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ズレて消えた不合格通知は、届かない  作者: AItak


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5/11

百何回目かに初めて、試験官が俺を助けた

 百十二回目の朝。


 今日のループは「礼節規定・第九条を手に入れる」ために使う。


 それだけを決めて、石段の三段目で目を開けた。


 背中から石の冷たさが上がってきた。脊椎(せきつい)を一本ずつ叩き起こしていく、いつものプロセス。俺は起き上がる前に、頭の中で今日の計画を整理した。一から整理するのではなく、昨晩——いや、前のループの記憶から引き出す。記憶の棚を開ける感覚、と俺は心の中で呼んでいる。引き出しを開けると、百十一回分の情報が詰まって待っている。


 数回のループで「感謝の言葉」の内容は把握できた。「試験の機会に感謝します」という一文を、口頭試問の最後に述べること——それが礼節規定の要件らしいと、あちこちから断片を集めて気づいた。でも「内容が分かっている」だけでは足りなかった。百十回目でもそれを言って落とされた。百十一回目でも落とされた。


 問題はタイミングだ。


 試験官が何を言い終わった後、どの間で、言葉を入れるか。


 百十一回目で、アシュが持っていた本の背表紙から「礼節規定・第九条」という手がかりを得た。その本を入手しようとして試験機構の書庫に忍び込んだら追い出されて出禁になった。そのまま走り回って疲弊して死んだ——情けなかった。情けない死因の中でもトップクラスだと思う。百十一回目の死因:書庫不法侵入・追い出し・疲弊死。語呂も悪い。


 だから今日は別の手を使う。


 一番簡単な方法:ガルドさんから直接聞く——ではなく、ガルドさんの独り言を聞く。


 ガルドさんは一人のとき、仕事のことを独り言で整理する習慣がある。百十一回目でその独り言を聞いたことがあった。「今日の受験者は……」とか「規則第七条の運用が……」とか、声に出しながら歩いている姿を見た。普段の試験室での無表情と違って、そのときは少し人間らしい顔をしていた——疲れた顔、というか、考え込んでいる顔。人は誰も見ていないとき、一番正直な顔になる。百十一ループ分の観察で、俺はそれをよく知っていた。


 今日は朝早く、試験館の扉が開く前に、ガルドさんが通る経路に立っておく。


 そういう作戦だ。


 空を見上げた。今日は薄晴れだった。雲が薄く広がっていて、太陽がぼんやりと光の塊として見えている。少し暖かい空気が、夜明けの石段に広がり始めていた。広場の石畳(いしだたみ)はまだ夜の冷気を残していた。遠くで鳥が鳴いた——試験の日の朝は、いつも同じ鳥が同じ場所から鳴く。百十一回、毎朝同じ鳥の声で目覚めた。


 「行くか」と俺は言って立ち上がった。


 手を石段について、重心を前に移し、それから膝を伸ばした。百十二回繰り返した動作だ。もはや身体が先に動く。


――――――――――


 試験館の入口の石段を上がって、大きな木の扉の前に立った。


 扉はまだ閉まっている。開錠は八時だ。まだ七時前だった。


 試験館の外壁を遠くから見ると、石造りの建物がどっしりと広場の北側に建っている。三階建て、窓は小さく、外壁の石は黒ずんで古い。長い歴史があるらしいが、何年の歴史かは誰も教えてくれない。中景に目を向けると、石段の左側に古い水飲み場がある——いつも水が出ていないが、今日も出ていない。右側は壁。俺が今いる場所だ。近景:足の下の石段は、三段目だけ他の段より色が薄い。毎朝この段で目覚めるせいで俺が摩耗させているのかもしれない、と時々思う。


 俺は扉の右側に寄った。試験館の外壁に背を当てて、立って待った。


 ガルドさんは七時二十分くらいに試験館の裏手から回ってくる——そういう記憶がある。百十一回目で偶然見かけた経路だ。今日もその経路を通るかどうかは分からないが、試す価値はある。分からないことを試す、というのが百十二回目の日課だ。


 七時十分。


 「……」


 七時十五分。


 足音が聞こえた。


 試験館の角から、重心が前気味の足音が近づいてきた。床をしっかり踏みしめる、あの歩き方。鍵の束ではなく、靴底が石を叩く確かな音。


 ガルドさんだった。


 白と黒の混じった短髪が試験館の角から現れた。次に、立派な四角い口髭。それから紺色の制服の胸元、金ボタンが六つ。書類を小脇に抱えて歩いてくる。今は試験官として職場に出勤してくる一人の人間だ——普段の試験室での表情のない顔とは少し違う、考え事をしている顔をしていた。唇がわずかに動いている。眉間に、薄い縦じわ。


 独り言だ。


 俺は全身の神経を耳に集中させた。ガルドさんはまだこちらに気づいていない。石段の前を向いて、何かを呟きながら歩いてきている。俺は壁に背をつけたまま、呼吸を浅くした。気配を消す、という技は百十一回のループで自然に身についていた。


 「……受験者への礼節、第九条か。感謝の言葉。毎年言えない奴がいる——」


 来た。


 俺は息を止めた。一言も逃すまいと、ガルドさんの唇の動きに全神経を向けた。心臓が少し速くなる。胸の奥で何かが熱くなる感覚。百十二回目で初めて感じる緊張感だった——知っているはずの情報なのに、この場で生の声で聞こえてくると、また違う重さがある。


 「——試験の最後の回答が終わった直後、試験官が口を開く前に述べること、か」


 来た来た来た。


 「——試験官が書類を閉じた後ではなく、前。回答の余韻が残っているうちに——」


 ガルドさんの鼻の頭が、突然赤みを帯びた。


 上唇がかすかにめくれた。目が細くなった。百十一回のループで見慣れた前兆——しかし俺の位置は、逃げ場がない壁際だ。傘は待合室に置いてきた。


 「あ……あ……」


 まずい、と思ったが遅かった。


 「ふぁっくしょん!!」


 全身が前傾みになって、炸裂した。上体が前に倒れ、両腕が少し浮き、全身で爆発させる——半径二メートルは危険圏だと知っていた。知っていたのに、俺は壁際に立っていた。


 ずぶ濡れになった。顔面から。


 「……失礼」とガルドさんが言った。制服の袖口で口元を拭った。そして俺の存在に気づいた。銀縁の眼鏡越しに目が合った。「……む、受験者か。こんな時間から来るとは感心だな」


 「……はい」と俺は言った。濡れた顔でそれだけ答えた。頬から顎にかけて何かが伝っていた。


 「試験の準備でもしていたのか」


 「……はい」


 「よろしい。頑張れよ」とガルドさんは言って、扉の方へ歩いていった。


 (内心:申し訳なさそうな顔はしなかった。ガルドさんはこういう人だ)


 俺はガルドさんの背中を見ながら、頭の中に情報を刻んだ。


 最後の回答が終わった直後。試験官が口を開く前。書類を閉じる前。回答の余韻が残っているうち——。


 今日の作戦は成功だ。情報は得た。タイミングも把握した。ただ、代償として今日の朝から完全にびしょ濡れだ。顔が冷たかった。耳の後ろまで濡れていた。


 笑える話だ。百十二回目にしてようやく、試験官の独り言を体を張って聞くことになるとは思わなかった。


――――――――――


 「……なんで濡れてるんっすか」


 待合室に入ると、ポムさんが目を丸くして言った。丸い顔が、さらに丸くなった。


 ポムさんは今日も早くから来ていた。試験館が開いた直後に入ってくる——それがいつものパターンだ。くすんだ橙色(だいだいいろ)の服に茶色のズボン、大きな弁当箱を布巾に包んで持っている。額にうっすら汗をかいているのも、いつも通りだ。試験会場にいるだけで緊張しているらしい。三十歳で十五回落ちても諦めていないのは、俺は知っている。


 「外で立っていたら、雨が降りました」


 「今日晴れてるっすよ?」


 「……局所的な雨です」


 「そんなことあるっすか!!」


 ポムさんが全身で反応した。体が後ろに一歩引いて、両手が上がった。弁当箱がぶら下がった。


 俺は一番乾きやすそうな位置——壁灯の近く——の椅子に座った。壁灯は松明(たいまつ)型で、橙色(だいだいいろ)の光がじんわりと出ている。その熱気が、濡れた服に少し触れる気がした。気がするだけかもしれないが。ポムさんが追いかけてきた。大きな体が俺の前に立った。弁当箱が目の前に来た。布巾ごと差し出されて、目線が弁当と俺の顔を交互に行ったり来たりしている。


 「濡れてるならこれ食べてほしいっすよ! 元気出るっすよ!」


 「いりません」


 「なんでっすか!? 同情する余地すらないっすか!!」


 「いりません」


 (内心:八十八回目にポムさんの弁当を分けてもらって食中毒になった。それ以来、ポムさんの弁当は断ることにしている。本人は何も悪くない。でもあの日の感覚は覚えていたくなかった)


 「俺も感謝の言葉って何か知りたいっすよ!」とポムさんが唐突に言った。


 俺が少し止まった。「……何ですか突然」


 「口頭試問で何か言うと受かりやすいって噂を聞いたっすよ。感謝の言葉らしいっすよ。でも何を言えばいいか誰も知らないっすよ」


 ポムさんが眉を寄せた。額の汗がまた増えた気がした。


 「礼節規定の第九条です」と俺は言った。


 「なんで知ってるんっすか!?!?」


 全身で反応するのがポムさんだ。ポムさんが体をのけぞらせた。弁当箱がまた揺れた。


 「……なんとなく」


 「なんとなくで口頭試問の礼節規定を知ってるやつがあるっすか!! 受験生の中でそれを知ってる人ほぼいないって聞いたっすよ!! こんな時間から来て、濡れた状態で、礼節規定の第九条を知ってる……あなた何者っすか?!」


 「受験者です」


 「……うーーー」とポムさんが言った。納得していないが反論もできない顔だった。しばらく考えて、ポムさんが言った。「絶対なんとなくじゃないっすよ!! でも教えてくれてありがとうっすよ!」


 ポムさんが礼を言った。大きな体が、少し縮んで見えた。感謝の姿勢というのは、人を小さくする。


 「……いえ」


 「次の口頭試問で言ってみるっすよ! 感謝の言葉、ばっちりっすよ!」


 「頑張ってください」


 「あなたも!」とポムさんが言った。


 俺の服が少し乾いてきた気がした。壁灯の熱が少しずつ仕事をしているらしい。


――――――――――


 セナさんが来たのはいつも通りのタイミングだった。


 右の扉が開いた。一歩入ってから、扉の前で立ち止まる。室内をさっと確認する——これがセナさんのいつものパターンだ。俺はその動きを見る前から分かっていた。


 まず見えたのは大きなカバン——肩に食い込む布製の、中身が溢れそうな布製のカバンだ。そのカバンを両手で胸に抱えるようにして、栗色のショートカットの女が部屋を見渡した。澄んだ榛色(はしばみいろ)の目。感情がそのまま顔に出る目。今は少し緊張している。俺の隣の席を選んで、静かに座った。


 「初めましてですよね?」


 「はじめまして」


 「緊張しますね! 何回目ですか?」


 「何回か、ですね」と俺は答えた。今日は少し変えてみた。「……たくさん来ています」


 「そうなんですね、ベテランさんだ!」とセナさんが言った。目が丸くなった後、親しみのある表情になった。「私は三回目で、まだまだですね」


 「三回目でここまで来られてるなら、十分すごいです」


 セナさんが少し驚いた顔をした。口の両端がゆっくり上がった。「……なんか、そう言ってもらえると、頑張れる気がします」


 「頑張ってください」


 「あなたも!」


 今日の会話は、百十二回目で一番の会話だと思った——と同時に、そんなことを思っていることに気づいた。なぜ一番なのか。内容が特別なわけではない。でも今日の俺は「感謝の言葉のタイミング」を掴んだばかりだった。ガルドさんの独り言を、全神経を集中して聞いた直後だった。そのせいで、何かが「聞こえやすい」状態になっていたのかもしれない。


 今日のセナさんの声が、いつもより少しだけはっきり俺に届いた気がした。


 「来年も受けるつもりですか?」とセナさんが聞いてきた。


 「来年……じゃないかもしれないけど、また来ます」と俺は答えた。


 セナさんが少し首を傾けた。栗色の毛先が揺れた。「来年じゃないかもしれない、って?」


 「……まあ、また来ます。それは確実です」


 「そうなんですね」とセナさんが言った。「私もまた来ます。落ちても来ます」


 「そうですね」と俺は言った。


 (内心:また来る、というのは、明日また来る、という意味だ。俺にとっては。でも今日のセナさんにはそれは分からない。明日、今日のこの会話を覚えているセナさんはいない。また初対面から始まる。「頑張れ」と言った俺のことを知らない人が、また「初めましてですよね?」と聞いてくる。俺は「はじめまして」と答える。これが百十二回目のやり方だ)


 「灰の袋小路から来てるんですよ」と俺は言った。ふと出てきた言葉だった。


 「え、外縁区ですか?」とセナさんが少し目を丸くした。「それは遠いですね……」


 「歩いて一時間です」


 「毎回?」


 「毎回です」


 セナさんがしばらく何も言わなかった。カバンの肩紐を指で触りながら、何か考えている顔をした。目線が少し落ちた。それから、静かに言った。「……頑張ってるんですね」


 「そうでもないです」と俺は言った。


 「そうですよ。一時間歩いてこれているんだから」


 「……あなたもそうじゃないですか」


 「私は中央区なので……」とセナさんが言った。少し申し訳なさそうに。「十分で来られます」


 「それでも来ているなら同じです」


 二人でしばらく黙っていた。待合室の松明(たいまつ)型の壁灯がゆっくり揺れていた。橙色(だいだいいろ)の光が石の壁に映って、揺れていた。壁の影が少し伸びて、また縮む。石の床が、ひんやりと静かだった。待合室の天井は高くて、音が少し響く——俺たち二人の沈黙も、なんとなく空間に溶けていった。


 今日の会話は、また明日のセナさんには届かない。でも今日の俺には届いた。それで十分だ、と思うことにしている。百十一回、そう思うことにしてきた。


――――――――――


 筆記試験を通過した。


 実技試験の中庭に移動する廊下を歩きながら、俺は今日の口頭試問のシミュレーションを頭の中で繰り返した。最後の回答が終わった直後。ガルドさんが書類を閉じようとする前。口を開く前に——「試験の機会に感謝します」。


 繰り返した。何十回も繰り返した。頭の中で声に出す。音の高さ。速さ。間。タイミング。ガルドさんが書類を閉じ始める動作の最初の瞬間——手が動く、その直後。そこに声を合わせる。


 実技試験の中庭は、石畳(いしだたみ)が中央区の道に比べると粗い。周囲を石壁に囲まれた四角い空間で、空だけが四角く切り取られて見える。今日は薄晴れの空が、その四角の中にある。審査官が三人、壁際の台の上に書類を持って立っている。


 実技試験は、今日は調子が良かった。


 理由は分からない。でも今日は壁の感触が少し違った。審査官の目が「見ていない」目に切り替わるタイミングが、今日は少し遅かった。前より一歩分、深いところまで進んだ気がした。体が素直に動く日というのがある。百十二回のうち、何十回かはそういう日だった。


 「次の方」と審査官が言った。


 退いた。今日は良かった——でも本命は口頭試問だ。


 「アズ・カリン」と声がかかった。


 俺が振り向いた。廊下に係員が立っていた。若い、二十代の係員だ。手に書類を持っている。


 「5号室へ」


 俺が止まった。「……5号室ですか」


 「はい、追加の審査があります」


 「5号室というのは」


 「試験室です」


 俺は試験室の番号を頭の中で並べた。1、2、3、5、6、7、8、10。4と9が欠番。5号室は存在している——でも今まで一度も呼ばれたことがなかった。百十一回のループで、俺は一度も5号室に入っていない。呼ばれたことすら、今日が初めてだ。


 (内心:初めて、が百十二回目に起きている。この違和感は、世界線ズレの一種かもしれない。あるいはアズが「特定の条件に近づいたときにのみ呼ばれる部屋」なのかもしれない。今まで近づいたことがなかった条件に、今日初めて近づいているのかもしれない。でもそれが何かは、まだ分からない)


 「……分かりました」と俺は言って、係員の後についた。


 廊下を歩いて、また廊下を曲がって、窓のない暗い廊下に入った。壁灯の光だけが頼りになる廊下だ。等間隔に扉が並んでいる。石壁が続く。音が変わった——足音が少し違う響き方をする廊下だ。石の質が違うのかもしれない。俺は足の裏でその変化を感じながら歩いた。


 「靴を脱いでください」と係員が扉の前で言った。


 「……え?」


 「5号室は履き物禁止です」


 「そういう部屋なんですか」


 「規則です」


 係員の言い方は「なぜそうなっているか」を説明しない口調だった。俺は革靴を脱いで、手に持った。石の床が足の裏に冷たかった。廊下の床がきめ細かい石であることを、今まで靴越しにしか感じていなかったが、裸足だと全然違う感触があった。細かいざらつきと冷たさが、足の指の間まで来る。爪の先まで冷えていく感じ。右足の小指の付け根に、石の僅かな突起が当たる——そういう細部が、初めて分かった。


 扉が開いた。


 小さな部屋だった。


 通常の試験室と似た広さだが、何かが違う。壁が厚い——圧迫感がある。窓がない——全部の光が壁灯からだ。そして床に、うっすら違う素材が貼られている。滑り止めのような質感の、薄い何かだ。俺の裸足の足裏がその素材の上に乗ると、温度が石より少し高かった。この部屋だけ、床が少し暖かい。それだけで、異質な感じが増した。


 部屋の壁際に、人が座っていた。


 丸椅子に腰を下ろして、書類を手に持っている。四十代か五十代か——年齢が特定しにくい顔をしていた。顎が張っていて、額が広い。表情が平坦だ。静かな目。顔の半分が壁灯の角度のせいで影に入っていて、表情がよく見えない。どちらの目が光を受けているかによって、見え方が変わる顔だ——影側の目は、ほとんど読めない。


 「アズ・カリン?」とその人物が言った。声は静かだが、底に何かが詰まっているような声だった。


 「はい」


 「追加の実技審査を行います。先ほどの審査の続きです」


 「分かりました」


 審査が始まった。


 内容は通常の実技と似ていた。でも観察している目が違う気がした。通常の審査官は「課題への対処法」を見ている。どう動くかを評価している。でもこの人物は——課題への俺の対処を見つつ、それ以上のものを見ている気がした。「反応の仕方」を見ている。


 課題が提示されたとき、俺が一瞬止まった——そのタイミングを見ていた。


 俺が手を動かし始めたとき——その最初の一手を見ていた。


 俺が「これでいい」と判断して止まった瞬間——なぜ止まったかを、見ていた。


 何かに対して俺が何を感じているかを、測っているような——そういう視線。嘘をつけない視線、とも言える。百十一回のループで色々な人の目を見てきたが、この目は初めてだった。初めての視線というのが、百十二回目の今日にも存在することが、少し不思議だった。


 審査が終わった。


 「ありがとうございました」と俺は言った。


 その人物は何も言わなかった。ただ書類に何かを書き込んでいた。ペンを動かす音が静かな部屋に響いた。カリカリ、という音が石の壁に吸い込まれるように消えていく。


 俺は部屋を出た。廊下で靴を履いた。足が石の感触から革の感触に戻った。


 何かを見られていた。


 具体的に何を見られたのかは分からない。でもその感覚が、廊下を歩いている間もずっと残った。足の裏が石段の冷たさを忘れていないように、背中が視線の感触を忘れていなかった。「評価されている」という感覚ではなく、「観察されている」という感覚。もっと言えば——「選ばれているかどうかを確認されている」という感覚。


 それが何のためなのかは、百十二回目では分からなかった。


――――――――――


 口頭試問の部屋の前に来た。


 3号室の扉。


 俺はその扉を見ながら、静かに息を吸って吐いた。今日が勝負だ。ガルドさんの独り言から得たタイミングを使う。内容も分かっている。タイミングも分かっている。今日は行ける——そう思いながら、胃の底がわずかに引っ張られる感覚があった。


 百十回目でも、百十一回目でも、同じように「今日は行ける」と思って部屋に入った。そして落とされた。それでも今日は、違う根拠がある。ガルドさんの独り言を生で聞いた。タイミングの詳細まで聞いた。今日は違う——はずだ。


 入室した。


 ガルドさんが座っていた。書類を手に持って、眼鏡越しにこちらを見ていた。いつもと同じ表情のない顔。四角い口髭。背筋が通っている。胸の内ポケットが、何かで僅かに膨らんでいた——いつも同じ膨らみだ。何が入っているのかは分からない。百十一回見ても分からなかった。


 「座ってください」


 俺は座った。椅子の固い感触。背筋を伸ばした。


 「名前を確認します。アズ・カリン?」


 「はい」


 「では始めます」


 質問が始まった。「なぜ資格が必要だと思いますか」「なぜ受験しているのですか」「なぜ諦めないのですか」——答えた。また答えた。また答えた。よどみなく、でも機械的にならないように、言葉を丁寧に選びながら。百十一回、同じ質問に答え続けてきた。答えは変わる。少しずつ変わる。今日の答えは昨日の答えではない。


 ガルドさんの目が、書類から俺の顔へ、また書類へと動いていた。何かを評価している。書類のペンが走る。左手で書類の端を軽く押さえていた——書類を閉じるときはその手が動く。


 俺はその左手を見ていた。


 最後の質問が来た。


 「なぜ資格が必要だと思いますか」


 「誰もが自分の才能を証明できる機会が、社会には必要だと思います。資格はその証明の形の一つです。俺はそれを、両親のためにも使いたいと思っています」


 ガルドさんが書類を見た。


 ペンを置いた。


 書類の端を、手でそっと持った——閉じようとする動きの始まり。俺はその動きを見ていた。手が動く速度。閉じるまでの時間。朝の独り言を思い出した。「書類を閉じる前」。「回答の余韻が残っているうちに」。


 今だ。


 「試験の機会に感謝します」


 ガルドさんの手が止まった。


 書類を閉じる途中で、止まった。


 俺は息を止めた。五秒の沈黙があった。ガルドさんが書類を見ていた。目が書類から動かない。眼鏡の縁が、壁灯の光を反射してわずかに光った。


 顔を上げた。


 「……退室してください」


 失格だ。


 俺は固まった。足の裏に、さっきまでの5号室の床の感触が残っていた。わずかに暖かかった、あの床。


 「……なぜですか」と聞いた。


 「評価は公開できません」


 「感謝の言葉を述べました。タイミングも——」


 「退室してください」とガルドさんは繰り返した。表情は変わらなかった。


 俺は立ち上がった。足が少し重かった。膝から下が、ゆっくりとしか動かない気がした。


――――――――――


 廊下に出た。


 壁に背中を当てた。石の冷たさが背中を通ってくる。目を閉じた。


 なぜか。


 感謝の言葉を言った。タイミングを合わせた。内容も正しいはずだ。ガルドさんの手が止まった——それは何かを引き起こしていた。引き起こしていたのに、結果は「退室してください」だった。


 ということは——感謝の言葉はあくまで「必要条件」であって、「十分条件」ではない。


 他に何かある。何かが、まだ足りない。


 壁灯の光が廊下を照らしていた。受験者たちが扉の前で待っていたり、廊下を歩いていたり、遠くで話していたりする。みんな、今日の試験を終えた顔をしている。それぞれの結果を抱えて、廊下を歩いていく。俺だけが壁に背を当てて、石の冷たさを感じていた。


 「どうでしたか?」


 セナさんが廊下で待っていた。


 俺と目が合った瞬間、彼女の表情が「分かった」という顔に変わった。聞かなくても分かる、という顔だ。榛色(はしばみいろ)の目が少し細くなった。口の形が、わずかに「あ」になった。でも聞いてくれた。


 「……言いました。感謝の言葉を」と俺は言った。「でも落ちた」


 「え?」セナさんが眉を寄せた。「感謝の言葉を言っても落ちるんですか?」


 「落ちました」


 「……おかしくないですか」


 「おかしいです」


 二人で廊下に並んで立っていた。壁灯の光が石の廊下を照らしていた。遠くで扉が閉まる音がした。誰かの足音が遠ざかっていく。壁に貼られた試験の案内板に「第十七条・遅刻者の取扱」という文字が見えた。いつ来ても同じ文字が貼ってある。百十二回、この廊下を歩いた。百十二回、この文字を見た。


 「……不公平ですよね」とセナさんが言った。カバンの肩紐を指で触りながら。「言えば受かるはずのことを言って、落ちるなんて」


 「そうですね」


 「何が足りないんだろう」


 「まだ分かりません」と俺は言った。「でも、言葉はある。タイミングも分かった。あとは——何かが一つ足りない」


 「その一つが何なのか、分かる日が来るといいですね」


 「……来ると思います」と俺は言った。


 なんとなくそう感じていた。今日一日、全神経を集中した。ガルドさんの独り言を聞いた。5号室という新しい部屋に入った。初めての視線を受けた。口頭試問で感謝の言葉を言って、手が止まった瞬間があった。完全な失敗ではない。何かが動いている。


 「頑張ってください、次も」とセナさんが言った。


 「そうですね」と俺は言った。


 セナさんが少し微笑んで、廊下を歩いていった。カバンの重さで少し前傾みになりながら、一歩一歩地面を確かめるように歩く。その背中が遠くなって、角を曲がった。


 今日のセナさんに「また会いましたね」とは言えない。明日、この廊下に立っても、今日のことは消えている。今日の「どうでしたか?」は明日には存在しない。


 それが百十二回のやり方だ。


――――――――――


 試験場を出た。


 夕方の光が広場の石畳(いしだたみ)を斜めに照らしていた。試験館の大きな影が広場の東側に伸びていた。受験者たちが帰っていく背中がいくつも見えた。それぞれの方向に向かって、それぞれの足取りで。弁当箱を抱えた大きな背中も見えた——ポムさんだ。今日も落ちたのか、受かったのかは分からない。明日、また「俺、今回こそ受かる気がするっすよ!」と言いながら来るはずだ。


 俺は今日の整理をした。


 「感謝の言葉のタイミング」は把握できた。でもタイミングが合っていても落ちた。足りないものが、まだある。何か一つ。


 言葉は正しい。タイミングも合っている。あとは——内容が「本心から言われたもの」かどうか。


 そんな仮説が頭に浮かんで、すぐ消えた。確証がない。あるいは、声の大きさかもしれない。視線かもしれない。姿勢かもしれない。発音かもしれない。


 次のループで試す。何かを変えながら、少しずつ答えに近づく。それしかない。


 5号室のことも、頭の端に引っかかっていた。今まで一度も呼ばれたことのなかった部屋。裸足で入った床の温かさ。影の中の視線。あの人物が書類に書き込んでいた何か——それが何を意味するのかも、今日は分からなかった。


 何かがまだ足りない。感謝の言葉だけじゃない。もしかしたらタイミングか、表情か、声の大きさか。あるいは5号室と口頭試問の間に、俺の知らないルールがあるのかもしれない。百十二回目にして、俺はまだ答えに辿り着いていない。


 今日の死因:帰り道、疲れて考え込んでいたら、外縁区への入口で前から歩いてきた男の荷物の一部が飛び出していて、それに足を引っかけた。転倒。頭部打撲。


 情けなかった。でも今日は、それでいい気がした。


 ガルドさんの手が止まった——あの瞬間だけは、本物だった。


 また、朝が来る。百十三回目の朝が。


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