口頭試問まで行った。だから余計につらかった
百十五回目の朝。
今日は絶対に口頭試問を突破する。
石段の三段目で目を開けた瞬間から、それだけを考えていた。感謝の言葉の「内容」は正しい——「試験の機会に感謝します」。「タイミング」は正しい——最後の回答が終わった直後、試験官が書類を閉じる前、口を開く前。百十三回目と百十四回目で声量を変えた、視線を変えた、少し前に立ち上がった——どれも駄目だった。
今日は「表情と頭を下げる動作」を加える。礼節規定に「礼」の字がある。言葉だけじゃなく、姿勢が必要なのかもしれない。お辞儀をしながら言う。それが正しいタイミングと内容に重なれば——。
身体を起こした。七段の石段を上から確認した。正常。壁のシミを見た——今日は何に見えるか。曇り気味の光の中で、シミはどちらかというと広がった印象がある。猫ではなく雲のような形。先週——いや、百十四回前——は猫に見えた。シミが育っているのか、俺の目が変わっているのか、それとも光の当たり方が違うだけなのか。
石段を下りた。広場に向かった。
歩きながら頭の中で感謝の言葉を繰り返した。「試験の機会に感謝します」。おじぎのタイミング。表情は落ち着いて、でも誠実に、目を伏せてから上げる。百十四回分の轍が一本の道になっている。今日こそその道を最後まで走れる。そう思いながら、俺は今日の空気の重さを確かめた。
少し、湿気が強い。雨が降るかもしれない。
でも今日は試験館の中にいる。関係ない。
――――――――――
「また来たのか」とベルさんが言った。
「また来ました」と俺は答えた。
ベルさんは今日も普通だった。
「百回目か」はない。「根性あるな」もない。「また来たのか」だけ。いつも通りのベルさんだ。今日は鍵の束が左手に移っている——気づいているのは俺だけだ。右手に持つ日と左手に持つ日がある。右手の日は朝の見回りから戻ってきたばかりのことが多い。今日は左手だから、ベルさんはずっとここに立っていた。朝から。
それが今日は少しありがたかった。「いつも通り」のベルさんを見ると、世界の床が固い、と感じる。百十五回分の「また来たのか」の積み重ねが、俺を支えている気がする。
普通に見える日が、実は不思議なのかもしれない。「また来たのか」だけの日がいかに貴重か、「百回目か」を経験した後では分かる。ベルさんが意図せず言ったあの一言が、俺の骨格を変えた。死に戻っていると知った日から、俺は試験に臨む気持ちが変わった。変わったのか、変えざるを得なかったのか——どちらかは分からないが。
「今日もよろしくお願いします」と俺は言った。
「ん? ああ」とベルさんが言った。鍵の束が揺れた。「頑張れよ」
それだけだった。
俺は試験館に向かった。
――――――――――
待合室でポムさんが来た。
左の扉から橙色の服が入ってきた。大きな体、短い茶色の髪、汗のうっすら浮いた丸い顔——今日は弁当箱を右手に持っている。布巾が今日は紺色だ。いつもは黄色か茶色なのに。珍しい。それだけで今日の世界線が微妙にズレていることが分かる。
「俺、今回こそ受かる気がするっすよ!」
いつも通りだ。俺は「いりません」を言おうと口を開きかけた。
「でも——百回以上来てるっすよね、あなた」
俺が固まった。
足の裏から冷たいものが走り上がってきた。足首、膝、腰、背中——頭の後ろまで一瞬で電流が走った。脳が処理を止めた、という感覚があった。
「……は?」
「え?」ポムさんが首を傾けた。「何か言いましたっけ? あ、弁当食べるっすか? 今日は卵焼きっすよ!」
俺は立ち上がっていた。立ち上がりながら「百回以上来てる、と言いませんでしたか」と聞いた。
「……言ったっすかね」とポムさんが少し考えた。表情が真剣になってから、また元の丸い顔に戻った。「なんか、そんな気がして。なんとなく言ったっすよ。おかしいっすか?」
「……いえ、おかしくないです」
「そうっすか! じゃあ弁当食べるっすか?」
「いりません」
「即答っすね!!」
俺はそのまま後ろに下がって——ベルさんの背中にぶつかった。
「……おっと」とベルさんが言った。「大丈夫か? 急に下がるな」
「す、すみません」
「試験前だ。落ち着けよ」とベルさんが言って、鍵の束をじゃらじゃら鳴らしながら歩いていった。
俺は動けなかった。
壁に手をついた。石の壁が冷たかった。冷たさが手のひらから全身に広がって、少し現実に引き戻してくれた。掌一枚分の冷たさが、今の俺にとってのいかりだった。
考えた。整理した。
百一回目のベルさん——「百回目か」。あれは確信を持った「知っている」だった。ベルさんは明確に、目線をまっすぐ向けて言った。
百六回目のガルドさん——「毎回来るやつは」。あれは無意識が口から滑り出た「知らずに知っている」だった。ガルドさんは自分が何を言ったか気づいていなかった。
そして今日のポムさん——「百回以上来てるっすよね」。これは「気がした」という直感的な「知っている」だった。根拠はない、でも感じている。
三人。三人が違う質で「知っている」か「知っているかのような言葉」を口にした。
今日の試験官はどうなる。
「大丈夫っすか?」とポムさんが心配そうに言った。「顔が白いっすよ?」
「……大丈夫です」と俺は言った。「ちょっと驚いただけです」
「何に驚いたんっすか?」
「……なんとなく」
「なんとなくで白くなる人を初めて見たっすよ!」
笑えない話だ。百十五回生きて、ポムさんに「顔が白い」と言われたのは今日が初めてだった。
――――――――――
セナさんが来た。今日はいつも通りのタイミングだった。右の扉から、カバンを抱えて一歩入ってから立ち止まる。
「初めましてですよね?」
「はじめまして」
今日の俺はセナさんとの会話を半分聞きながら、頭の半分でポムさんの言葉を考えていた。でも、今日だけはそちらに引っ張られすぎないようにした。今日の本命は口頭試問だ。
「緊張してますか?」とセナさんが聞いてきた。
「……今日は、少しだけ」
「そうですよね! 私も緊張します」
「大丈夫ですよ」
「ありがとうございます」
いつも通りの会話。でも今日の「大丈夫ですよ」は、少し違う意味で言っていた。セナさんへ向けた言葉でもあるが、同時に自分への言葉でもあった。大丈夫だ、今日はタイミングも内容も表情も全部揃っている。今日は行ける。
「お兄さんは元気ですか」と俺は聞いた。
セナさんが止まった。カバンを持つ両腕に、少し力が入った。
「……え、兄ですか。なんで知ってるんですか」
「……気がしただけです。すみません」
「いえ」とセナさんが少し考える顔をした。榛色の目が、少し遠くを見た。「……いるんですよ、兄が。でも合格してから来なくなって。一度だけ人づてに会えたんですけど、すごく変だった。目の色が違って、笑い方が違って——私が知ってる兄じゃなかった」
「目の色と、笑い方が」
「そうなんです。顔は同じなのに、中身が別人みたいで」
セナさんの口調は事実を淡々と語るトーンだった。でも榛色の目が少し揺れていた。話しながら目を伏せて、すぐに上げた。感情を見せたくない人の目の動きだ。
「合格した後に、何かが起きているんですかね」と俺は言った。
「そうだと思います。でも、何が起きているのかが分からなくて」
「……俺も分からないです。でも、あなたのお兄さんの話はずっと気になっています」
「初対面でそんなこと言うんですか?」とセナさんが少し笑った。
「……記憶力が良くて」
「変な人ですね」とセナさんは言った。でも笑っていた。
変な人。そうかもしれない。百十五回同じ朝を繰り返して、百十五回同じ試験を受けに来て、百十五回同じ人たちと話す——変な人どころか、この世界で一番いびつな存在だ。
でも今日は、そんなことを考えている場合じゃなかった。
――――――――――
筆記試験を通過した。
実技試験の中庭に出た。試験館の建物から出ると、外の空気が一気に変わる。石の廊下の湿った冷たさから、中庭の開けた空気へ。今日は曇り気味で、中庭はいつもより暗かった。壁灯の光が代わりに強くなっている。土の匂いがした。雨が近い。
石畳のすき間から、小さな草が一本出ていた。いつもそこに草はない。今日のズレだ。草一本分のズレ。
俺はいつも通りに動いた。今日の実技は「通過すること」だけを考えた。余計なことをしない。壁を越えようとしない。通過できる限界まで進んで、そこで止まる。次のステップに体力と集中を残す。
実技試験官が「はじめ」と言った。
俺は動いた。
百十五回分の動き方がある。最初に右の障害物を確認、次に中央、最後に左。左は今日いつもより一歩分狭い——中庭の照明角度が変わっているせいで、実際より狭く見えるだけだ。気にしない。石の台を踏むとき、左の踵から着地する。右に重心が傾くとバランスを崩す。
通過した。
「口頭試問まで行ける」と、廊下を歩きながら俺は思った。
今日は全てが揃っている。内容。タイミング。声量。表情。姿勢。礼節のお辞儀。全部。
廊下の壁灯が、遠くから近くへ一つずつ光を繰り返している。俺の靴音が石の床に跳ね返って、少し遠くの廊下の終わりから戻ってくる。百十五回で何度も歩いた廊下なのに、今日だけはこの廊下が「本番への道」に見えた。
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口頭試問の扉の前に立った。
扉の木の表面に、指先の脂が光っている場所がある。みんなが同じ場所を触るから。俺も今日、その場所に手をかけた。他の誰かと同じ場所を触っている、という感覚が、少し人間に戻してくれた。
廊下の壁灯が揺れていた。俺は深呼吸した。感謝の言葉のリハーサルを頭の中で三百回繰り返していたせいで、少し頭が重かった。「試験の機会に感謝します」「試験の機会に感謝します」「試験の機会に感謝します」——言いすぎた。言葉が音節に分解されてしまっていた。でも大丈夫だ。体が覚えている。
扉を開けた。
部屋の中に入った瞬間、石の床の冷たさが革靴越しに伝わってきた。壁は石造りで、窓が一つ——曇り空が見える。机が一つ。椅子が二つ。シンプルな部屋だ。百十五回目にして初めて入れた部屋。
椅子に座っている人物が、今日はガルドさんではなかった。
俺が一歩踏み込んで、止まった。
四十代か——机の向こうに座っている人物は、ガルドさんよりずっと静かな空気を持っていた。髪は短く、灰色が混じりはじめている。顔立ちは穏やかだが、その穏やかさが「感情を出さないことで作られた穏やかさ」に見えた。書類を手に持って、椅子に腰を下ろしている。こちらを見ているが、見ているというより——観察している。書類を見ている目が、採点しているというより「観察している」目だ。書類と俺を交互に見ながら、何かを確認しているような目の動きをしていた。
「アズ・カリン?」とその人物が言った。
声は低く、静かだった。廊下の壁灯の音より小さいかもしれない。
「……はい」
「座ってください」
俺は座った。椅子が少し冷たかった。
「今日の担当が変わりました」とその人物は言った。「始めましょう」
質問が始まった。
「なぜ資格が必要だと思いますか」「なぜ受験しているのですか」「なぜ諦めないのですか」。
百十五回分の答えが全部頭に入っている。俺はよどみなく答えた。答えながら、試験官の反応を観察した。書類に書き込む速度、視線の動き、表情の微変化。ペンの先が紙に触れる音が聞こえるほど、部屋は静かだった。
試験官が「諦めない理由」を聞いた。
俺は「両親のためです」と答えた。
ペンが止まった。一瞬だけ。
試験官の書き込みが再開した。止まったのは一秒にも満たなかったかもしれない。でも俺には見えた。その一瞬が見えた。
最後の質問の手前で——
「顔を上げてください」と試験官が言った。
俺が顔を上げた。目が合った。
その瞬間、俺の体が止まった。声が出なかった。息が止まりかけた。
試験官の目が——「初対面の受験者」を見ていない目をしていた。
ガルドさんが俺を見るときの目とも、ポムさんが俺を見るときの目とも違う。セナさんの目とも違う。「初めて会う人間を見る目」ではない。何かを確認している目だ。何かを——知っていて、それを確かめようとしている目だ。
アニメでよく見る「カメラが止まる」シーンというものがある。スローモーションで音が消えて、主人公だけが動いて、周囲が静止する——あの感覚が俺に来た。試験官の目と俺の目が合った、その一瞬が、時間軸から切り離された。周囲の音が遠くなった。壁灯の揺れが止まったように見えた。試験官の目の虹彩の色まで見えた——暗い灰色だった。アズ・カリンの目と同じ色だ、と俺は思った。なぜそんなことを思ったのか分からない。
「……あなた、何回来ましたか」
小声だった。試験の部屋で言う言葉として不自然なほど、ほとんど聞き取れないほどの、小さな声だった。
俺は固まった。
胃が下に落ちた。胃があった場所に空洞ができて、その空洞に冷たい空気が流れ込んでくる感覚。膝に力が入らなくなった。椅子に座っていなかったら立っていられなかったかもしれない。
「……初めてです」と俺は言った。
喉が乾いていた。「初めてです」の四文字が、口から出る途中で粉々になりかけた。
「そうですか」と試験官は言った。書類に目を落とした。何も変わらない顔で。「——最後の質問です。なぜ資格が必要だと思いますか」
俺は答えた。
「誰もが可能性を証明できる仕組みが社会に必要だと思います。資格はその証明の形の一つです。俺は、その仕組みを両親のためにも使いたいと思っています」
声が少し震えた。でもきっと試験官には分からないくらいの震えだ。
試験官が書類を見た。
書類を閉じる手が動いた——今だ。
「試験の機会に感謝します」と俺は言って、軽くお辞儀をした。
表情は落ち着いて、誠実に、目を伏せてから上げる——全部、練習した通りにやった。
試験官の手が止まった。
書類を閉じる途中で、手が静止した。
俺は顔を上げながら試験官の表情を見た。表情は変わらなかった。ペンを持った右手が、書類の上で静止していた。
五秒の沈黙があった。
石の部屋に、二人の呼吸音だけが存在した。
「……不合格です」
音が戻ってきた。壁灯がまた揺れた。
「……なぜですか」と俺は言った。声が出るか分からなかったが、出た。
「評価は公開できません」
「感謝の言葉を述べました。タイミングも——」
「退室してください」
「感謝の言葉と、礼節の——」
「退室してください」と試験官は繰り返した。表情は変わらなかった。ペンを机に置いた。書類を重ねた。動作が、一つ一つ正確だった。演技のような正確さだった。
俺は立ち上がった。足に力が入らなかった。
「……あなたが言った、何回来ましたか、という質問——」
試験官が止まった。
「——それは試験の一部ですか」
試験官が俺を見た。何も言わなかった。
「答えていただけないなら、それでも構いません」
試験官は答えなかった。
俺は扉に向かった。扉を開けた。廊下の冷たい空気が顔に当たった。
――――――――――
廊下に出た。
石の壁に背中を当てて、そのまま立っていた。息を吐いた。また吸った。呼吸が一度だけ乱れた。
感謝の言葉も言った。今日は頭も下げた。答えも誠実に答えた。でも落とされた。
百十五回目。今日初めて口頭試問に辿り着いて——落とされた。
しかも——あの目。「知っているような目」。「何回来ましたか」という言葉。
あの試験官は、知っている。
俺が何回来ているか、何かを知っている。知っていて、落としている。
理由が分からない。知っているなら、なぜ落とすのか。俺のループを知っているなら、「何度目ですか」と聞くはずだ。「何回来ましたか」ではなく。「来た」という言い方は——過去の積み重ねを知っている言い方だ。
俺はゆっくりと壁から背中を離した。両手を見た。手が少し震えていた。百十五回目にして、初めて手が震えた。
「どうでしたか?」
セナさんの声。いつも通りのタイミングで、いつも通りの表情で聞いてくる。廊下の角から来る、カバンを両手で抱えて、一歩入ってから立ち止まる——いつも通りのセナさんだ。
「……落ちました」
「え」
「また落ちた」と俺は言った。
「でも最後まで行きましたよね? 感謝の言葉も言ったんじゃないですか?」
「言いました。頭も下げました。答えも誠実にしました」
「……それで落ちたの?」
「落ちた」
セナさんが黙った。しばらく二人で廊下に立っていた。石の廊下は冷たい。壁灯の光が揺れていた。廊下の遠くで、誰かの足音がして、消えた。
「……不思議ですね」とセナさんが言った。「正しくやっても落ちるって、なんかおかしくないですか」
「おかしいですよ」と俺は言った。「でも、この試験はそういうものかもしれない」
「どういう意味ですか?」
俺はセナさんを見た。彼女の目は真剣だった。「お兄さんの話——合格した後に、別人みたいになったという話をしていましたよね」
セナさんが少し驚いた顔をした。「……言いましたね。なんで覚えてるんですか、さっき聞いただけなのに」
「記憶力がいいので」
「そうなんですね。——うん、言いました。なんで?」
「もしかしたら——合格した後に何かがあるのかもしれないと思って」
「何かが、って?」
「分からないです。でも」と俺は石の廊下の向こうを見た。口頭試問の扉が見えた。閉じている。「この試験は、受かったら終わりじゃないのかもしれない」
セナさんが黙った。それからゆっくり頷いた。「……そうかもしれないですね。私も、兄のことが心配で」
「そうですか」
「あなたも——気をつけてください」とセナさんは言った。
「何に?」
「分からないですけど。なんか、あなたは大丈夫そうで、でも気をつけた方がいい気がして」
榛色の目が俺を真っすぐ見ていた。嘘がつけない目。今日のセナさんは何かを感じている。勘が鋭い人間の、根拠のない確信の目だ。
「……ありがとうございます」
「頑張ってください。次も」
次も。セナさんにとってそれは励ましの言葉だ。でも俺にとってそれは——また明日の朝、石段の三段目で目を覚ます、という意味だ。また百十六回目の朝が来る。セナさんはそれを知らない。
笑えない話だ。でも俺は少し笑えた気がした。
――――――――――
帰り道、俺は外縁区へ向かいながら、今日の整理をした。
空が曇っている。風が少し出てきた。雨の前の匂いがした——土と石が湿気を帯びる前の、乾いた空気と濡れた空気が混在する、あの独特の匂い。外縁区の路地はこの匂いが強い。低い建物が多くて、雨水が溜まりやすい構造だから。
石畳を一枚一枚踏みながら、今日の出来事を順番に並べた。
試験官が「何回来ましたか」と聞いた。
ベルさんが百一回目に「百回目か」と言った。
ポムさんが今日「百回以上来てるっすよね」と言った。
知っている人間が複数いる。この世界に。
「知っている」の質がそれぞれ違う。ベルさんは確信を持った「知っている」だった。ガルドさんの「毎回」は無意識が滑った「知らずに知っている」だった。ポムさんの「百回以上」は「気がした」という直感的な「知っている」だった。今日の試験官の「何回来ましたか」は——「知っていて確認した」だ。
確認した、ということは——「分かっているが確証が欲しかった」ということかもしれない。あるいは——俺に「知っている者がいる」と気づかせたかったのかもしれない。
足が石畳の隙間に少し引っかかった。踏み直した。
俺のループを知っている者が、複数いる。それはループを超えた何かを持っている者が存在するということだ。あるいは——俺以外に、ループの仕組みを知っている者がいる。
怖い考えだった。
でも怖いと感じていることに、俺は少し驚いた。百十五回死んでも、まだ怖いことがある。
アシュが言った言葉が頭に浮かんだ。「合格しなかった方が良かった」——アシュがある世界線で言ったその言葉が、セナさんの兄の話と、今日の試験官の目と、一直線に繋がり始めた。
合格した後に変わる。目の色が変わる。笑い方が変わる。
合格した後に、何かが起きている。
そしてその「何か」を、試験官は知っている。知っていて、俺に気づかせようとしているのか——あるいは、気づかせないために落としているのか。
外縁区への路地に入った。建物の間が狭くなって、空が細くなった。曇り空の灰色が、建物の影で更に暗くなる。
俺は空を見上げた。
百十五回分の空を見てきた。晴れの朝、曇りの朝、雨の朝。石段の三段目から見上げる空の色が、俺の中に積み重なっている。今日の空は——灰色だ。でも、その灰色の中に、わずかに白い場所がある。雲の切れ目から差し込む光が、一筋だけ、遠くの路地に落ちていた。
――――――――――
今日の死因は石畳だった。
馬車道を渡るときに、石畳の濡れた場所で足を滑らせた。それだけだ。馬車を避けようとして逆に馬車の前に出た。馬車の引き馬が止まりきれなかった。
享年二十二歳、死因・石畳(濡れ)と馬車。
百十五回目で初めての死因だった——意外にも。これだけ石畳を歩いてきて、石畳で死んだのは今日が初めてだ。
また、朝が来る。百十六回目の朝が。
「試験官が言った『何回来ましたか』——あれは確認じゃなかった。あれは、知っていて聞いた。俺の百十五回を、あの人は知っている。なぜ」
石段の三段目の冷たさの中で、俺はそれを考え続けた。
答えは来なかった。でも——朝が来た。




