の色を見間違えるには、その一瞬が鮮明すぎた。廊下の光の角度、カードの縦横比、試験機構の紋章の位置——全部が、俺が試験を通過したときに持てるはずだった証明書のサイズと一致していた。


 (ガルドさんが無資格者だとしたら——)


 その先は、すぐには考えられなかった。あまりにも大きすぎた。試験を採点する側が、その試験の資格を持っていないとしたら——俺の百二十三回は、何の上に積み上がってきたことになる。


 廊下の天井の石が、今日は少しだけ低く見えた気がした。


――――――――――


 待合室に入った。


 俺はいつもの席に座った。左から三列目の長椅子の端。扉が両方見える。試験館の待合室は、石灰岩の壁に挟まれた長方形の部屋だ。木の椅子が三列並んでいて、それぞれの椅子の足が石畳(いしだたみ)の上でわずかにガタつく。試験機構の規則の貼り紙が壁に並んでいる——古いものと新しいものが混在していて、古い貼り紙は端が丸まり始めている。天井から下がる燈明(とうみょう)が三つ。そのうちの一つが今日はわずかに揺れていた。空気の流れがどこかにあるのかもしれない。


 今日は少し早く来たので、待合室にはまだ受験者が少ない。石灰岩の床に石の冷気が漂っていた。誰かが鼻をすする音がした。俺が来る前から待っていた受験者だ。


 アシュがいた。


 右の奥の壁際——いつもの位置だ。壁に背を向けず、横を向いて壁際に立っている。部屋の構造を把握してから位置を決める、彼のいつもの立ち方だ。背中が壁に触れていない。壁から二十センチほど離れた場所に立って、両方の扉と部屋全体の動きが視界に収まる角度を保っている。


 俺はアシュを横目で見た。


 光の加減で白にも見える銀色の髪。整然と横に流れていて、一本も乱れていない。おそらく毎朝、時間をかけて整えているのだと思う。切れ長の薄い灰色の瞳。細身の体に、白を基調とした清潔な服。胸の右ポケットに青い縁の2級資格カードが見えている。青い縁——2級。試験を通過し続けた証だ。


 百二十三回分の記憶の中でも、アシュはこの待合室に来るたびに同じ位置に立っている。同じ角度で部屋を見ている。感情を表に出したことが一度もない。受験者とも試験官とも、最小限の言葉しか交わさない。何かを考えているのか、あるいは何も考えていないのか——外から見ているだけでは判断できなかった。


 アシュの目が部屋のある一点を見ていた。


 俺は視線を追った。


 右の扉の方向だ。扉はまだ閉まっている。でもアシュの目が扉を見ている——いや、扉を見ているのではなく、扉の前の空間を見ている。まるで、次にそこから誰かが入ってくることを、知っているかのように。


 右の扉が開いた。


 栗色のショートカット。大きな布製のカバン。一歩入って立ち止まる。室内を確認する。——セナさんだ。


 俺はアシュを見た。


 次の瞬間のことは、ゆっくり説明しなければならない。


 アシュがセナさんの入ってくる横顔を見た。その時間は、おそらく一秒にも満たなかった。半秒か、あるいはもっと短い時間だった。でもその短い時間の中で——アシュの目が変わった。


 感情だった。


 アシュの目に感情が——悲しみのような何かが一瞬宿って、次の瞬間には消えていた。目元だけがわずかに動いた。目尻が、ほんの少しだけ下がった。眉間に出かけた何かが、出る前に抑えられた。まるで扉から差し込む光の中に何かを見たかのような——長い時間をかけて忘れようとしていたものが、一瞬だけ表に滲み出たかのような。アシュはすぐに視線を外して、別の方向を見た。その動作は自然で、気づかれることを想定していない動作だった。


 俺は息を止めた。


 アシュが感情を見せたのは、百二十三回で初めてだった。感情が「漏れた」という感じだった——制御している何かが、一瞬の隙に滲み出た。アシュが計算して見せた感情ではない。セナさんという「人物」が視界に入った瞬間、アシュの内側の何かが反応した。


 (悲しみ、に見えた。セナさんを見たときに)


 なぜ。


 セナさんはアシュを知らない。毎回、初対面として扉から入ってくる。俺の観察では、セナさんがアシュに対して特別な反応を示したことは一度もない。でもアシュはセナさんを見た瞬間に——百二十三回のうちの今日だけに——その目の中に感情を宿した。


 その答えは今日の俺には持っていない。


――――――――――


 「俺、今回こそ受かる気がするっすよ!」


 橙色の服が左の扉から入ってきた。


 左の扉からポムさんが入ってくる瞬間は、いつも橙色が先に見える。今日のポムさんは右手に弁当箱を——


 三段重ねだった。


 俺は三秒間、その三段の弁当箱を見つめた。昨日(俺の感覚では一回前のループで)断ったのは二段重ねだった。断った。明確に、一度断った。その翌朝に三段重ねで来るのは、断りへの回答として「段数を増やす」という選択をしたことになる。


 これは断固断らなければならない。


 「こんにちはっす!」とポムさんが言った。弁当箱を高く掲げている。三段積み重ねられた弁当箱が、明るい茶色の布巾でしっかりと縛られている。「今日は三段にしてきたっすよ! 一段目が卵焼き、二段目が煮物、三段目が——」


 「いりません」


 「まだ言ってないっすよ三段目を!!」


 「いりません」


 「三段目はおはぎっすよ!? おはぎっすよ!? おはぎを断るんっすか!?」


 「いりません」


 「即答三連発っすね!!」と言って、ポムさんが三段の弁当箱を胸に抱えた。少しだけ傷ついた顔をしている。「アズさん今日も頑固っすね。昨日も断られた気がするっす」


 「昨日」と俺は言った。「昨日のことを覚えてるんですか」


 「え?」ポムさんが首を傾けた。「……覚えてるっすかね。気がするだけっすよ。なんか断られた記憶があるような気がして。弁当箱が余った気がするっす」


 「……そうですか」


 「変なこと言いましたか?」


 「いいえ」


 ポムさんが「まあいいっすか!」と言って、三段弁当を膝の上に置いた。今日のポムさんの布巾は茶色だ。橙色の服に茶色の布巾は、意外に色が合っている。


 「今回こそ受かる気がするっすよ!」とポムさんがまた言った。これが毎回の定番だ。百二十三回で一言一句変わったことがない。「今日は感触が違うっす! なんか朝から頭がさえてる気がして!」


 「おめでとうございます」


 「まだ受かってないっすよ!!」


 (ポムさんも、毎回落ちる。毎回「今日こそ」と言って、毎回落ちる。理由は今日の俺には分からない。分からないが——今日のガルドさんの証明書のことを考えると、「理由がない落ち方」をしている受験者が俺以外にもいる可能性が、少しだけ高くなった)


 三段重ねのおはぎの弁当を断ったことへの後悔は、わずかにあった。おはぎは好きだ。でも弁当を受け取った日には、帰り道がいつも少し重くなる。食べることに気を取られて、考えることが薄くなる。今日は考えることがいくつもある。


――――――――――


 「初めましてですよね?」とセナさんが言った。


 「はじめまして」と俺は答えた。


 今日のセナさんは、右の扉から来た直後にアシュの方向をちらりと見ていた。視線の動きは素早くて、無意識の動作のようで、すぐに俺の方向に向き直した。


 (セナさんはアシュを知らない。でもアシュはセナさんを知っているかのような目をした)


 その非対称性が、今日の俺には引っかかっていた。片方が覚えていて、片方が覚えていない——それは俺とセナさんの関係と同じだ。でも俺はループしているから覚えている。アシュはループしていない。アシュがセナさんを「知っている」としたら、それはループとは別の何かだ。


 「緊張してますか?」とセナさんが聞いてきた。


 「少し」


 「私もです。今日も頑張りましょう」


 「そうですね」


 いつも通りの会話だ。セナさんは毎回ほぼ同じ言葉を言う。微妙な差はある——天気のことを言う日と言わない日、左の扉を先に見る日と右の扉を先に見る日——でも大きな流れは変わらない。今日のセナさんは少し早口で、鞄の持ち手をいつもより強く握っている。緊張が少し高い。


 今日の俺は、セナさんとの会話の半分しか聞いていなかった。残り半分で、アシュの方向を時々確認していた。


 アシュは壁際に立ったまま、動かない。目を細めて、待合室の空気のどこかを見ている。その視線の先に何があるのかは、今の俺には分からない。俺が観察していることに気づいているかもしれない。でも気づいていても気にしない——それがアシュのいつも通りだ。


 「今日は何を考えてるんですか?」とセナさんが言った。


 「……少し気になることがあって」


 「試験のことですか?」


 「そうかもしれないです」


 「また記憶力ですか」とセナさんが言って、少し笑った。「あなたいつもそう言いますよね」


 「そうでしたか」


 「初対面なのにそう感じます」と彼女は言って、少し首を傾けた。「変ですよね」


 「変じゃないかもしれないです」


 セナさんが少し間を置いてから「そっか」と言った。その「そっか」は、理解したような言い方ではなくて——答えを受け入れて置いておく、という感じの「そっか」だった。


――――――――――


 筆記試験を通過した。実技試験も今日は序盤のゾーンをすでに超えていた。


 廊下を歩きながら、俺は今日の状態を確認した。


 調子がいい。珍しいくらいに。頭が整理されていて、体の動きに余計な力が入っていない。ガルドさんの証明書のこと、アシュの感情の漏れのことが引っかかっているはずなのに——むしろそれを「情報として処理している」感覚があった。引っかかりが思考のノイズではなく、思考の材料になっている。


 口頭試問の部屋の前に立った。


 石の扉。鉄の取っ手。扉の右側の壁に試験番号が彫られている。「第七試験館・口頭試問室」。今日は扉の前に誰もいない。俺の順番だ。


 深呼吸した。試験場の廊下の空気は乾いている。石と木と古い書類のにおいが混ざっている。今日は少しだけ木の油のにおいが強い——誰かが廊下の木の部分に手入れをしたのかもしれない。いつも通りのタイミングで扉を開けた。


 入室した。ガルドさんが椅子に腰を下ろしていた。眼鏡越しに書類を見て、次に眼鏡を外して書類を顔に近づける——この癖がある。試験官として椅子に座ったガルドさんの背筋は、廊下で歩いているときよりもさらに直線的になる。まるで椅子の背もたれが鉄骨でできているかのような座り方だ。大きくて厚い手がペンを持っている。


 「座ってください」とガルドさんが言った。


 俺は座った。


 椅子の硬さがいつも通りだった。背もたれが少し低い。試験机の表面が冷たい。ガルドさんとの距離は約一メートル二十センチ——百二十三回、この距離で話してきた。


 質問が始まった。「なぜ資格が必要だと思いますか」「受験の動機は何ですか」「社会における資格の役割について述べてください」。


 俺はよどみなく答えた。百二十三回分の答えが全部頭に入っている。でも今日は答えながら同時に、ガルドさんの反応を観察した。書類に書き込む速度。眼鏡を外すタイミング。大きな手がペンを握る圧力——力が入るときと抜けるときがある。内ポケットの方向——今日はポケットが完全に閉じている。


 「受験の動機は」という質問のとき、ガルドさんのペンを持つ手の力が一瞬だけ抜けた。百二十三回の観察で、今日初めて気づいた変化だった。何かに引っかかったのか、俺の答えが予期しない方向にいったのか——判断できなかった。


 最後の回答が終わった。


 ガルドさんが書類を見た。書類を閉じる手が動いた——今だ。


 「試験の機会に感謝します」と俺は言って、軽くお辞儀をした。


 ガルドさんの手が止まった。書類を閉じる途中で、静止した。


 三秒の沈黙があった。室内の空気が止まったような感覚があった。ガルドさんが何かを考えているのか、考えないようにしているのか——外からは判断できない。


 「……不合格です」


 俺が固まった。「……なぜですか」


 「評価は公開できません」


 「答えも誠実に、感謝の言葉も、礼節の規定に——」


 「退室してください」


 ガルドさんの表情は変わらなかった。眼鏡の奥の目が、俺をまっすぐ見ている。その目が「初対面の受験者」を見ていない目をしている——百二十三回分で見慣れた目だ。試験の採点者の目ではなく、何かを「知っている人間」の目だ。


 でも今日のガルドさんの目には、もう一つ別のものがあった。


 「申し訳ない」に見える何かが、一瞬だけあった。


 その感情は、ガルドさんが意図して見せたものではないと思う。アシュの悲しみと同じように——制御している何かが、一瞬だけ漏れた感じだった。「申し訳ない」と「俺は知っている」が、今日のガルドさんの目の奥で交差した。


 俺は立ち上がった。退室した。


――――――――――


――――――――――


 試験機構の別室。


 窓のない部屋だった。石の壁と天井。外の光が届かない部屋は、壁に備え付けられた燈明(とうみょう)の橙色だけで照らされている。石の壁が燈明(とうみょう)の色を吸収して、部屋全体が薄い琥珀色に染まっている。中央に書類が積まれた机。積み上げられた書類の高さは三十センチほどあって、それぞれに試験機構の封蝋(ふうろう)が押されている。椅子が二つ。一つは机のこちら側に、一つは向こう側に向けて置かれている。


 向こう側の椅子に人物が一人いた。


 袖口まで延びた長い外套(がいとう)を着ている。黒に近い濃い色の布地で、試験機構の制服ではない。顔の上半分が燈明(とうみょう)の影になっていて、見えにくい。机の上の書類に片手を置いている。指が書類の表面をゆっくりとなぞっている。


 もう一人の人物が部屋の隅に立っていた。こちらは試験機構の制服姿だ。


 「アズ・カリンが今日も口頭試問まで来ました」


 声は低くて、感情がなかった。報告する声だ。


 机の前の人物が少し動いた。書類の表面をなぞっていた指が止まった。


 「知っている」


 「どうしますか」


 沈黙が数秒あった。燈明(とうみょう)が揺れて、影が壁を横切った。


 「続けてください。まだ時間がある」


 その声には重みがあった。「まだ時間がある」——何の時間か。誰のための時間か。机の前の人物の指がまた動き始めて、書類の次のページをめくった。書類の中身は試験記録らしかった。受験者の名前と評価が列になって並んでいる。


 「アズ・カリン」という名前の行が、ページの途中にあった。評価欄は空白だった。


 部屋が静かになった。燈明(とうみょう)が揺れ続けた。


――――――――――


――――――――――


 廊下に出た。石の壁に背中をつけて立っていた。


 試験館の廊下は、口頭試問の部屋を出た後は下り坂になっている。受験者が不合格告知を受けた後に歩く廊下が下り坂というのは、設計の意図かもしれないし偶然かもしれない。百二十三回この廊下を歩いて、今日初めてそのことに気づいた。


 今日の落ち方は、いつもと少し違う感触がした。ガルドさんの目の中の「申し訳ない」。感謝の言葉を言った瞬間の手の静止。試験の採点として落とされているのか、それとも——


 試験の構造として、最初から落とすことになっているのか。


 「もしかしたら、俺は最初から受からせる気がない」


 その考えが初めて形を持って頭に浮かんだ。技術でも礼節でも誠実さでもない——構造的に、受からせない何かがある。百二十三回の「なぜ落ちた」という問いの全てが、今日この瞬間に別の問いに変わった。「どうすれば受かるか」ではなく「なぜ俺は受かることができないのか」という問いに。


 下り坂の廊下の石畳(いしだたみ)が冷たかった。靴底から冷たさが上がってくる。


 俺はそこに長く立っていた。


――――――――――


 外に出ると、中庭の方向からアシュが来た。


 廊下の出口で、アシュが外に向かっていた。白い服が廊下の燈明(とうみょう)を受けて少し輝いている。歩き方が静かで、足音がほとんどない。俺とほぼ同じタイミングで外へ出る。出口の手前で、アシュが少しだけ歩幅を縮めた——俺の存在に気づいた動作だった。


 「お前、また落ちたのか」


 アシュが言った。振り向きもせず、前を向いたまま言った。


 俺が少し止まった。声をかけられたのは百二十三回で初めてだ。アシュが俺に話しかけてきたことは一度もなかった。


 「……はい」と俺は答えた。「あなたは?」


 「通過した」とアシュが言った。「口頭試問もクリアした」


 その言い方は淡々としていた。誇っているわけでも慰めているわけでもない。事実を述べている言い方だ。


 「おめでとうございます」


 アシュがわずかに足を止めた。立ち止まったというより、ほんの一瞬だけ歩くテンポが落ちた。右の足が石畳(いしだたみ)に着地するタイミングが、一拍だけ遅れた。それだけだった。


 「……お前に礼を言う必要はない」


 その言葉には複数の意味がある気がした。「通過は俺の実力によるものだ、お前のおめでとうには意味がない」という意味か、それとも別の何かか——アシュの言葉はいつも端的で、解釈の余地が残る。


 それだけ言って、アシュが歩き始めた。足先から静かに着地する歩き方。廊下に足音を立てない。白い服の後ろ姿が角の方向へ向かっていく。


 俺はアシュの後ろ姿を見送った。


 その背中が角を曲がろうとして——何かが落ちた。


 紙だった。


 アシュのポケットから何かが滑り出て、廊下の石畳(いしだたみ)に落ちた。白い紙が床に滑って、少し先まで行った。俺が気づいた同時に、斜め後ろからポムさんも飛び出してきた。どこにいたのか——三段弁当の布巾が揺れている。


 「あっ、受験票っすね! 俺が——」


 「俺が——」


 二人が同時に屈んだ。


 ゴン、と音がした。額と額がぶつかった。


 音が廊下に響いた。石の壁が反響を返した。


 俺とポムさんが同時に頭を押さえた。


 「痛いっすよ!! 何してるっすかアズさん!!」


 「……すみません」


 「アズさん急に屈むっすよね!? しかも速いっすよ!? 反射神経どうなってるっすか!?」


 「ポムさんも屈みましたよね?」


 「お互い様っすね!!」と言って、ポムさんが頭を押さえたまま立ち上がった。目に涙が浮かんでいる。「でも骨は大丈夫っすよ!! 弁当箱は守ったっすから!!」


 弁当箱が無事なことを先に確認するポムさんを横目に、俺は足元の受験票に目を向けた。


 アシュが足を止めていた。廊下の角の手前で立ち止まって、こちらを振り向いていた。表情は変わっていない。ただ静かに、頭を押さえている俺とポムさんを見ている。


 俺が頭を押さえたまま受験票を拾った。体を起こしながら、反射的に紙の表面に目がいった。


 住所欄。


 「灰地区、第三区画」。


 目が文字の上で止まった。


 灰地区。第三区画。中央区ではない。これは外縁区の住所だ。試験機構が中央区に建っていて、試験機構の受験者のほとんどが中央区か近郊の区から来ている——百二十三回で俺が見てきた限りは。灰地区は外縁区の中でも端の方にある。試験館からは半日かかる。


 アシュは外縁区出身だ。


 振り返ると、アシュがすでに歩き出していた。受験票を受け取るために手が伸びてくる。細い手だった。白い服の袖口から出た手が、俺の手の中の受験票に向けて静かに伸びてくる。俺は渡した。


 「……ありがとう」とアシュが言った。受験票を受け取って、すぐに行ってしまった。受験票をポケットに戻す手の動きが素早かった。見られたことに、気づいているかもしれない。


 ポムさんが「アシュさんって感謝の言い方がそっけないっすね」と言った。頭をさすりながら三段弁当の布巾を確認している。「灰地区ってここから結構遠くないっすか?」


 「……そうですね」


 「外縁区の人なんっすかね、意外っすね。あんなにすっきりした服着てるのに」


 俺は何も言わなかった。


 (外縁区の人間が「すっきりした服」を着ていてはいけない理由はない。でも一般的な認識では、外縁区は中央区よりも資産が少なく、服装も質素だという印象がある。そのバイアスを今のポムさんは無意識に使った。俺も、アシュを「中央区の有資格者」だと思い込んでいた。百二十三回。一度も疑わなかった)


――――――――――


 外に出た。


 広場を歩きながら、俺は整理した。


 ガルドさんの内ポケットの灰色の証明書。アシュの目の中の感情の漏れ。アシュの受験票の住所。試験機構別室で何かが起きているかもしれないという感触。


 ガルドは無資格者だった(かもしれない)。


 アシュは外縁区出身だ。


 俺が百二十三回「見ていなかった」ものが、まだある。


 試験だけを見ていた。礼節規定の第九条だけを見ていた。「どうすれば受かるか」だけを考えていた。でも試験の周辺に——試験官の来歴、隣の受験者の住所、待合室で誰かを見るアシュの目の中の感情——まだ見えていないものがある。


 世界の見え方が変わっている。


 試験だけを見ていたとき、世界はシンプルだった。試験があって、課題があって、解法がある。受かれば終わる。百二十三回をかけてその「解法」を磨いてきた。でも今日の二つの「ありえないもの」が、そのシンプルさを崩した。


 世界はシンプルではなかった。


 試験の外側に、試験を設計した人間がいる。試験官の来歴がある。受験者の出身地がある。試験機構の別室で何かが語られている。それら全部が繋がって、「試験」という名の何かを動かしている。


 世界線がズレているのか、それとも俺の見え方が変わっているのか。


 どちらにしても——何かが始まっている。


 広場の隅の屋台から焼き菓子のにおいがしている。石のベンチに誰かが座っている。鳩が石畳(いしだたみ)をつついている。普通の試験の日の広場の光景だ。でも今日の俺には、その普通の光景の裏側が少し見えた気がした。


 焼き菓子のにおいがする方向に屋台がある。屋台の主人が客に笑いかけている。その笑顔の後ろに、屋台の仕入れ先があって、市場があって、中央区と外縁区の間の経済の流れがある。普通の笑顔の後ろにも「見えていないもの」がある。


 何かが始まっている、と思った。百二十三回目の今日に、何かが始まっている。


 また、朝が来る。百二十四回目の朝が。


 今日の死因:「世界のズレ」と「ガルドの証明書」のことを頭の中でずっと考えながら外縁区に帰っていたら、路地の暗がりで盗賊三人組に出会った。抵抗する気力が残っていなかった。「今日は頭だけが動いていて、体が動いていなかった」と気づいたのは、刃が腹に当たってからだった。享年二十二歳、死因・盗賊。百二十三回目にして初めて、死因を「仕方ない」と思った。



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