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ズレて消えた不合格通知は、届かない  作者: AItak


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6/8

口頭試問まで行った。だから余計につらかった

 百十五回目の朝。


 今日は絶対に口頭試問を突破する。


 石段の三段目で目を開けた瞬間から、それだけを考えていた。感謝の言葉の「内容」は正しい——「試験の機会に感謝します」。「タイミング」は正しい——最後の回答が終わった直後、試験官が書類を閉じる前、口を開く前。百十三回目と百十四回目で声量を変えた、視線を変えた、少し前に立ち上がった——どれも駄目だった。


 今日は「表情と頭を下げる動作」を加える。礼節規定に「礼」の字がある。言葉だけじゃなく、姿勢が必要なのかもしれない。お辞儀をしながら言う。それが正しいタイミングと内容に重なれば——。


 身体を起こした。七段の石段を上から確認した。正常。壁のシミを見た——今日は何に見えるか。曇り気味の光の中で、シミはどちらかというと広がった印象がある。猫ではなく雲のような形。先週——いや、百十四回前——は猫に見えた。シミが育っているのか、俺の目が変わっているのか、それとも光の当たり方が違うだけなのか。


 石段を下りた。広場に向かった。


 歩きながら頭の中で感謝の言葉を繰り返した。「試験の機会に感謝します」。おじぎのタイミング。表情は落ち着いて、でも誠実に、目を伏せてから上げる。百十四回分の轍が一本の道になっている。今日こそその道を最後まで走れる。そう思いながら、俺は今日の空気の重さを確かめた。


 少し、湿気が強い。雨が降るかもしれない。


 でも今日は試験館の中にいる。関係ない。


――――――――――


 「また来たのか」とベルさんが言った。


 「また来ました」と俺は答えた。


 ベルさんは今日も普通だった。


 「百回目か」はない。「根性あるな」もない。「また来たのか」だけ。いつも通りのベルさんだ。今日は鍵の束が左手に移っている——気づいているのは俺だけだ。右手に持つ日と左手に持つ日がある。右手の日は朝の見回りから戻ってきたばかりのことが多い。今日は左手だから、ベルさんはずっとここに立っていた。朝から。


 それが今日は少しありがたかった。「いつも通り」のベルさんを見ると、世界の床が固い、と感じる。百十五回分の「また来たのか」の積み重ねが、俺を支えている気がする。


 普通に見える日が、実は不思議なのかもしれない。「また来たのか」だけの日がいかに貴重か、「百回目か」を経験した後では分かる。ベルさんが意図せず言ったあの一言が、俺の骨格を変えた。死に戻っていると知った日から、俺は試験に臨む気持ちが変わった。変わったのか、変えざるを得なかったのか——どちらかは分からないが。


 「今日もよろしくお願いします」と俺は言った。


 「ん? ああ」とベルさんが言った。鍵の束が揺れた。「頑張れよ」


 それだけだった。


 俺は試験館に向かった。


――――――――――


 待合室でポムさんが来た。


 左の扉から橙色の服が入ってきた。大きな体、短い茶色の髪、汗のうっすら浮いた丸い顔——今日は弁当箱を右手に持っている。布巾が今日は紺色だ。いつもは黄色か茶色なのに。珍しい。それだけで今日の世界線が微妙にズレていることが分かる。


 「俺、今回こそ受かる気がするっすよ!」


 いつも通りだ。俺は「いりません」を言おうと口を開きかけた。


 「でも——百回以上来てるっすよね、あなた」


 俺が固まった。


 足の裏から冷たいものが走り上がってきた。足首、膝、腰、背中——頭の後ろまで一瞬で電流が走った。脳が処理を止めた、という感覚があった。


 「……は?」


 「え?」ポムさんが首を傾けた。「何か言いましたっけ? あ、弁当食べるっすか? 今日は卵焼きっすよ!」


 俺は立ち上がっていた。立ち上がりながら「百回以上来てる、と言いませんでしたか」と聞いた。


 「……言ったっすかね」とポムさんが少し考えた。表情が真剣になってから、また元の丸い顔に戻った。「なんか、そんな気がして。なんとなく言ったっすよ。おかしいっすか?」


 「……いえ、おかしくないです」


 「そうっすか! じゃあ弁当食べるっすか?」


 「いりません」


 「即答っすね!!」


 俺はそのまま後ろに下がって——ベルさんの背中にぶつかった。


 「……おっと」とベルさんが言った。「大丈夫か? 急に下がるな」


 「す、すみません」


 「試験前だ。落ち着けよ」とベルさんが言って、鍵の束をじゃらじゃら鳴らしながら歩いていった。


 俺は動けなかった。


 壁に手をついた。石の壁が冷たかった。冷たさが手のひらから全身に広がって、少し現実に引き戻してくれた。掌一枚分の冷たさが、今の俺にとってのいかりだった。


 考えた。整理した。


 百一回目のベルさん——「百回目か」。あれは確信を持った「知っている」だった。ベルさんは明確に、目線をまっすぐ向けて言った。


 百六回目のガルドさん——「毎回来るやつは」。あれは無意識が口から滑り出た「知らずに知っている」だった。ガルドさんは自分が何を言ったか気づいていなかった。


 そして今日のポムさん——「百回以上来てるっすよね」。これは「気がした」という直感的な「知っている」だった。根拠はない、でも感じている。


 三人。三人が違う質で「知っている」か「知っているかのような言葉」を口にした。


 今日の試験官はどうなる。


 「大丈夫っすか?」とポムさんが心配そうに言った。「顔が白いっすよ?」


 「……大丈夫です」と俺は言った。「ちょっと驚いただけです」


 「何に驚いたんっすか?」


 「……なんとなく」


 「なんとなくで白くなる人を初めて見たっすよ!」


 笑えない話だ。百十五回生きて、ポムさんに「顔が白い」と言われたのは今日が初めてだった。


――――――――――


 セナさんが来た。今日はいつも通りのタイミングだった。右の扉から、カバンを抱えて一歩入ってから立ち止まる。


 「初めましてですよね?」


 「はじめまして」


 今日の俺はセナさんとの会話を半分聞きながら、頭の半分でポムさんの言葉を考えていた。でも、今日だけはそちらに引っ張られすぎないようにした。今日の本命は口頭試問だ。


 「緊張してますか?」とセナさんが聞いてきた。


 「……今日は、少しだけ」


 「そうですよね! 私も緊張します」


 「大丈夫ですよ」


 「ありがとうございます」


 いつも通りの会話。でも今日の「大丈夫ですよ」は、少し違う意味で言っていた。セナさんへ向けた言葉でもあるが、同時に自分への言葉でもあった。大丈夫だ、今日はタイミングも内容も表情も全部揃っている。今日は行ける。


 「お兄さんは元気ですか」と俺は聞いた。


 セナさんが止まった。カバンを持つ両腕に、少し力が入った。


 「……え、兄ですか。なんで知ってるんですか」


 「……気がしただけです。すみません」


 「いえ」とセナさんが少し考える顔をした。榛色(はしばみいろ)の目が、少し遠くを見た。「……いるんですよ、兄が。でも合格してから来なくなって。一度だけ人づてに会えたんですけど、すごく変だった。目の色が違って、笑い方が違って——私が知ってる兄じゃなかった」


 「目の色と、笑い方が」


 「そうなんです。顔は同じなのに、中身が別人みたいで」


 セナさんの口調は事実を淡々と語るトーンだった。でも榛色の目が少し揺れていた。話しながら目を伏せて、すぐに上げた。感情を見せたくない人の目の動きだ。


 「合格した後に、何かが起きているんですかね」と俺は言った。


 「そうだと思います。でも、何が起きているのかが分からなくて」


 「……俺も分からないです。でも、あなたのお兄さんの話はずっと気になっています」


 「初対面でそんなこと言うんですか?」とセナさんが少し笑った。


 「……記憶力が良くて」


 「変な人ですね」とセナさんは言った。でも笑っていた。


 変な人。そうかもしれない。百十五回同じ朝を繰り返して、百十五回同じ試験を受けに来て、百十五回同じ人たちと話す——変な人どころか、この世界で一番いびつな存在だ。


 でも今日は、そんなことを考えている場合じゃなかった。


――――――――――


 筆記試験を通過した。


 実技試験の中庭に出た。試験館の建物から出ると、外の空気が一気に変わる。石の廊下の湿った冷たさから、中庭の開けた空気へ。今日は曇り気味で、中庭はいつもより暗かった。壁灯の光が代わりに強くなっている。土の匂いがした。雨が近い。


 石畳(いしだたみ)のすき間から、小さな草が一本出ていた。いつもそこに草はない。今日のズレだ。草一本分のズレ。


 俺はいつも通りに動いた。今日の実技は「通過すること」だけを考えた。余計なことをしない。壁を越えようとしない。通過できる限界まで進んで、そこで止まる。次のステップに体力と集中を残す。


 実技試験官が「はじめ」と言った。


 俺は動いた。


 百十五回分の動き方がある。最初に右の障害物を確認、次に中央、最後に左。左は今日いつもより一歩分狭い——中庭の照明角度が変わっているせいで、実際より狭く見えるだけだ。気にしない。石の台を踏むとき、左の踵から着地する。右に重心が傾くとバランスを崩す。


 通過した。


 「口頭試問まで行ける」と、廊下を歩きながら俺は思った。


 今日は全てが揃っている。内容。タイミング。声量。表情。姿勢。礼節のお辞儀。全部。


 廊下の壁灯が、遠くから近くへ一つずつ光を繰り返している。俺の靴音が石の床に跳ね返って、少し遠くの廊下の終わりから戻ってくる。百十五回で何度も歩いた廊下なのに、今日だけはこの廊下が「本番への道」に見えた。


――――――――――


 口頭試問の扉の前に立った。


 扉の木の表面に、指先の脂が光っている場所がある。みんなが同じ場所を触るから。俺も今日、その場所に手をかけた。他の誰かと同じ場所を触っている、という感覚が、少し人間に戻してくれた。


 廊下の壁灯が揺れていた。俺は深呼吸した。感謝の言葉のリハーサルを頭の中で三百回繰り返していたせいで、少し頭が重かった。「試験の機会に感謝します」「試験の機会に感謝します」「試験の機会に感謝します」——言いすぎた。言葉が音節に分解されてしまっていた。でも大丈夫だ。体が覚えている。


 扉を開けた。


 部屋の中に入った瞬間、石の床の冷たさが革靴越しに伝わってきた。壁は石造りで、窓が一つ——曇り空が見える。机が一つ。椅子が二つ。シンプルな部屋だ。百十五回目にして初めて入れた部屋。


 椅子に座っている人物が、今日はガルドさんではなかった。


 俺が一歩踏み込んで、止まった。


 四十代か——机の向こうに座っている人物は、ガルドさんよりずっと静かな空気を持っていた。髪は短く、灰色が混じりはじめている。顔立ちは穏やかだが、その穏やかさが「感情を出さないことで作られた穏やかさ」に見えた。書類を手に持って、椅子に腰を下ろしている。こちらを見ているが、見ているというより——観察している。書類を見ている目が、採点しているというより「観察している」目だ。書類と俺を交互に見ながら、何かを確認しているような目の動きをしていた。


 「アズ・カリン?」とその人物が言った。


 声は低く、静かだった。廊下の壁灯の音より小さいかもしれない。


 「……はい」


 「座ってください」


 俺は座った。椅子が少し冷たかった。


 「今日の担当が変わりました」とその人物は言った。「始めましょう」


 質問が始まった。


 「なぜ資格が必要だと思いますか」「なぜ受験しているのですか」「なぜ諦めないのですか」。


 百十五回分の答えが全部頭に入っている。俺はよどみなく答えた。答えながら、試験官の反応を観察した。書類に書き込む速度、視線の動き、表情の微変化。ペンの先が紙に触れる音が聞こえるほど、部屋は静かだった。


 試験官が「諦めない理由」を聞いた。


 俺は「両親のためです」と答えた。


 ペンが止まった。一瞬だけ。


 試験官の書き込みが再開した。止まったのは一秒にも満たなかったかもしれない。でも俺には見えた。その一瞬が見えた。


 最後の質問の手前で——


 「顔を上げてください」と試験官が言った。


 俺が顔を上げた。目が合った。


 その瞬間、俺の体が止まった。声が出なかった。息が止まりかけた。


 試験官の目が——「初対面の受験者」を見ていない目をしていた。


 ガルドさんが俺を見るときの目とも、ポムさんが俺を見るときの目とも違う。セナさんの目とも違う。「初めて会う人間を見る目」ではない。何かを確認している目だ。何かを——知っていて、それを確かめようとしている目だ。


 アニメでよく見る「カメラが止まる」シーンというものがある。スローモーションで音が消えて、主人公だけが動いて、周囲が静止する——あの感覚が俺に来た。試験官の目と俺の目が合った、その一瞬が、時間軸から切り離された。周囲の音が遠くなった。壁灯の揺れが止まったように見えた。試験官の目の虹彩の色まで見えた——暗い灰色だった。アズ・カリンの目と同じ色だ、と俺は思った。なぜそんなことを思ったのか分からない。


 「……あなた、何回来ましたか」


 小声だった。試験の部屋で言う言葉として不自然なほど、ほとんど聞き取れないほどの、小さな声だった。


 俺は固まった。


 胃が下に落ちた。胃があった場所に空洞ができて、その空洞に冷たい空気が流れ込んでくる感覚。膝に力が入らなくなった。椅子に座っていなかったら立っていられなかったかもしれない。


 「……初めてです」と俺は言った。


 喉が乾いていた。「初めてです」の四文字が、口から出る途中で粉々になりかけた。


 「そうですか」と試験官は言った。書類に目を落とした。何も変わらない顔で。「——最後の質問です。なぜ資格が必要だと思いますか」


 俺は答えた。


 「誰もが可能性を証明できる仕組みが社会に必要だと思います。資格はその証明の形の一つです。俺は、その仕組みを両親のためにも使いたいと思っています」


 声が少し震えた。でもきっと試験官には分からないくらいの震えだ。


 試験官が書類を見た。


 書類を閉じる手が動いた——今だ。


 「試験の機会に感謝します」と俺は言って、軽くお辞儀をした。


 表情は落ち着いて、誠実に、目を伏せてから上げる——全部、練習した通りにやった。


 試験官の手が止まった。


 書類を閉じる途中で、手が静止した。


 俺は顔を上げながら試験官の表情を見た。表情は変わらなかった。ペンを持った右手が、書類の上で静止していた。


 五秒の沈黙があった。


 石の部屋に、二人の呼吸音だけが存在した。


 「……不合格です」


 音が戻ってきた。壁灯がまた揺れた。


 「……なぜですか」と俺は言った。声が出るか分からなかったが、出た。


 「評価は公開できません」


 「感謝の言葉を述べました。タイミングも——」


 「退室してください」


 「感謝の言葉と、礼節の——」


 「退室してください」と試験官は繰り返した。表情は変わらなかった。ペンを机に置いた。書類を重ねた。動作が、一つ一つ正確だった。演技のような正確さだった。


 俺は立ち上がった。足に力が入らなかった。


 「……あなたが言った、何回来ましたか、という質問——」


 試験官が止まった。


 「——それは試験の一部ですか」


 試験官が俺を見た。何も言わなかった。


 「答えていただけないなら、それでも構いません」


 試験官は答えなかった。


 俺は扉に向かった。扉を開けた。廊下の冷たい空気が顔に当たった。


――――――――――


 廊下に出た。


 石の壁に背中を当てて、そのまま立っていた。息を吐いた。また吸った。呼吸が一度だけ乱れた。


 感謝の言葉も言った。今日は頭も下げた。答えも誠実に答えた。でも落とされた。


 百十五回目。今日初めて口頭試問に辿り着いて——落とされた。


 しかも——あの目。「知っているような目」。「何回来ましたか」という言葉。


 あの試験官は、知っている。


 俺が何回来ているか、何かを知っている。知っていて、落としている。


 理由が分からない。知っているなら、なぜ落とすのか。俺のループを知っているなら、「何度目ですか」と聞くはずだ。「何回来ましたか」ではなく。「来た」という言い方は——過去の積み重ねを知っている言い方だ。


 俺はゆっくりと壁から背中を離した。両手を見た。手が少し震えていた。百十五回目にして、初めて手が震えた。


 「どうでしたか?」


 セナさんの声。いつも通りのタイミングで、いつも通りの表情で聞いてくる。廊下の角から来る、カバンを両手で抱えて、一歩入ってから立ち止まる——いつも通りのセナさんだ。


 「……落ちました」


 「え」


 「また落ちた」と俺は言った。


 「でも最後まで行きましたよね? 感謝の言葉も言ったんじゃないですか?」


 「言いました。頭も下げました。答えも誠実にしました」


 「……それで落ちたの?」


 「落ちた」


 セナさんが黙った。しばらく二人で廊下に立っていた。石の廊下は冷たい。壁灯の光が揺れていた。廊下の遠くで、誰かの足音がして、消えた。


 「……不思議ですね」とセナさんが言った。「正しくやっても落ちるって、なんかおかしくないですか」


 「おかしいですよ」と俺は言った。「でも、この試験はそういうものかもしれない」


 「どういう意味ですか?」


 俺はセナさんを見た。彼女の目は真剣だった。「お兄さんの話——合格した後に、別人みたいになったという話をしていましたよね」


 セナさんが少し驚いた顔をした。「……言いましたね。なんで覚えてるんですか、さっき聞いただけなのに」


 「記憶力がいいので」


 「そうなんですね。——うん、言いました。なんで?」


 「もしかしたら——合格した後に何かがあるのかもしれないと思って」


 「何かが、って?」


 「分からないです。でも」と俺は石の廊下の向こうを見た。口頭試問の扉が見えた。閉じている。「この試験は、受かったら終わりじゃないのかもしれない」


 セナさんが黙った。それからゆっくり頷いた。「……そうかもしれないですね。私も、兄のことが心配で」


 「そうですか」


 「あなたも——気をつけてください」とセナさんは言った。


 「何に?」


 「分からないですけど。なんか、あなたは大丈夫そうで、でも気をつけた方がいい気がして」


 榛色(はしばみいろ)の目が俺を真っすぐ見ていた。嘘がつけない目。今日のセナさんは何かを感じている。勘が鋭い人間の、根拠のない確信の目だ。


 「……ありがとうございます」


 「頑張ってください。次も」


 次も。セナさんにとってそれは励ましの言葉だ。でも俺にとってそれは——また明日の朝、石段の三段目で目を覚ます、という意味だ。また百十六回目の朝が来る。セナさんはそれを知らない。


 笑えない話だ。でも俺は少し笑えた気がした。


――――――――――


 帰り道、俺は外縁区へ向かいながら、今日の整理をした。


 空が曇っている。風が少し出てきた。雨の前の匂いがした——土と石が湿気を帯びる前の、乾いた空気と濡れた空気が混在する、あの独特の匂い。外縁区の路地はこの匂いが強い。低い建物が多くて、雨水が溜まりやすい構造だから。


 石畳(いしだたみ)を一枚一枚踏みながら、今日の出来事を順番に並べた。


 試験官が「何回来ましたか」と聞いた。


 ベルさんが百一回目に「百回目か」と言った。


 ポムさんが今日「百回以上来てるっすよね」と言った。


 知っている人間が複数いる。この世界に。


 「知っている」の質がそれぞれ違う。ベルさんは確信を持った「知っている」だった。ガルドさんの「毎回」は無意識が滑った「知らずに知っている」だった。ポムさんの「百回以上」は「気がした」という直感的な「知っている」だった。今日の試験官の「何回来ましたか」は——「知っていて確認した」だ。


 確認した、ということは——「分かっているが確証が欲しかった」ということかもしれない。あるいは——俺に「知っている者がいる」と気づかせたかったのかもしれない。


 足が石畳(いしだたみ)の隙間に少し引っかかった。踏み直した。


 俺のループを知っている者が、複数いる。それはループを超えた何かを持っている者が存在するということだ。あるいは——俺以外に、ループの仕組みを知っている者がいる。


 怖い考えだった。


 でも怖いと感じていることに、俺は少し驚いた。百十五回死んでも、まだ怖いことがある。


 アシュが言った言葉が頭に浮かんだ。「合格しなかった方が良かった」——アシュがある世界線で言ったその言葉が、セナさんの兄の話と、今日の試験官の目と、一直線に繋がり始めた。


 合格した後に変わる。目の色が変わる。笑い方が変わる。


 合格した後に、何かが起きている。


 そしてその「何か」を、試験官は知っている。知っていて、俺に気づかせようとしているのか——あるいは、気づかせないために落としているのか。


 外縁区への路地に入った。建物の間が狭くなって、空が細くなった。曇り空の灰色が、建物の影で更に暗くなる。


 俺は空を見上げた。


 百十五回分の空を見てきた。晴れの朝、曇りの朝、雨の朝。石段の三段目から見上げる空の色が、俺の中に積み重なっている。今日の空は——灰色だ。でも、その灰色の中に、わずかに白い場所がある。雲の切れ目から差し込む光が、一筋だけ、遠くの路地に落ちていた。


――――――――――


 今日の死因は石畳(いしだたみ)だった。


 馬車道を渡るときに、石畳(いしだたみ)の濡れた場所で足を滑らせた。それだけだ。馬車を避けようとして逆に馬車の前に出た。馬車の引き馬が止まりきれなかった。


 享年二十二歳、死因・石畳(いしだたみ)(濡れ)と馬車。


 百十五回目で初めての死因だった——意外にも。これだけ石畳(いしだたみ)を歩いてきて、石畳(いしだたみ)で死んだのは今日が初めてだ。


 また、朝が来る。百十六回目の朝が。


 「試験官が言った『何回来ましたか』——あれは確認じゃなかった。あれは、知っていて聞いた。俺の百十五回を、あの人は知っている。なぜ」


 石段の三段目の冷たさの中で、俺はそれを考え続けた。


 答えは来なかった。でも——朝が来た。


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