知りすぎていることが、邪魔になる日
百七回目の朝。今日は全部計算通りにやる。失敗した百六回の轍を踏まない。そう決めた俺が最初にやらかしたのは、開始三分後だった。
石段の三段目。
意識が戻ってくると、いつも同じ感覚がある。背中から這い上がってくる石の冷たさ、目蓋の裏が薄く光に溶けていく感じ、それから——あ、また朝だ——という、説明しようのない既視感。百六回でも百七回でも変わらない。同じ石段、同じ冷たさ、同じ光。俺だけが、前の百六回分を抱えている。
身体を起こしながら、頭の中で今日の計画をリストアップした。
セナさんが来るタイミング——待合室に入ってから約二分後、右の扉から。カバンを両手で抱えて、一歩入ってから立ち止まる。
ポムさんが来るタイミング——左の扉から、セナさんの三分後。弁当箱は布巾で縛っている。今日は卵焼き。これは百三回目で確認した。
ガルドさんのくしゃみ——実技の説明直前。傘は事前に準備する。三十七回目から必ず事前に開いておくようにした。
筆記試験——用紙の表裏確認、難しい問題を後回し、六十分で全問解答。これは七十二回目でようやく完璧にできた。
実技試験——壁の手前で「審査官の視線の切り替わり」を観察する。切り替わった瞬間に進む。
口頭試問——「礼節規定・第九条」の感謝の言葉のタイミングを探る。これだけまだ分かっていない。
これだけある。全部計算通りにやれば、今日は行ける。
俺は立ち上がった。七段の石段を上から下まで確認した——全部正常。各段の摩耗具合まで頭に入っている。三段目だけが他の段より少し色が薄い。毎朝ここで目を覚ます俺が摩耗させているのかもしれない、と八十回目あたりで思った。今はただの目印だ。
壁のシミを確認した。今日は猫に見えた。曇り空ではなく、今日は薄晴れだ。光の角度がちょうどよくて、シミの輪郭が柔らかく浮き上がっている。猫が前足を揃えて座っている形。
六十三回目の薄晴れの日は口頭試問まで行けた。今日は薄晴れだ。
「今日は行けそうな気がする」と俺は独り言を言った。
全部計算通りにやれる日の朝は、こういう感覚がある。胸の少し上あたりが、ほんの少し軽い。希望とまでは言えない。でも昨日の重さが、今日は一段階だけ薄れている。そういう感覚。
ベルさんに「また来たのか」と言われて「また来ました」と答えた。いつも通りだ。今日のベルさんは「百回目か」を言わない——通常の「また来たのか」だけだ。鍵の束がじゃらりと鳴った。ベルさんの手首が動くたびに、金属の音がする。何十回も聞いた音だ。今日もまったく同じ音がした。
俺は試験館に向かった。
計画通りに行くはずだった。
計算が崩れ始めたのは、開始三分後だった。
――――――――――
試験館の入口は、試験の日だけ独特の空気になる。
石造りの建物が左右に広がって、入口のアーチが人の背丈より二倍以上高い。アーチの上に刻まれた紋章が、光の加減によっては翼に見えたり、ただの装飾に見えたりする。今日の薄晴れの中では翼に見えた。
アーチをくぐると廊下が続く。石の床が磨き込まれていて、足音が高く響く。試験の朝は受験者の靴音が重なって、廊下がずっとどこかで鳴っている。俺の足音もその中に混ざる。百七回、混ざってきた。
待合室の手前の廊下で、俺は作戦を実行に移した。
ポムさんは左の扉から来る——入口の左の扉、それが百六回で確認した事実だ。だから左の扉の前に立って待った。扉が開いたら「来ましたね」と声をかければ、ポムさんが驚く前に先手を取れる。ポムさんの驚きリアクションをこちらから作れる。計算通りだ。
廊下の左側の壁に沿って立った。扉は鉄製で、蝶番が少し錆びている。開くたびに低くきしむ音がする——これも百六回で覚えた。
きし、という音がした。
扉が開いた。
「……何か用ですか」
初老の男性の受験者が出てきた。五十代くらい、薄い色の服を着た、おとなしそうな男性だった。小さな革鞄を片手に持って、少し前傾みになって扉をくぐって出てきた。俺の顔を見て——目が細くなった。警戒。「なぜここに立っているのか」という疑問と、「知らない人間」という判断が、その目に一瞬で現れた。
「……いえ、何も」と俺は言った。
「そうですか」と初老の男性は言って、静かに廊下を歩いていった。革鞄が腕の横でわずかに揺れた。足音が廊下の奥へ消えた。
「すみません! 通してくださいっすよ!」
後ろから声がした。
右の扉だった。右の扉から大きな体が押し込もうとしていた。橙色の服。布巾で縛った弁当箱。ポムさんだ。今日の入口は右だった。
ポムさんが廊下に出てきた。背が高くて肩幅がある。弁当箱を大事に抱えていた——布巾でくるんで、その上からさらに自分の腕でくるんで。俺を見た瞬間、少し立ち止まった。
「なんで前に立ってるんっすか? 入れないっすよ!」
「……失礼しました」
俺は扉から離れた。ポムさんが入ってきた。弁当箱をぶつけながら、少し息を弾ませながら。廊下の幅が少し狭まったような感覚がした——ポムさんが来ると、体積が増える。
計算一:失敗。今日のポムさんは右の扉から来た。
ポムさんが首を傾けながら俺を見た。「入口の前に立ってて、何してたんっすか?」
「……待っていました」
「誰を?」
「……誰も」
「誰も待ってないのに入口に立つんっすか?」
「……体操をしていました」
「体操?」
「……はい」
「嘘っすよ絶対」とポムさんは言った。確信を持った顔で言った。両腕で弁当箱を抱えたまま、顔だけ俺のほうに向けて。目が「お前は嘘をついている」と語っていた。
俺は何も言わなかった。
言える言葉がなかった。「実は百六回の経験からあなたがここから来ると思ったが今日は違った」とは言えない。言えないので「体操をしていました」と言った。これはこれで問題がある。
笑えない話だ。百七回目にして、入口を間違えた。
――――――――――
待合室の扉を開けた瞬間、石灰の匂いがした。
石の壁、板張りの床、横長の窓から入る薄い光。試験の朝だけ開放されるこの部屋は、いつも少し乾いた匂いがする。埃でも湿気でもない、石そのものの匂い。百七回嗅いだ匂いだ。
椅子が壁沿いに並んでいる。今日は四人の先客がいた。それぞれ自分の手元か床か窓の外を見ていた——誰も俺を見なかった。受験者はみんな、自分の今日の緊張の中にいる。俺だけが百七回分を持ち込んでいる。
椅子に座って、右の扉を見た。
セナさんはいつも待合室に入ってから二分後に来る。今日はどうか——俺は内心でカウントした。一分。二分。来ない。三分。まだ来ない。
今日は待合室に入る前に扉でもたついた分、カウントのタイミングが少しズレているかもしれない。修正すると——四分経って、右の扉が開いた。
まず見えたのは、大きなカバンだった。
肩に食い込む布製の、中身が溢れそうなカバン。そのカバンを両手で胸に抱えるようにして、栗色のショートカットの女が一歩踏み出した。入って、立ち止まる——それが最初の動作だ。部屋を見渡して、俺を見た。表情が動いた。不安と安堵が混ざったような、複雑な顔。今日のセナさんは少し緊張している。
「あ、もしかして前から座ってたんですか? 私より先に来てたんですか?」
「はい」
「すごいですね、気合が入ってますね!」とセナさんが目を丸くした。カバンを抱えたまま、前のめりになって俺の顔を覗き込む。
「……ありがとうございます」
計算二:タイミングが四分にズレた。「二分後」の計算は外れた。
でもセナさんとの会話は始まった。セナさんが俺の横の席に座ってきた。カバンを膝の上に置く。重い荷物が着地する音がする——どし、という鈍い音。中に本が何冊か入っている音がする。
「緊張してますか?」
「いえ」
「そうですよね、余裕そうですね! 私の方が緊張してます」
「大丈夫ですよ」と俺は言った。五十七回目のセリフだ。五十七回同じことを言った。言うたびに、これで大丈夫だったためしがないと思う。でも言わずにはいられない。
「ありがとうございます! 初対面でそんなに優しくしてくれると、逆に緊張するんですけど」
「……それはすみません」
「いえ! 嬉しいです!」とセナさんが笑った。口の両端がゆっくり上がって、目が細くなる。頬に小さなくぼみができる——ここまで毎回同じだ。「初めてお会いするのに不思議な感じがして、なんか前に会ったことあるような気がして——」
俺が固まった。
胃の底が少し動いた。「前に会ったことがある」——今日のセナさんはそれを言った。百七回のうちで、この言葉が出てきた回数を俺は正確には数えていない。でも頻度は上がっている気がする。
「……そうですか」
「変ですよね、初対面なのに」とセナさんが続けた。「なんか既視感がある人っているじゃないですか。あなたがそういう感じで」
「……います、そういう人」と俺は答えた。
「ですよね!」とセナさんが嬉しそうに言った。「すみません、変なこと言って」
「変じゃないですよ」
変じゃない。変じゃないどころか、それが一番正確な表現だ。俺たちは五十七回会っている。セナさんの意識には上がっていない。でも彼女の中の何か——感覚の層、身体の層——に、俺との五十七回が残っているのかもしれない。水が染み込んだ岩みたいに、見えないところに積もっている。
そう考えながら、俺はふと視線を上げた。
「——」
銀髪の男が、俺を見ていた。
――――――――――
一瞬のことだった。
待合室の入口近く——アシュは今日、いつもの奥の窓際ではなく、入口から三メートルほどの場所に立っていた。それだけで既に計算外だった。百六回、アシュは必ず奥の窓際に立つ。右の壁の最も奥の窓を背に、腕を下げて、静かに立っている。誰も見ない目で。観察しているのか何もしていないのか分からない目で、ただそこにいる。
今日は入口の近くにいた。
そしてその目が——俺の方を向いていた。
俺は気づいた瞬間に動けなくなった。
時間が伸びた気がした。
銀髪。部屋の光が細い束になってアシュの髪に当たっていた——輪郭が白く光って、影の側が暗い。視線は俺に向いていた。はっきり向いていた。ぼんやりと「そちらの方向を見ている」のではなく、俺という個人に焦点が当たっていた。
コンマ一秒。
いや——もっと正確に言えば、コンマ五秒。アシュの視線が俺の上で止まっていた時間。俺の目と、アシュの目が、同じ一点を共有していた時間。
それだけの時間の中で、俺の身体が反応した。肩が一ミリ上がった。背中の筋肉が固くなった。息が止まった。
視線が逸れた。
アシュが目を逸らした。俺から視線を外して、部屋の別の方向——窓の外——を見始めた。何も見ていなかったような顔で。何も起きていなかったような所作で。
でも確かに、見ていた。
俺は固まったまま、ゆっくりと息を吐いた。
百七回目で初めてのことだ。アシュ——銀髪の受験者——と目が合ったことがなかった。アシュは常に「見ていない」目をしていた。他の受験者を視界に入れない、あの研ぎ澄まされた目で。それが今日は俺を見た。
何故だ。
「……どうしました?」とセナさんが言った。
「いえ」と俺は答えた。「何でもないです」
何でもあった。でも説明できなかった。
計算三:アシュの位置と視線が変わっている。これは計算にない。
何かが、今日は違う。百七回で確認した「アシュという人物の行動パターン」が、今日の世界線では一点だけズレている。そのズレが何を意味するのか——まだ分からない。でも、無視できない変化だ。
――――――――――
ポムさんが椅子を引いて、俺の正面に座った。
弁当箱をテーブルの上に置いた。布巾の端を引っ張って、慎重に解いた——祭りの荷物を解くような丁寧さで。布巾がゆっくり広がる。
「今日は早めっすよ! 卵焼きが冷める前に食べてほしいっすよ!」
「いりません」
「ひどいっすよ! まだ中身も見てないのに!」
「卵焼きですよね」
ポムさんが止まった。
動きが完全に止まった。布巾の端を持ったまま、上体が固まった。顔が俺を見た——ゆっくりと、信じられないという速度で顔が向いてきた。
「……なんで分かるんっすか!?」
「……なんとなく」
「なんとなくで卵焼きを言い当てるやつがあるっすか!!」とポムさんが前のめりになった。弁当箱がテーブルの上で少しずれた。「お前は透視能力者っすか!! いや待って、弁当箱の中身まで見えるんっすか!?」
「見えてないですよ」
「じゃあなんで!?」
「なんとなくです」
「なんとなくの限度がありますっすよ!!」とポムさんが両手を上げた。布巾がテーブルから落ちた。「卵焼きって、なんとなくで出てくる言葉じゃないっすよ! 鮭とか、おかずとか、普通はそういう言葉が出てくるっすよ! なんで卵焼きって出てくるんっすか!!」
「……確かに」
「確かにじゃないっすよ!!」
「落ち着いてください」とセナさんが言った。
「落ち着けないっすよ!」とポムさんが言った。「見ず知らずの人間に弁当の中身を言い当てられたんっすよ! 落ち着けるわけないっすよ!!」
ポムさんの声が大きくなって、待合室の他の受験者が数人こちらを見た。俺は視線を感じた。いつも静かな待合室が、今日はポムさんのせいで騒がしくなりつつあった。
「……先読みが早すぎた」と俺は内心でつぶやいた。
計算四:先読みの使い過ぎで不審者認定された。
「さっき正面ドアのところにも立ってましたよね?」とセナさんが言った。
「体操をしていました」と俺は答えた。
「体操……」とセナさんが繰り返した。「なんか、今日のあなた、いつもより動いてません? さっきから」
「……今日だけということはないですが」
「今日だけっすよ!」とポムさんが言った。「さっきから先回りしてくるっすよ! 俺のこと全部知ってる感じっすよ!」
「知らないですよ」
「じゃあなんで卵焼きって分かるんっすか!!」
「なんとなくです」
「なんとなくで卵焼きが分かるやつはいないっすよ!!」とポムさんが叫んだ。布巾をテーブルの上に叩きつけた。弁当箱が数センチ動いた。「なんとなくで言い当てられるのは名前か血液型か星座くらいっすよ! 弁当の中身はなんとなくじゃ無理っすよ!!」
「星座はなんとなくで当たりません」とセナさんがツッコんだ。
「そこっすか!?」とポムさんが振り返った。「星座の話をしてるんじゃないっすよ! 卵焼きの話をしてるんっすよ!!」
「卵焼きはなんとなくで当たらないですよ、たしかに」とセナさんが頷いた。
「そうっすよ!!」
「でも彼が言い当てたことは変わらないですよね」
「それが問題っすよ!!」
俺は二人のやりとりを見ながら、静かに思った。
これが「先読みを使う」の弊害だ。先読みは「知っている」ことを活かすためにある。でも「なぜ知っているのか」が説明できないと、知識は疑惑になる。
笑えない話だ。百七回試みて、弁当の中身を言い当てることの不自然さに気づかなかった。
「俺のことを事前に調べてたんっすか!?」とポムさんが言った。
「調べていません」
「じゃあ何で!?」
「……縁起担ぎです。今日の朝、卵焼きを食べたので」
「朝に卵焼きを食べたら俺の弁当が分かるんっすか!?」
「……は? ちょっと待ってください、俺もどこかで論理が飛んだと思います」とセナさんが言った。
「飛んでるっすよ!!」とポムさんが言った。「最初から飛んでるっすよ!!」
計算五:「ポムさんは三度目の声かけで諦める」という計算は崩れた。今日は七度目まで続いた。先読みを「使う」はずが、先読みを「守る」展開になっている。余計に消耗する。
――――――――――
ガルドさんが現れた。
廊下から足音が来た——均一な間隔の、きっちりとした足音。試験官はこういう歩き方をする、と百六回で学んだ。乱れない。急がない。一定だ。
待合室の扉が開いた。
白と黒が混じった短髪に立派な口髭。紺色の制服には一本も皺がない。背筋が真っ直ぐ——物差しで測ったような真っ直ぐさだ。眼鏡のレンズが光を反射して、目が一瞬見えなくなった。いつも通りの登場だ。
俺は早速傘を手に持った。実技の説明の前に来るはずだ——いや、今日は少し変だ。鼻の頭が赤い。もしかすると来るのが説明の最中ではなく、最初に来る可能性がある。傘を持つだけでは足りないかもしれない、今日は最初から開いておくべきか——
「受験者全員に告げる。受験規則第一条により——」
ガルドさんが口を開いた。
今だ。俺は傘を持ちながら、開こうとした。
「ふぁっくしょん!!」
開く前に来た。
「あ……っ」
俺は傘を手に持っていたが、開いていなかった。ガルドさんの全身が前傾になって、上体が前に倒れる勢いで——廊下に爆発した。水分を含んだ大きな音が部屋中に広がった。一瞬で待合室全体が濡れる感覚。顔に当たる細かい粒子。
俺が傘を開くより先に、衝撃が来た。
「……うわっ」とポムさんの声がした。
「……失礼」とガルドさんが言った。なかったことのように、そのまま説明を続け始めた。「——筆記試験においては、用紙の表裏を必ず確認すること」
俺は傘を持ったまま、ずぶ濡れだった。傘が役に立たなかった。百回以上でこれが初めてだ——今まで完璧に防いできた。鼻の頭の赤さが「説明の前」を示すとは思っていなかった。それは「風邪が悪化しているサイン」であって、「くしゃみが前倒しになるサイン」ではないと思い込んでいた。
「……なんで傘持ってるのに防げないんっすか」とポムさんが言った。ポムさんも被害を受けていた。服の肩あたりが濡れていた。弁当箱に急いでカバーをしていた。
「間に合いませんでした」
「毎回防いでたっすよ!?」とポムさんが止まった。
俺も止まった。
「……毎回、と言いましたか」
「あ」とポムさんが少し考えるような顔をした。眉の間に皺が寄って、首が少し傾いた。「……いや、なんとなく、そんな気がして」
「なんとなく」
「……うん。なんか毎回防いでる印象があるっすよ。なんでかは分からないっすけど」
ポムさんが「印象がある」と言った。記憶と印象は別物だ。意識として覚えていなくても、身体の何かに刻まれている——セナさんが「既視感がある」と言ったのと同じだ。記憶は消えている。でも印象が残っている。百六回分の俺が、ポムさんの身体のどこかに、かすかな痕跡として存在しているのかもしれない。
消えたと思っていた世界線が、完全には消えていない。
「計算六:ガルドさんのくしゃみは今日は最初に来た。完全に読めなかった」と俺は心の中で記録した。
今日は計算六のうち、五つを外した。
俺はびしょ濡れのまま、ガルドさんの続きを聞いた。
――――――――――
筆記試験は通過した。
これだけは計算通りだった。問題の難易度、出題傾向、時間配分——百回以上で得た知識は、筆記に関してだけは完璧に活きた。答案を書きながら、俺は半分別のことを考えていた。アシュの視線のことを。
実技試験の中庭——曇りではなく薄晴れの今日は、中庭が少し明るかった。
壁に囲まれた空間に斜めの光が入って、石畳が細かく影と光を作っている。影は石の凹凸に沿って走っていた。光は平らな面だけを明るく染めて、凹んだ部分は暗いままだ。その繰り返しが、中庭の床に細かいパターンを作っていた。
受験者が三人の審査官の前でそれぞれの課題に挑んでいた。声が低く聞こえる。石畳に足音が吸われていく。
俺は自分のゾーンに向かった。
横を通るとき、隣のゾーンを横目で見た。銀髪の男がいた。アシュだ。今日も来ている。課題に向かって立っていた——背中だけ見えた。審査官との間の空気が、他のゾーンと違う。審査官がアシュを「評価する」目ではなく「観察する」目で見ていた。測っているような、それとも記録しているような目つきだった。
何者なのか、という疑問が改めて浮かんだ。
制服の胸ポケットに入っている青いカード——試験会場に入るときに一瞬見た。青は2級資格者の色だ。「すでに一般資格を持っている」ことを意味する。ならばなぜここで受験しているのか。上の等級を目指しているのか、それとも別の目的があるのか。
考えながら自分のゾーンに入った。課題が始まった。
今日は計算と実際のズレが重なって、変な自由度が生まれていた。「これはこう動くはず」という先読みが外れ続けたせいで、俺は途中から計算を捨てて直感で動いていた。
壁。来た。審査官の目が切り替わる——「見ている」から「見ていない」へ。その瞬間は、百六回で体に覚え込ませた感覚がある。空気が少し変わる。審査官の息遣いが変わる。
でも今日は、直感で、そこから少し前に進んだ。
計算ではなかった。身体が動いた。なぜ動けたのかは後で考えれば分かるかもしれない。でも今この瞬間は、そのまま動いた。
「次の方」と審査官が言った。
退いた。でも今日は昨日より少し遠いところで止まった気がした。計算が崩れた分、「いつもと違う動き」をしたせいかもしれない。先読みを捨てたら、先読みが届かなかった領域に入れた。
知識は使い方次第だ。今日初めて、そう思った。
――――――――――
口頭試問の部屋の前まで来た。
廊下の石の壁が両側に伸びている。薄晴れの光が廊下の端から入ってきて、石の床に長い影を作っていた。試験室の扉が等間隔に並んでいる——1、2、3、5、6、7、8、10。4と9が欠番だ。なぜ欠番なのか、百七回で一度も誰かに聞いたことがない。いつも聞こうと思って、忘れる。
俺の今日の部屋は3号室。
扉の前に立った。木製の扉は厚くて、向こう側の音がほとんど聞こえない。把手は鉄製で、少し冷たかった。深呼吸した。
肺に空気が入ってきた。廊下は石灰と、かすかに外の風の匂いがした。
頭の中でリハーサルをした。質問の内容は把握している。「なぜ資格が必要か」「なぜ受験しているか」「なぜ諦めないか」——答えは準備してある。声のトーンは落ち着かせて、視線は試験官の目元あたりに向けて。身振りは最小限に。
最後に感謝の言葉を——
感謝の言葉のタイミング。「礼節規定・第九条」に書いてあるはずだ。アシュが持っている本の背表紙で、今日ではなく数回前のループで見た。でも内容はまだ知らない。本がどこで手に入るかも分からない。正確なタイミングが分からないまま、ここまで来た。
入室した。
部屋は思ったより小さかった——毎回思う。石の壁が四方に迫って、天井が低い。窓が一つだけあって、外の薄晴れの光が入っていた。その光の中で、試験官が座っていた。
ガルドさんが座っていた。書類を手に持って、眼鏡越しにこちらを見ていた。
「座ってください」
俺は座った。木の椅子が少し軋んだ。
「名前を確認します。アズ・カリン?」
「はい」
「では始めます」
質問が始まった。俺はよどみなく答えた。
「なぜ資格が必要だと思いますか」
「誰もが可能性を証明できる仕組みが必要だと思います。資格がそのための道具だと理解しています」
ガルドさんが書類に何かを書いた。ペンが紙の上を走る音がした。書いて——止まった。
「なぜ受験を続けているのですか」
「可能性があると思っているからです。失敗を重ねるほどに、次で正解できる可能性を信じています」
これは嘘ではない。百七回の俺の正直な気持ちだ。希望が確信になっているのではない。信じることをやめられないでいる、というのが正確だ。でもそれは同じことかもしれない。
「……以上でよろしいですか」
ガルドさんが書類を見ながら言った。ペンが書類の上で止まった。
俺は「間」を測った。今がそのタイミングか——書類を閉じようとする前か、閉じた後か——
「試験の機会に——」
「——退室してください」とガルドさんが言った。
俺の「感謝の言葉」の最初の一文字と、ガルドさんの「退室してください」が完全に重なった。一ミリも間がなかった。
「……あ」
「退室してください」
「感謝の言葉を——」
「退室してください」とガルドさんは繰り返した。表情は変わらなかった。書類をきっちりと閉じた。眼鏡のレンズに光が反射した。その向こうの目が見えなかった。
失格だ。
俺は立ち上がった。椅子の脚が床を引っ掻く音がした。足が少し固かった。膝関節が、一瞬だけ笑った。重心を前に移して、なんとか立ち上がった。
「失礼しました」と俺は言った。
「退室してください」とガルドさんは言った。
廊下に出た。
扉を閉めた。木の扉が静かに閉まった。廊下の石の壁が両側に立っていた。薄晴れの光は廊下の端にある。俺はその光から遠い場所に立っていた。壁に背中を当てた。石の冷たさが服越しに伝わってきた。
息を吐いた。
今日もか。
口頭試問にはたどり着いた。答えも全部言えた。ガルドさんの目を見て、声を落ち着けて、言葉を選んで。でも落とされた。理由は「感謝の言葉のタイミング」だ。俺は確信していた。タイミングが一瞬だけズレた。「以上でよろしいですか」と言われた後では、すでに遅い。その前の何かのタイミングに、正解がある。
「第九条」——それが何なのかを、まだ知らない。
――――――――――
「どうでしたか?」
セナさんが廊下で待っていた。
入口から三メートルほどの場所に立っていた。栗色の短髪が廊下の光の中で少し明るく見えた。大きなカバンを両手で胸に抱えて、少し前のめりになって俺の顔を覗き込んでいた。俺が部屋から出てくるのを、待っていたらしかった。
「……落ちました」
「え、でも最後まで行きましたよね?!」とセナさんが前のめりになった。
「はい。最後の最後で、何かが足りなかった」
「何が足りなかったんですか?」
「タイミングです」と俺は言った。「言葉はあった。でもタイミングが……一瞬ズレた」
「タイミングって、何の?」
「……礼節です、たぶん」
セナさんが少し考えた顔をした。眉の間に薄く皺が寄った。「礼節って、何ですか? 試験に礼節が関係するんですか?」
「規則に書いてあるはずです。口頭試問の礼節規定——どこかに、正しいタイミングがある」
「……聞いたことなかったです、そんな規則」とセナさんが言った。
「みんな知らない規則なのかもしれません」
「それ、不公平じゃないですか」
「……そうですね」と俺は言った。
セナさんの声が落ちた。「……私も、最後まで行けなかったです。実技で引っかかって」
「実技は難しいですよね」
「なんで今日もそんなに落ち着いてるんですか」とセナさんが少しだけ笑った。笑いかけて、途中でやめた。「……落ちたのに」
「落ち方に慣れてきました」と俺は言った。
これは本当のことだ。百七回落ちると、「また落ちた」という感覚が、最初とは全く違う形になる。最初の頃は床が抜けるような感覚だった。五十回目あたりでは石が積み重なる感覚になった。今は——慣れている、と表現するしかない。慣れて、でも諦めていない。その二つが同時に存在している。
――――――――――
廊下の出口に向かいながら、ポムさんが「また次回っすよ!」と声をかけてきた。
ポムさんは廊下の途中で待っていた。弁当箱を布巾でくるみ直して、腕に抱えて、俺とセナさんが来るのを待っていたらしかった。橙色の服が廊下の石の壁の色と対比して、妙に明るく見えた。
「お二人とも落ちたっすよね?」とポムさんが言った。
「はい」と俺は答えた。
「俺も落ちたっすよ! 実技で転んだっすよ!」
「……大丈夫でしたか」
「大丈夫っすよ! 転ぶのには慣れてるっすよ!」とポムさんが笑った。大きな笑いだった。廊下に響いた。「でも次は絶対通るっすよ! 弁当も今日は卵焼きを入れてきたし、縁起がいいっすよ!」
「卵焼きは縁起がいいんですか」とセナさんが言った。
「卵は丸いから、物事が円滑に進む縁起物っすよ!」とポムさんが言った。
「じゃあ俺も食べておけばよかったです」と俺は言った。
「言ってくれれば分けたっすよ!」
「さっきは断ったじゃないですか」とセナさんが言った。
「それはそれっすよ!」
笑えない話だ。卵焼きを断って試験に落ちた。
俺は手を振り返してセナさんとポムさんと別れた。
――――――――――
出口に向かって廊下を歩いていると、前方に銀髪の背中が見えた。
アシュだった。廊下の先をゆっくり歩いていた。右手に何か小さいものを持っている——薄い本だ。歩きながら読んでいた。珍しい。いつもの彼は静かに佇んでいて、歩きながら何かをするタイプには見えなかった。百六回で「アシュは静止している人物だ」と認識していた。
俺はアシュの歩調に合わせて歩いた。追い越さずに、距離を保ちながら。視線を本に向けた。
アシュの右手が微妙に角度を変えた。本の背表紙が廊下の光に向いた——一瞬だけ。
「口頭試問における礼節規定——第九条」
俺の足が止まった。
一秒だけ止まった。文字が目に入ってきた——俺の中に入ってきた。「口頭試問における礼節規定」、そして「第九条」。
アシュは気づかず歩いていった。銀色の髪が廊下の先へ遠ざかっていく。右手の本の背表紙が暗くなって見えなくなった。
「……第九条」
俺は頭の中でその言葉を刻んだ。
足りなかったのは技術じゃない。礼節だ。第九条——それが何なのかは、次のループで調べればいい。同じ本がどこかにある。あの本をアシュが持っているなら、試験機構の受付か、待合室か、どこかで手に入れられる可能性がある。
アシュが今日あの本を読んでいるということは——アシュもその規定を知っている、あるいは調べている、ということだ。
なぜアシュが第九条を調べているのか。
なぜ今日のアシュは俺を見たのか。
俺は歩き始めた。
――――――――――
帰り道は薄晴れのまま続いた。
試験場通りを歩きながら、今日の整理をした。
計算は六回試みて、五回外れた。先読みがうまく使えなかった——でも口頭試問まではたどり着いた。逆に、計算を諦めて直感で動いた実技で、いつもより遠くまで行けた。知識は使い方次第だ。「計算通りに動く」ことが必ずしもベストではない。知識を「先読みの台本」として使うと、台本が外れたときに何も残らない。知識を「地図」として使えば、地図通りに進まなくても地形は分かる。
そういうことかもしれない。
通りには夕方前の光が差し込んでいた。試験の日の通りはいつも少しざわついている。合否が出た直後で、受験者たちの感情がそのまま空気になって漂っている。誰かが笑っていた。誰かが黙っていた。
アシュとの目が合った——百七回目で初めて。今日の世界線では、アシュが俺を見るというズレがあった。なぜ今日だけ見たのか。アシュの中で何かが変わっている可能性がある。あるいは、百七回のループの積み重ねが、アシュに何か届いている可能性がある。ポムさんが「印象がある」と言ったように。セナさんが「既視感がある」と言ったように。
そして——「口頭試問における礼節規定・第九条」。
次のループで調べる。その一点が、今日一番の収穫だ。百七回かかった。百七回かかって、ようやく「何が足りないか」の名前が分かった。
石畳の継ぎ目を踏まないように歩いた。出窓に気をつけながら歩いた。帰り道の危険を全部潰しながら歩いた。
広場の出口のところで、屋台の台に足をぶつけた。
「……あ」
勢いよく転んだ。石畳に膝と手をついた。
「……」
顔を上げると、屋台のおばさんが「大丈夫ですか」と言っていた。
大丈夫ではなかった。
膝を打って、立ち上がろうとして、足元が滑って、頭が石畳に当たった。
意識の端で、百七回分の死に方の中でも間抜けさ上位だと思った。第九条を知る直前に、屋台で転ぶ。これが俺の百七回目の死に方だ。
また、朝が来る。
百八回目の朝が。
次は第九条を調べる。それだけ分かっていれば、足りる。




