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ズレて消えた不合格通知は、届かない  作者: AItak


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3/8

知っているのは、俺だけでいい

 百三回目の朝。


 目を開けると、曇り空だった。


 石の冷たさが背中を通って意識を起こしていく——いつものプロセスだ。でも今日の空は違う。百二回目の朝は晴れていた、その記憶がまだ鮮明に残っている。青い空だった。雲が少なくて、夜明け前でも遠くの建物の輪郭がはっきり見えた。


 今日は雲が低い。灰色の厚い雲が空の大半を覆っていて、遠くが滲んでいる。雨になるかもしれない。


 俺は立ち上がった。三段目から七段目まで、石段の感触を確認した。全部正常だ。段数は七段。変わっていない。壁のシミに目をやった——今日は何に見えるか。鳥のような、魚のような、それとも全く違う何かのような形が、ぼんやりと曇り空の光の中にある。しっかりとは見えなかった。曇りの日は光の角度が変わるので、シミの形の「読み」が難しい。


 細かいことが気になるようになってきた、と俺は思った。


 百回を超えてから、それが強くなった。一枚の石畳(いしだたみ)の色。木の扉の歪み具合。空の色。誰かが来る時刻。そういうものを毎朝確認するようになっていた。なぜかは明確に説明できない。「いつも通り」かどうかを知りたい——という欲求が、気づいたら習慣になっていた。


 「いつも通りじゃない」ことを知ることが、今の俺にとって最も重要な情報だからだ。


 百三回。人間が三年弱かけて経験することを、俺は百三日で生きている。いや、「生きている」という言葉が正確かどうかも分からない。同じ一日を百三回繰り返しているのだから、俺の「経験」は一日分に過ぎない。でも記憶は百三日分ある。この矛盾が、ときどき頭の中で揺れる。俺は何年分生きたのか。俺は何歳なのか。試験の書類に書いた「二十一歳」は本当に正しいのか。


 空が少し明るくなっていた。東の方角から白みが差し込んでくる。今日も試験の朝だ。


――――――――――


 「また来たのか」


 ベルさんはいつもの位置にいた。試験館の入口から少し右横。くすんだ青色の制服に、腰から鍵の束をぶら下げて。


 俺はベルさんの顔を見た。穏やかな、いつも通りの顔だ。「百回目か」を言った百回目のベルさんとは違う。今日のベルさんは何も知らない。


 「ええ、また来ました」と俺は答えた。


 「お前、なんか毎回顔が違うな」


 俺が少し止まった。


 「……そうですか?」


 「なんか毎回少し古びた顔をしてくる」とベルさんが笑った。細い目のシワがさらに深くなる笑い方だ。「悪い意味じゃないぞ。味が出てきたってことだ」


 「毎回」とベルさんが言った。


 「毎回少し古びた顔」。


 俺は言葉を選ばずに聞いた。「……毎回、とはどういう意味ですか」


 ベルさんが首を傾けた。「? 毎回来るたびに、って意味だよ。何回か来てるだろ? そういう顔してる」


 「……ああ、はい」


 普通の意味だった。ベルさんの「毎回」は、今日は普通の「何度も」という意味だった。昨日は「毎年→毎回」というガルドさんの言い間違いに敏感になりすぎていた。今日の俺は「毎回」という言葉に過剰に反応している。


 少し落ち着いた方がいい、と思った。


 「そうですかね」と俺は言った。


 「根性あるな」とベルさんは笑った。鍵の束がじゃらりと揺れた。


 俺はベルさんを見ながら、昨日——百二回目——に「古びた顔」と言われたかどうかを考えた。百二回目の朝のベルさんとのやり取りを引っ張り出してみる。「根性あるな」は言われた。「毎回少し古びた顔」は——言われたかもしれない。言われなかったかもしれない。確証がない。


 百三回分の記憶は、全部が同じ解像度で残っているわけじゃない。衝撃的だった出来事は鮮明だ。でも「いつも通り」だと思って流してしまったやり取りは、だいぶ曖昧になっている。


 今日から、もっと細かく記録していこう——と思いかけて、物は引き継げないことを思い出した。


 全部、頭に入れるしかない。


――――――――――


 待合室に入ると、すでに十人ほどの受験者がいた。


 松明型の壁灯が揺れている。今日は曇りなので外の光が少なく、壁灯の光が主になっている。その光の中で、受験者たちの顔が少しだけ違う色に見えた——橙がかった、柔らかい光の色に。石の壁が吸い込む光と反射する光の割合が、晴れの日と曇りの日とで違う。俺はそれに気づいたのは六十回目くらいのことだった。今日で百三回目だが、毎回少しだけ「光の質」が違う。


 俺は真ん中の列の端の椅子に座った。いつもの位置。右の扉に向けて少し角度を取っている。


 「俺、今回こそ受かる気がするっすよ!」


 声が左の扉から来た。


 今日もポムさんは左の扉から来る。俺は今日はちゃんと左の扉を見ていた。橙色の服、大きな体、弁当箱を右手に持って。丸い顔が笑っていて、汗がうっすら額にある。左の扉を入ってくる動きはいつも少しぎこちない。体が大きいので、扉の幅に気を遣っているせいだ。


 「また来ましたね」と俺は言った。


 「そうっすよ!」とポムさんが言った。「あれ、知り合いっすか?」


 「いえ」


 「でも言い方がなんか知ってる感じっすよ?」


 「そんなことはないですよ」


 ポムさんが俺の近くの椅子——正面でも隣でもなく、斜め前の椅子——に座った。弁当箱を膝に置いて、布巾を解き始めた。


 「今日は——」


 「いりません」


 「まだ言ってないっすよ!?」


 「ありがとうございます。でもいりません」


 「なんで礼を言いながら断るんっすか!?」


 俺はポムさんに対して、内心で軽く謝った。正確には、今日の弁当は卵焼きのはずだ、という知識を使って先手を打っている。ポムさんに罪はない。でも九十九回目の「享年二十二歳、死因・卵焼き」の記憶は、まだ俺の頭の中で鮮明に生きている。あの日の朝、ポムさんの弁当を「いただきます」と言って受け取った。一口目は普通だった。二口目で喉に詰まった。三口目はなかった。試験を受ける前に俺の百二回目は終わった。卵焼きで。


 ポムさんが「誰か待ってるんっすか?」と言った。


 「いえ」


 「なのに扉ちらちら見てるっすよ?」


 「確認しているだけです」


 「何を確認してるんっすか」


 「……なんとなく」


 「なんとなくが多いっすよあなた! それ全部なんとなくじゃないっすよ絶対!」


 ポムさんはなぜか確信を持っていた。俺の「なんとなく」が全部「なんとなくじゃない」と気づいている。鋭い、と俺は思った。毎回のやり取りでなんとなく思っていたが、今日明確に思った。ポムさんは、見た目の印象よりずっと「人を見る感覚」が鋭い。


 「じゃあ、俺と一緒に待ちますっすよ!」とポムさんが言った。


 「いえ、俺は何も——」


 「いいんっすよ! 待つのは一人より二人の方がいいっすよ! 右の扉、俺も見てますっすよ!」


 ポムさんが椅子ごと体を右の扉に向けた。本当に右の扉を見張り始めた。弁当箱を膝の上に置いて、両手で膝を押さえて、前のめりで右の扉を見ている。


 「……ありがとうございます」と俺は言った。断るのを諦めた。


 二人で右の扉を見た。一分経った。二分経った。三分経った。まだ来ない。いつもならすでに来ているはずだ。


 「来ないっすね」とポムさんが言った。


 「そうですね」


 「誰を待ってるんっすか?」


 「……誰も待っていません」


 「右の扉を二人で見張ってる場合じゃないっすよ!!」


 五分経った。


 「あの人っすよ」とポムさんが突然言った。声が少し下がった。


 俺が顔を上げると、ポムさんが待合室の入口の方を見ていた。俺もそちらを見た。


 部屋の入口——扉ではなく、廊下からの入口——に、一人の男が立っていた。


 中央区の石造りの廊下を背景に、男はそこに立っていた。他の受験者たちとは明らかに距離が違う——物理的な距離ではなく、「存在している場所」が違う感覚。背が高い。細身で、白を基調にした清潔な服は仕立てが良く、よれがない。整然と横に流れる銀色の髪——光の加減で白にも見える、絹のように落ちているその髪が、壁灯の橙色の光の中で静かに輝いている。切れ長の薄い灰色の目が、室内を静かに見渡していた。「人を観察する目」だが、それは「品定めをしている目」でも「興味を持っている目」でもない。何かを「確認している」目だ。受験者たちを視線がなぞるが、一人一人に留まらない——全体の構図を把握している目。その視線が一巡して、そのまま壁際へ向かう。


 「光ってるっすよ、あの人」とポムさんが小声で言った。「なんか、光ってるっすよ。身体から」


 「光ってはいないですよ」


 「でも輝いてるっすよ」


 「……比喩ですか」


 「雰囲気が輝いてるっすよ! 誰ですかあの人?!」


 俺は銀髪の男を見た。百二回目にも会っている——実技試験の中庭で。目が合って、数秒、どちらも動かなかった。あの人物だ。


 名前はまだ知らない。でも今日で二度目の登場だ。「百二回目のループから登場し始めた」のか、それとも以前から来ていて俺が気づいていなかっただけなのかは、まだ分からない。百一回分の記憶を引っ張ってみる——あの銀髪が、過去のどこかにあったか。ない、と俺は思った。少なくとも俺の記憶には引っかかっていない。新しい変数だ。


 銀髪の男が室内の端——左の壁際——に向かって歩いていった。壁を背にして立った。そこから動かない。受験者たちを眺めているが、誰とも話さない。


 「声かけてみるっすか?」とポムさんが言った。


 「やめておきましょう」


 「なんでっすか! 俺は仲良くしたいっすよ!」


 「それはポムさんの自由ですが、俺はやめておきます」


 「冷たいっすよ!!」


 その間に、右の扉が開いた。


 八分経っていた。


 栗色のショートカット、大きなカバン——少し息が上がっているセナさんが、少し速い足取りで入ってきた。「すみません、遅くなりました!」と、誰にともなく言った。


 「大丈夫ですか」と俺は言った。


 セナさんが俺の顔を見た。澄んだ榛色(はしばみいろ)の目が、少し驚いている。「あ、初めましてですよね? は、はい、ちょっと道が混んでいて」


 「怪我とかは」


 「……え? ないですよ?」


 「よかったです」


 セナさんが首を傾けた。今日で二度目の「初対面」だが、今日の彼女には初対面の俺だ。「なんで怪我を心配するんですか、初対面なのに」


 「なんとなく」と俺は言った。


 「なんとなく……」


 セナさんが俺の横の椅子に座った。少し困惑した顔のまま、でもカバンを下ろして肩の重さから解放されたような表情になった。ほっとした顔。肩の線が、ほんの少し下がる。それだけで全身から力が抜けるような、あの感じ。重たいものを長く持ちすぎた人間の、解放の瞬間の顔だ。


 「ありがとうございます。なんとなくでも」


 「六分遅れましたよね」と俺は言った。


 セナさんがまた止まった。「え……初対面なのに、なんで私がいつ来るか知ってるんですか」


 「……気がしただけです。すみません、変なことを言いました」


 「変っていうか……」とセナさんが首を傾けたまま言った。「なんか、あなた不思議ですね」


 「よく言われます」


 「そうなんですか」


 俺の内心:(一度も言われたことはない)


――――――――――


 ポムさんが銀髪の男に話しかけに行った。


 俺は遠目に見ていた。


 ポムさんが壁際に立つ銀髪の男に近づいて、何か言った。銀髪の男が顔を向けた。ポムさんが弁当箱を差し出した——断られた。ポムさんがまた何か言った——また断られた。ポムさんが肩を落として戻ってきた。


 「断られたっすよ」とポムさんが言った。


 「そうですか」


 「でも感じは悪くないっすよ。ちゃんと断ってくれたっすよ。静かな人っすよ」


 「そうですか」


 「あなたと違って、ちゃんと目を見て断ってくれたっすよ」


 「……俺も目を見ていますよ」


 「なんか焦点が遠いっすよ、あなたの目は。いつも何か別のことを考えてるっすよ」


 ポムさんは鋭い。不思議なほど鋭い。


 セナさんが「あの人、知り合いなんですか?」と銀髪の男の方向を見ながら言った。


 「いいえ」と俺は答えた。「でも気になる存在ではあります」


 「なんでですか?」


 「……理由は言えませんが」


 セナさんが少し考えた顔をして、また銀髪の男を見た。「確かに、目を引く感じがしますよね。普通の受験者って感じじゃなくて」


 「そうですね」


 「受かりに来てるんじゃなくて、何かを見に来てる感じがします」


 俺は驚いて、セナさんを見た。「……よく分かりますね」


 「なんとなく、ですよ」とセナさんが笑った。「あなたの言葉を借りました」


――――――――――


 ガルドさんの説明が終わって、試験が始まった。


 今日のガルドさんは「毎年来るやつは落ちる、という話があるが」と言った。「毎年」だった。昨日の「毎回」は今日は戻っている。


 筆記試験を通過して、実技試験の中庭に出た。


 中庭——四方を石の壁に囲まれた、上だけ開いた空間。今日の曇り空が四角く切り取られて見えた。いつもより光が少ないせいで、中庭が少し暗い。石畳(いしだたみ)の継ぎ目に溜まった雨水の跡が、光を受けて細い線を描いている。審査官たちが各ゾーンの丸椅子に座っていた。


 俺は自分のゾーンに向かった。


 向こうのゾーンを見ると、銀髪の男が立っていた。


 審査官が彼を見ている目が、他の受験者を見る目と違う。明らかに「別格」として見ている目だ。彼が動くたびに、審査官の視線の質が変わる。「チェックしている」のではなく「感嘆している」目に近い。


 俺のゾーンで試験が始まった。


 こなした。こなした。壁。


 いつも通りの壁だった。審査官の目が「見ていない」目になる、あの切り替え。今日も越えられなかった。


 試験が終わって、中庭を出るとき、銀髪の男が俺の隣に来た。


 「無資格者がここまで来るのは珍しいな」


 声が聞こえた。こちらに向けられた言葉かどうか、分からない。銀髪の男はこちらを見ていない。ただ、俺の位置に向かって言っているように聞こえた。


 「……そうですか」と俺は答えた。


 「独り言だ。気にするな」と彼は言った。視線が前を向いたまま。「——でも、お前は何度も来ているな」


 「……何度か来ています」


 「どこかが違う」と彼は言った。静かな声だった。評価しているような、観察しているような声。「粘り強さか、執念か、あるいは」——少し間を置いた——「他に行き場がない、か」


 「……俺は、他に行き場がないです」


 答えたのは、正直に答えた方がいいと思ったからだ。この男に嘘をついても意味がない、という感覚があった。理由は分からない。でも確かにあった。百三回生きてきた俺の、何かが、この男を「嘘が通じない人間」として判定した。


 「そうか」と彼は言った。それ以上は何も言わなかった。


 廊下の分岐点で、彼はまっすぐ歩いていった。俺は別の方向に向かった。


 名前を聞かなかった。次のループで聞けばいい——そう思って、止まった。


 次のループの彼は、今日のことを覚えていない。


 俺だけが今日を覚えている。


 それでいい、とこの瞬間はそう思った。


――――――――――


 試験はいつも通り実技で終わった。


 試験場の前の広場に出ると、曇り空が少し明るくなっていた。雨は降らなかった。広場の石畳(いしだたみ)が灰色の光を反射して、少しだけ光って見えた。


 「また来年っすよ!」とポムさんが言った。入口の脇で待っていた。橙色の服に、弁当箱を腕に引っかけて——蓋が少し浮いている。何度も蓋を開けたせいだ。


 「そうですね」と俺は答えた。


 「落ち込まないっすよ! 俺、十五回落ちてるっすよ! でも諦めないっすよ!」


 「十五回」と俺は繰り返した。


 「毎回来てるっすよ! 継続は力っすよ!」


 ポムさんが手を上げた。「また次回っすよ!」と言って、広場の方へ歩いていった。大きな体が夕方の光の中で遠ざかっていく。


 俺はその背中を見ていた。


 「十五回落ちている」。ポムさんの全部の記憶は十五回分だ。


 俺は百三回来ている。ポムさんの十五回より多い。でもポムさんは毎回、ここに来ている。諦めていない。「今回こそ受かる気がする」と毎回言って、毎回来ている。その繰り返しをポムさんは「継続は力」と呼んでいる。


 ポムさんにとっての百三回は、ポムさんの百三回ではない。でも俺の百三回は、確かに俺の百三回だ。


 橙色の背中が広場の人混みに消えた。


――――――――――


 「お兄さんがいるって聞きましたが」


 試験場を出て少し歩いたところで、俺はセナさんにそう言った。


 セナさんが止まった。


 「……え? なんで知ってるんですか」


 しまった、と思った。「いえ——」俺は言い訳を考えた。「そんな気がしただけです。間違っていたら——」


 「……いますよ。兄が。一人」


 セナさんが少し俯いて言った。カバンの肩紐を両手で持ち直した。指が白くなるくらい強く握っていた。


 「そうですか」と俺は言った。


 「試験に合格して——それから、来なくなったんです」


 俺は黙った。


 九十九回、この話を——なんとなく「そうですか」で流してきた。「セナさんの話の一つ」として、記録としての情報として、処理してきた。今日初めて、「聞いている」という感覚があった。


 なぜ今日は違うのか、俺には分からない。セナさんが六分遅れて来たから? それとも銀髪の男と話したから? 何かが、この百三回目の一日を少し違う色にしている。俺の中の何かが「今日は、ちゃんと聞こう」と決めている。九十九回流してきた言葉を、百回目に受け取ろうとしている。


 「連絡も来なくて。一度だけ、人づてに会えたんですけど——なんか、すごく変だった」とセナさんが続けた。「目の色が違って、笑い方が違って、私が知ってる兄じゃなかった」


 「……目の色と、笑い方が」


 「そうなんですよ。顔は同じなのに、中身が別人みたいで」セナさんが少し顔を上げた。榛色(はしばみいろ)の目が、少し揺れていた。「試験に合格したら、変わるんですかね。合格した人って、みんなそうなのかな」


 俺には答えがなかった。


 正確に言えば、答えを持っていない。合格した後に何かが起きているという感覚はある。でもその「何か」の正体をまだ知らない。合格したことがないから。だから、答えられない。


 「……分からないです」と俺は言った。「でも、気になります。そのことが」


 「私も気になってます」とセナさんが言った。「でも聞ける人がいなくて。兄とはもう話せないし、他に合格した人を知らないし」


 二人でしばらく並んで歩いた。


 広場を出て、中央区の石畳(いしだたみ)の道に入ったところで、セナさんが口を開いた。


 「……兄の話、聞いてくれてありがとうございました」


 俺が振り向いた。


 「あまり話せなくて」とセナさんは続けた。「あのことを誰かに言うのって、久しぶりで」


 「そうですか」


 「なんかすっきりしました。変なこと言ってすみません」


 「変じゃないです」


 「ありがとうございます」


 セナさんが少し微笑んだ。口の両端がゆっくり上がって、目が細くなる。そのまま「また次回、頑張りましょうね」と言って、馬車乗り場の方へ曲がっていった。カバンが揺れる。左肩が少し下がる。


 俺はその背中が見えなくなるまで、立ったまま見ていた。


 ありがとうございました——と言ってもらったのは、いつ以来だろうか。セナさんにそう言われたのが、百三回分の中でいつだったか、ちゃんと覚えていない。きっと言われたことがあったはずだ。でも「ちゃんと聞いていなかった」から、記憶として残っていない。


 今日は、ちゃんと聞いた。


 だから、残っている。


 今日のセナさんの言葉は、明日の彼女には届かない。明日の彼女は今日の会話を覚えていない。でも俺には届いた。百三回分の「またいつもの初対面」の中で、今日初めて、ちゃんと届いた。


 「……それで十分だ」と俺はつぶやいた。


 それだけで十分だ、と思った。明日に繋がらなくていい。今日一日、届いた。それが俺には、残る。


――――――――――


 外縁区への道を歩いた。


 曇り空が夕暮れに向かっていた。太陽は雲の向こうにあるので、はっきりした夕焼けにはならない。空全体が薄く橙がかった灰色になっていく。外縁区の路地は光が届きにくいので、もっと早く暗くなる。石畳(いしだたみ)の路面が少し湿っていた。雨は降らなかったが、空気は水分を含んでいた。足音が少し変わる——乾いた石畳(いしだたみ)と、湿った石畳(いしだたみ)とでは音の反響が違う。


 今日の「いつもと違うもの」を整理した。


 セナさんが六分遅れて来た——小ズレ。銀髪の男が「無資格者がここまで来るのは珍しい」と言った——これはズレではなく、単に彼の言葉かもしれない。でも気になる言葉だった。ガルドさんの「毎年」は今日は「毎年」に戻っていた——昨日の「毎回」は一時的な滑りだったのか、それとも「毎年」の日と「毎回」の日が混在しているのか。


 そして——セナさんの兄の話。


 合格したら、目の色が変わって、笑い方が変わった。中身が別人みたいになった。


 これは以前から知っていたことだ。でも「知っていた情報」と「ちゃんと聞いた話」は違う。今日はちゃんと聞いた。温度があった。セナさんが目を少し揺らして話す声の重さが、今日の俺には届いた。


 合格した先に、何かがある。


 試験に受かることが「勝利」かどうか——俺はまだ知らない。でも、知らないままでいてはいけない気がしてきた。


 路地の角を曲がった。


 足元の石畳(いしだたみ)が、古くて欠けたものに変わった。外縁区だ。


 今日の死因:外縁区に入ったところで、老朽化した建物の壁の一部が崩れて直撃した。上を見ていなかった。昨日は出窓で、今日は壁。外縁区の建物はどこも老朽化が進んでいる。


 百三回分の死に方の中でも、情けなさ上位に入る死だった。


 また、朝が来る。百四回目の朝が。


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