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ズレて消えた不合格通知は、届かない  作者: AItak


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7/9

親の顔が、少しずつ薄れていく

 百十九回目の朝。


 石段に座ったまま、俺は目を閉じた。


 目を閉じると、暗闇の中に顔を思い浮かべようとする。母の顔。父の顔。二人が並んで笑っているところ。「試験、頑張ってきなさい」と送り出してくれた朝の光景。


 輪郭が、薄い。


 顔の「形」は分かる。だいたいそんな感じだ、という輪郭がある。でも細部が掴めない。母の目は黒かったか、茶色だったか。笑うと目尻にシワが寄るのは分かる。でも、その目の色が——


 分からない。


 父の声は覚えている。低くて少し掠れた声。「アズ」と呼ぶとき、最初の「ア」に少し力が入る癖があった。それは覚えている。でも顔は、声ほど鮮明じゃない。


 俺は目を開けた。


 石段の三段目。薄い灰色の石灰岩が、服越しに冷たい。今日は雲が薄く広がっていて、太陽がどこにいるのか分からない均一な白い空だ。光に方向がなく、影ができていない。試験館の外壁も石段も、全部同じ色に見える朝だった。


 外壁の南側に目をやった。あの雨染み——いつも「犬」に見えるシミが今日は少し形が違う。犬ではなく、ちぎれた雲のような形だ。


 また、ズレた。


 雨染みの形の変化は今まで何度かあった。微小ズレの範疇だ。でも今日はもう一つ何かが違う気がした。俺は立ち上がりながら、石段を数えた。


 一段、二段、三段、四段、五段、六段——


 七段あるはずの石段が、六段に見えた。


 俺は目を細めた。数えなおした。一から丁寧に辿る。七段。ある。七段ある。


 俺は石段を下りた。寝起きに母の顔を探したせいで、まだ頭が少し重い。見間違いかもしれない。気にするな。


――――――――――


 「また来たのか」とベルさんが言った。


 試験館入口の少し横に、今日もベルさんは立っていた。くすんだ青色の制服の袖が今日も少し長い——右腕を動かすたびに袖口が手の甲にかかる。腰の鍵の束が、俺に気づいて顔を上げたベルさんの動きに合わせてじゃらりと鳴った。


 「また来ました」と俺は答えた。


 「……今日は顔が疲れてるな」とベルさんが言った。いつも通りの「また来たのか」ではなく、少し違う言葉だった。


 「起きがけに考えごとをしてたせいです」


 「試験前に余計なことを考えるな」


 「そうですね」


 ベルさんが鍵の束を少し揺らした。じゃらじゃらという音が朝の空気の中で散った。「まあ、頑張れよ」


 「ありがとうございます」


 それだけだった。ベルさんはまた入口の横の定位置に戻っていった。重心が均等に乗った、安定した立ち方だ。今日も同じ場所に立って、同じように鍵の束を腰に揺らしている。この「いつも通り」が、今日はありがたかった。


 俺は試験館の正面扉を見た。


 黒に近い茶色の木の扉。高さ4m近い両開き。表面には天秤の紋章。石のアーチがそれを縁取っている。今日も変わらずそこにある。


 ——看板に目が止まった。


 入口脇の石の案内板。「第七試験館」という文字が彫られているはずのやつ。


 俺は一歩近づいて、目を細めた。


 「第七試験(しけん)舘」


 「舘」だ。


 「館」じゃない。「舘」だ。画数が一画多い。右側の「官」の上に点が入っている。俺は思わず指先で彫り文字をなぞった。「舘」——確かにそう彫ってある。


 百十八回分、この看板の前を通り過ぎてきた。「館」だった。ずっと「館」だった。


 「何か問題でも?」


 振り返ったら、ガルドさんがいた。眼鏡の奥の目が微妙に細くなっていた。今日も変わらず、腹が少し出ているが背筋は一分の隙もない。胸の内ポケットが今日もわずかに膨らんでいる。


 「……いえ」


 「試験前に看板をなぞる行為は規則上——」


 「問題ないです、ありがとうございます」


 俺は看板から手を離した。ガルドさんが「フン」と短く言って通り過ぎていく。


 俺は看板を最後にもう一度見た。「舘」。


 中ズレだ。


 小ズレは些細な変化——雨染みの形や、試験官のくしゃみのタイミング。でも建物の名称が変わっているのは今まで経験したことがない。微細な積み重ねが、段階を上げつつある。世界のズレが、加速している。


――――――――――


 待合室は今日も同じ温度だった。


 石灰岩の壁と固い木の長椅子。細い縦窓から薄い光が差し込んでいる。松明型の壁灯がそれを補っていて、待合室の空気は昼間でも少し夕方のような色をしている。石の冷たさと人の体温が混じった独特のにおい。試験の朝だけがこの空気を作り出す。


 俺は窓に近い席に座った。正面に向かって、左から三列目の長椅子の端。ここからだと入口の扉が両方見える。


 「俺、今回こそ受かる気がするっすよ!」


 左の扉が開いた。橙色が飛び込んでくる。


 ポムさんは今日も同じタイミングで来た。くすんだ橙色の服に茶色のズボン。大柄な体が扉をほぼふさぎながら入ってくる。額にうっすら汗が光っている——試験会場に来ただけで緊張している、いつも通りのポムさんだ。


 右手に弁当箱——今日は布巾の色が紺色だ。そして今日の弁当箱は、いつもより明らかに背が高い。


 二段重ねだ。


 「今回こそ受かる気がするっすよ!」とポムさんがもう一度言った。弁当箱を両手で掲げるように持って、俺の方を向いている。「あと俺、今日は弁当を二段にしてきたっすよ! 上が煮物、下が卵焼きっす!」


 「おめでとうございます」


 「弁当食べるっすか!? 二段あるから一段分くらいいいっすよ! 煮物も卵焼きも——」


 「いりません」


 「即答っすね!!」


 ポムさんが両手を少し下げた。「えーっ。でも二段っすよ? 二段。豪華っすよ?」


 「いりません」


 「二段目だけでも——」


 「いりません」


 「……アズさん」とポムさんが言った。


 俺が止まった。「……どうして俺の名前を知ってるんですか」


 「え?」ポムさんが首を傾けた。「……なんとなく呼んだっす。おかしかったっすか?」


 「……いえ」


 「なんか——そんな気がしたっすよ」とポムさんが少し考えながら言った。「なんとなく、アズさんって呼ぶのが普通な気がして。気のせいっすかね?」


 「気のせいかもしれないです」


 「そうっすかね! まあいいっすか! じゃあ弁当——」


 「いりません」


 「アズさん頑固っすね!!」


 ポムさんが大きな体ごと椅子を引きずって、俺の二席隣に座った。木の椅子が軋む音が待合室に響いた。


 俺は正面を向いたまま、心の中で「ポムさんが俺の名前を知っていた」という事実を整理した。ポムさんは毎ループ初対面だ。俺が名前を言った記憶はない。でも「なんとなく」俺の名前を呼んだ。


 ベルさんの「百回目か」。ガルドさんの「毎回来るやつは」。先週のポムさんの「百回以上来てるっすよね」——そして今日の名前呼び。


 「知っている」の形が毎回少しずつ違う。確信ではない、直感でもない。もっと深いところから滲み出てくる「何かの記憶」のようなものが、複数の人間から同時に滲み出ている。


 それが何なのか、俺にはまだ分からない。


――――――――――


 右の扉が開いた。


 最初に見えたのはカバンだった——明らかに容量オーバーの大きな布製のカバン。肩紐が食い込んでいて、中身が主張している。そのカバンを体の前で両手で持って、栗色のショートカットの女が一歩入ってから止まった。


 部屋を一渡り見る。窓。席の列。人の数。それから静かに動き始める——扉から入って真っ直ぐ来るのではなく、壁沿いに少し迂回してから近い席を選ぶ。


 セナさんだ。


 「初めましてですよね?」とセナさんが言った。カバンを膝の前に置いて、こちらを向いた。


 「はじめまして」と俺は答えた。


 百十九回目のはじめましてだ。今日のセナさんは右の扉から来た。いつも通り一歩入ってから止まる。部屋を確認してから近い席を選んで——今日は俺の二席斜め前に来た。いつも通りだ。


 「緊張してますか?」とセナさんが聞いてきた。


 「少し」


 「私もです」とセナさんが言って、カバンの持ち手を両手でぎゅっと握った。榛色の目が少し不安そうだった。「毎回ダメで、それでもまた来てしまって」


 「来てしまうんですよね」


 「そうなんです。なんでしょうね、この感じ」


 セナさんが困ったように笑った。口の両端がゆっくり上がって、目が少し細くなる。音を立てない笑い方だ。


 「諦めきれないんですよ」と俺は言った。


 「そうです、そうなんです!」とセナさんが少し声を上げた。「あなたは的確ですね」


 「記憶力がいいので」


 「記憶力と諦め力は別だと思うんですけど」


 「同じかもしれないです」


 セナさんが少し考える顔をした。榛色の目が少し宙を向く。「……同じかもしれないですね。覚えているから、諦められない」


 俺は答えなかった。


 覚えているから、諦められない——それは、今の俺にまっすぐ刺さる言葉だった。百十九回分の記憶があるから俺はここにいる。忘れていたら、もっとずっと前に諦めていたかもしれない。でも覚えているから——今日も来てしまう。


 「お兄さんは元気ですか」と俺は言った。


 セナさんの手が止まった。カバンの持ち手を握ったまま、少し固まった。


 「……なんで兄のことを知ってるんですか」


 「……気がしただけです。すみません」


 「いえ」とセナさんが少し考えた。「……いるんですよ、兄が。でも最近——合格したんです、去年。でもそれから会いに来なくなって。一度だけ人づてに会えたんですけど、変だった。目の色が違って、笑い方が違って」


 「目の色と笑い方が」


 「そうなんです。顔は同じなのに、中身が全然違う人みたいで。私が知ってるお兄ちゃんじゃなかった」


 セナさんが口を閉じた。榛色の目が揺れている。


 「合格したら、何かが変わるのかもしれないですね」と俺は言った。


 「そう思います。でも何が変わるのかが分からなくて」とセナさんが言った。「変わったことに気づいたときには、もう遅いのかもしれないし——」


 「だから俺たちは合格できないのかもしれない」


 セナさんが俺を見た。


 「……どういう意味ですか」


 「分からないです。ただ——なんとなく」と俺は言った。「この試験は、受かったら終わりじゃないのかもしれない」


 セナさんがしばらく考えた。それからゆっくりと頷いた。「……そうかもしれないですね。私も、その答えを探したくて今日ここに来ているのかもしれない」


――――――――――


 筆記試験を通過した。


 待合室から試験室への廊下は、毎回同じ石の床と壁だ。足音が響く。松明型の壁灯が一定間隔で並んでいて、その間だけが少し暗い。廊下の突き当たりを曲がると、実技試験場へ出る扉がある。


 俺は廊下を歩きながら、看板のことをまた考えた。


 「舘」。百十八回「館」だったものが今日「舘」になっていた。物が置き換わったのではなく、最初からそうだった可能性がある——この世界線では、最初からその看板はそう彫られていた。


 だとすると、毎回「正しかった世界」が少しずつ別の形に収束しつつあるということだ。


 世界が変わっているのか。俺のループが世界を変えているのか。


 どちらかは分からない。でも変わっていることは確かだ。


――――――――――


 実技試験の中庭は今日も石畳(いしだたみ)だった。


 四方を試験館の壁に囲まれた中庭。上だけが開いていて、曇り空の四角い切り抜きが真上にある。今日の光は均一で方向がない——影がほとんどできないせいで、いつもより中庭が広く見える。石畳(いしだたみ)の目地が全部同じ深さで見える日だ。


 俺はいつも通りに動き始めた。


 ゾーンを確認する。審査官の位置を確認する——今日も三名、それぞれの担当ゾーンに背もたれのない丸椅子で座っている。木製のクリップボードを膝の上に。鉛筆の先が光っている。


 動き始めた。体は動いている。ルーティンで動いている。でも今日の意識は半分別のところにあった。


 なぜ百十九回、同じ壁を越えられないのか。


 技術の問題ではないはずだ。百十九回分の反復があれば、技術はとっくに上がっている。実際、序盤は楽に通過できるようになっている。でも後半——ある一点で毎回引っかかる。その「一点」の場所が、今日は少しずれていた。


 「問題あり」の声が上がった。


 今日の引っかかりはいつもより一歩先だった。いつものゾーンではなく、そこを越えて一つ先で詰まった。


 俺は立ち止まった。審査官がクリップボードに何かを書いている。


 百十九回で初めて、この場所で止まった。


 技術の問題ではない——ならば、試験の構造そのものに問題があるのかもしれない。突破できない「設計」がある可能性を、今日初めて少しだけ具体的に考えた。


――――――――――


 実技を終えて、廊下に出た。口頭試問には今日も進めなかった。


 廊下に一人になって、石の壁に背中をつけて立ち止まった。


 母の顔を思い出そうとした。


 また、輪郭が掴めなかった。


 目の色が分からない。笑い方は覚えている——口を少し横に引く、声を出さない笑い方だったと思う。でも目の色は、黒だったか、少し茶色が混じっていたか。どちらか分からない。


 父は眉が太かった。それは覚えている。「アズ」と呼ぶときの声も覚えている。でも顔の全体像を思い描こうとすると、霞がかかったようにぼやける。


 百十九回のループで、俺は一番守りたいものを少しずつ失っている。


 これが、ループの代償だ。


 死ぬたびに世界が少しズレる。ズレた分だけ俺の中の何かも薄れていく。試験も合格できない。でも両親の顔は、少しずつ霞んでいく。


 忘れる前に合格しないといけない。


 でも合格できない。


 ループするたびに失う。でも止められない——止め方が分からない。


 俺は天井を見た。石の廊下の天井は低くて、壁灯の光が薄い。息を一回、深く吐いた。


――――――――――


 外に出ると、広場は試験後の空気だった。受験者がちらほら残っていて、それぞれに放心しているか、誰かと話しているかだ。広場の隅の焼き菓子の屋台は今日も出ている——蜂蜜がけの揚げ菓子のにおいが風に乗ってくる。


 俺は広場の石のベンチに向かった。


 古い石製の横長のベンチ。試験館の入口から見て右の奥にある。座面に砂が薄く積もっている。俺は袖で砂を払ってから腰を下ろした。


 空を見た。


 曇り空は相変わらず均一で、太陽がどこにいるか分からない。試験館の屋根の上で旗がわずかに揺れている——風が少しある。色褪せた試験機構の旗が、力なく揺れている。


 母の顔を、もう一度試みた。


 目を閉じて、記憶の中を探る。笑い顔。「試験、頑張ってきなさい」という声。外縁区の朝の光。灰の袋小路から出てくる、鍛冶場の煙のにおい。


 声は聞こえる。はっきりした声で聞こえる。「アズ、遅れるよ」「ちゃんと食べた?」「無理しないで帰ってきなさい」。


 でも顔が、ない。


 声に顔が追いついてこない。


 父の声も聞こえる。低い声。「行ってこい」の一言だけ。でも顔が——


 「あの、さっきの人ですよね」


 声がして、目を開けた。


 セナさんが立っていた。広場の石畳(いしだたみ)の上に、カバンを肩に提げて。俺の横から来て、そっと声をかける——いきなり正面には立たない、彼女らしい声のかけ方だ。


 「ごめんなさい、目を閉じてたのに」とセナさんが言った。「考えごとでしたか」


 「……少し」


 「良かったら隣、座ってもいいですか」


 「どうぞ」


 セナさんがベンチの端に腰を下ろした。カバンを膝の上に置く。肩が少し上がっていた——疲れているのか、緊張の名残か、あるいは両方か。


 しばらく二人で広場を見ていた。試験館の前から受験者が少しずつ減っていく。屋台の売り子が焼き菓子を並べ直している。馬が遠くで嘶いている。石畳(いしだたみ)の広場に、午後の静かな空気が薄く広がっていた。


 「今日も、ダメでした」とセナさんが言った。


 「俺もです」


 「……何が足りないのかが、分からなくて」


 「分からないですよね」


 「でも来てしまう」


 「来てしまいますよね」


 セナさんが少し笑った。「なんか、あなたと話すと不思議と気が楽になります。初めて会ったのに」


 「それは良かったです」


 「なんでそんなに落ち着いてるんですか」


 「慣れてるんです」と俺は言った。


 「何に?」


 「……色々に」


 セナさんが少し考えるような顔をした。榛色の目が俺の横顔を見ている感じがした。


 「どこから来てるんですか?」とセナさんが聞いた。


 「外縁区です」


 「……外縁区の」とセナさんが少し言葉を止めた。「どのあたりですか?」


 「灰の袋小路、というところです」


 セナさんが黙った。


 少しの沈黙があった。屋台のにおいが風に乗ってくる。遠くで馬車の轍の音がする。広場の石畳(いしだたみ)が、均一な曇り空の光を白く反射している。


 「……灰の袋小路って、外縁区の中でも一番端ですよね」とセナさんが言った。静かな声だった。


 「そうです」


 「それでも、ここまで来てるんですね」


 「来てます」


 「……なんで、試験を受けてるんですか」とセナさんが聞いた。


 俺は少し考えた。


 なんで、というのは——この試験に限った話ではない。百十九回分の「なんで」だ。百十八回落ちても、百十八回死んでも、なんで今日もここに来ているのか。


 「両親を助けたいから」と俺は言った。


 セナさんが俺を見た。


 「助ける、って」


 「無資格者の両親が外縁区にいます。俺が資格を取れば、少しでも何かが変わるかもしれない。変わらなくても——取りたいと思っています」


 「変わらなくても」とセナさんがそのまま繰り返した。「……変わらなくても、取りたいっていう気持ちがあるんですね」


 「そうです」


 「それは——」とセナさんが言って、少し目線を落とした。「……すごいですね。純粋で」


 「純粋なのかは分からないです。ただ、他に理由がない」


 「他に理由がない」


 「両親の顔を見て、ここに来たんです。だから他の理由が要らない」と俺は言った。


 「両親の顔を見て」とセナさんがゆっくり言葉を受け取るように繰り返した。「……私も、兄の顔があるから来てるのかもしれないです。兄が合格してここを去っていって——今は別人みたいになってしまって。でも、兄がここで受験してた頃の顔が好きだった。緊張してて、真剣で、諦めてなかった顔が」


 「お兄さんの話は、ずっと気になっています」


 「……そうですか」とセナさんが少し驚いた顔をした。「初対面なのに」


 「初対面だからこそ、気になります。あなたが大事にしているものがよく見えるから」


 セナさんが答えなかった。少しの間、広場を見ていた。


 「……変な人ですね」とセナさんが最終的に言った。でも笑っていた。静かな笑顔だった。


 「そうかもしれないです」


 「でも——ありがとうございます」


 俺は答えなかった。


 ありがとう、と言われることが——実は少し辛かった。明日の彼女は俺のことを覚えていない。今日ここで話したことも、ここで笑ったことも、全部リセットされる。セナさんにとっての「初対面の不思議な人に礼を言った記憶」は、明日には存在しない。


 でも俺には残る。


 百十九回分の「今日のセナさん」が俺には残っている。


――――――――――


 「また来ますよね?」


 立ち上がって帰ろうとしたら、セナさんが声をかけてきた。


 「……来ます」と俺は答えた。


 「良かった」とセナさんが言って、口の両端をゆっくり上げた。静かな笑顔だった。「また会えると思うと、次も来る気になります。変ですか?」


 「変じゃないと思います」と俺は言った。


 変なのは俺の方だった。「また会える」ことが確定しているのは俺だけだ。セナさんは「また来れば会えるかもしれない」という希望で言っている。俺は「絶対に会える」という確信を持っている。でもセナさんには言えない。


 「気をつけて帰ってください」とセナさんが言った。


 「あなたもどうぞ」


 俺は広場を出た。


 振り返らなかった。振り返ると、「また会いましたね」と言いたくなる。そのセリフは今日の彼女には意味をなさない言葉だ。


――――――――――


 外縁区への道を歩きながら、俺はまた母の顔を思い出そうとした。

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